惹かれ合う二人
「…………」
――朝だ。
カーテンの隙間から差し込む陽光によって目を覚ました九嶺キラは、ぼんやりとした頭で見知らぬ天井を見つめていた。
「……ここは……?」
誰に投げかけるでもなく、ぽつりと呟いたキラは上半身を起こすと、室内をぐるりと見回した。
そこは病室だった。白い壁に囲まれた部屋の中には机と小さなテレビが置かれている。
本当に何の変哲もない、普通の個室。
ただ一つ違う点を挙げるとするならば、部屋の隅の椅子に、本を片手にひっそりと座っているキラの養母・九嶺サツキの姿があるということぐらいだろうか。
「…………あ、おはようお母さん。今日はお仕事に行かなくていいの?」
目の下に見る目もあてられないほどの隈をつくっているサツキに、どう声をかけるべきか迷ったキラは、とりあえず反応を伺うべく適当に声をかけてみる。
すると、サツキは一瞬だけ肩を震わせて、
「――え? ……ああ、うん。そうね。なんとか病院に頼み込んで、休みを取らせて貰ったから私の方は大丈夫」
ぎこちない笑みを浮かべながら、サツキは手にしていた本を閉じ、それを傍らに置くと、ゆっくりと立ち上がる。
「……それよりも、昨夜はなにがあったの? 友達とご飯を食べに行くって連絡をしてきたきり、一向に帰ってくる気配はないし、私が緊急で病院に駆け付けた時には、あなたはもうこの部屋に運ばれていて、昏睡状態だったんだから」
言って、サツキは不安げな眼差しでキラの顔色を窺いながら、彼女の手を優しく包むように握る。
……握られたその手は僅かに震えていた。
それもそのはず。
いくら養子とはいえ、七年間も女手一つ愛情をたっぷりとかけて育ててきた愛娘が、突如として病院に運ばれたのだ。
心配しない親などいるはずがない。
もし、心配しない親が居たとしたら、それは紛れもなく、人の形をした化け物だけだ。
そんなサツキの想いに気がついたキラは視線を逸し、
「……えっと、ごめんなさい。少し記憶が曖昧だから、お母さんの質問には答えられそうにないや」
嘘の言葉を口にする。
――……言えないよ、そんな顔されたら……。
本当は全てを覚えているのに、覚えていないフリをするというのは罪悪感が伴うものだったが、それでもキラは真実を語る訳にはいかない。
夜の学校のことはもちろん、庭で倒れるまでの経緯を話せば、必然的に『仮面の女』についても言及することになる。
そして、そうなれば当然、サツキはキラの時と同様に口封じの為、あの女に命を狙われる可能性がでてくるわけで。
――嫌。我が身可愛さに大切な人を危険に晒すなんて、絶対にイヤ。
そんなことをしてしまった瞬間には、自分で自分を許せなくなってしまう。
「…………そっか。なら、仕方がないか。
けどね、本当にすごく心配したのよ。もしかしたら、巷で噂の殺人事件に巻き込まれちゃったんじゃないか、って」
「……本当にごめん。私のせいで色々と心配させちゃって。仕事も休ませちゃって。……人の命を救う大切なお仕事なのに」
ぎゅっ、とサツキの手を握り返しながら、キラは申し訳なさに顔を俯かせる。
「いいのよ、謝らなくても。医者だなんだってのは所詮、ただの仕事に過ぎないし。
それに、こういう時はごめんなさいじゃなくて、ありがとうよ。人ってのは皆、誰かに支えられて生きているものなんだから」
「……そうだね。……うん、わかった。
ありがと、お母さん」
サツキの台詞に若干の照れ臭さを感じたキラは頬をほんのりと赤く染めつつも、満面の笑顔を浮かべて、素直に感謝を告げた。
すると、サツキもまた、嬉しそうに微笑み、「どういたしまして」と言葉を返す。
……なんだか、久しぶりにお母さんの笑みを見た気がする。
昨日の朝も笑ってくれた筈なのだが、あれはなんというか、寂しい笑い方だったような印象を受けるから不思議である。
「……ところで、身体の調子は大丈夫? どこか痛むところとかはない?」
「うん、大丈夫だよ! むしろ、体調はすこぶる良いくらいだし!! ほら、見てよ、この上腕二頭筋をッ!!!!」
キラは元気よく答えると、腕まくりをして力瘤をつくってみせる。
「いや、それって身体の健康とはあんまり関係ないんじゃ……」
「細かいことは気にしない!」
「えーと、はい」
呆れたように苦笑しつつも「まぁ、元気になったみたいで良かったわ」と付け加えて、サツキは安堵のため息をついた。
「でも、念の為に今日のところは検査入院ということで、一日様子を見ておきましょう。
それで異常がなければ、明日には退院して学校に行けるはずだから。それまではゆっくりしておくこと。いいわね?」
「え……」
「いいわね?」
有無を言わせないサツキの笑みに、うわぁ、とキラは絶句した。
――これはもう、脱走できないパターンだ。
「……はい、わかりました。大人しくしています」
「よろしい。それじゃあ、私の方から学園の先生に話を通しておくから、今日はゆっくりと休むのよ?」
「……はい」
踵を返し、病室から出て行こうとするサツキに、キラは渋々返事を返す。
「……あ、それと最後に」
が、そこでサツキはふと思い出したかのように扉の前で足を止め、
「昨夜、あなたが病院に運ばれたあとに、警察から連絡があってね。
なんでも、昨夜のことで事情聴取を行いたいらしいんだけど、大丈夫かしら? もちろん、あなたが良ければの話だけど」
一切、振り返ることなく淡々と言葉を紡いだのであった。
◆◇◆
検査入院を負え、無事に退院することができた翌日。
キラはいつものように制服に身を包み、通学路を歩いていた。
時刻は既に八時を過ぎており、辺りにはちらほらと学生の姿が見られる。
――……結局、あの後、警察の人から色々と話を聞かれたりしたせいで、あまり寝ることができなかったな。
なんてことを考えながら、あくびを噛み殺しつつ歩いていると、
「おっはよう、我が友!」
背後からの突然の衝撃に、思わず前のめりに倒れそうになる。
……が、なんとかぎりぎりのところで踏ん張ると、キラは首に絡みつく腕を無理矢理に引き剥がし、怨恨の意を込めた視線だけを後ろに向けた。
「……おはよ、アヤメちゃん。今日も今日とて朝っぱらから絶好調だね」
そこには案の定、意地の悪い笑みを浮かべている坂月アヤメの顔があった。
「うむ、相変わらずのなんとも言えない微妙な反応。やっぱり、我が友はこうじゃないとねぇ」
「かく言うアヤメちゃんこそ、登校の時くらいはもう少し落ち着きをもって行動してほしいかな。ただでさえ、その眼帯のせいで悪目立ちしてるんだから」
キラはため息混じりに呟いて、彼女の右目を覆い隠している黒い布に冷たい視線を向ける。
「それは違うぞ我が友! 我が右目に宿る悪魔の力は、この身を滅ぼすほどに強大だから封印しているのだ!! 決して、かっこいいからとかそういう下らない理由ではない!!」
むっ、と唇を尖らせながらも力強く否定するアヤメの言葉を聞き、
「……あのさ、アヤメちゃん」
キラは呆れ顔で言葉を続ける。
「前にも言ったと思うけど、厨二病を拗らせるのもほどほどにしないと友達無くすよ?」
「だっ、誰が厨二病だ!? 我は断じてそのような病気を患ってなどいない!! 」
「いや、だって。実際にそうでしょ? 中学の時とか、ごっずおーだーだとか、なんとかいう恥ずかしすぎる二つ名を名乗っていたせいで、私以外に友達いなかったじゃん」
「ぐっ……そ、そんな昔のことなどどうでもいい! 我はひたすらに前に進む女なのだからなッ!」
「はいはい、そうですねー」
キラが適当にあしらうように相槌を打つと、アヤメは不機嫌そうに頬を膨らませて睨みつけてくる。
しかし、すぐに諦めたのか、はぁ……とわざとらしく肩を竦め、
「……まぁ、良い。それよりもだ、我が友よ。一昨日のことで一つ話があるのだが――」
「その件に関してはごめん。せっかくご飯に誘ってくれたのに、私の都合で台無しにしちゃって」
アヤメが本題を切り出すよりも先に、キラは頭を下げて謝罪した。
……いくら事件に巻き込まれたからと言って、約束を反故にしてしまった事実に違いはない。ならばせめてもの償いとして、誠心誠意を込めて謝罪をするべきというのがキラの考えだった。
だが、しかし。
「……あー、それに関しては別に謝らなくてもいい。そっちにだってそれなりの事情が合ったのだろう?」
当の本人はといえば、気にする素振りすら見せず、あっさりと許してくれた。
普段の彼女なら、『なぜ来なかった?』と問い詰めてくる筈なのに。
――……あ、あれ? なんか思ってた展開と違う……。
キラは予想外の反応に言い表せないような恐怖を覚えつつも、頭を上げて、
「……ほんとうに怒ってない?」
恐る恐る探りをいれてみると、アヤメはまたもや不満げに頬を膨らませる。
「くどい。その程度のことで怒るバカがどこにいるか」
「で、でも……」
「でも、ではない。それともなにか? 我が友は怒られたいのか? まさか、そういう特殊性癖の持ち主か何かだったりするのか……?」
うわ、と少し引き気味に顔を歪めるアヤメに、キラは慌てて首を横に振る。
「ちっ、違うよ! ただ私は……」
「ただ私は?」
「……いや、なんでもない」
……言えるわけがない。アヤメがあまりにも優しすぎて不自然だと感じるなんて。
……もしかすると明日辺りには槍でも降ってくるのかもしれない。
「そうか。では話を戻すが、我が友よ。我と別れたあの後、学園で何があった? 朝になって登校してきてみれば、校庭の至る所に変なクレーターができているわ、校舎の窓は一部割られているわで、大変だったのだぞ」
「……えっと、それはご愁傷さまで」
「ご愁傷さまで、じゃないバカ。もしかしなくても、また変なことに首突っ込んだとかそういうんじゃないだろうな?」
「……、」
アヤメの鋭い指摘に、キラは息を詰まらせ、硬直してしまう。
……が、それも一瞬。
「ちょ、なにを言っているのか訳がわからないよ、アヤメちゃん。そもそも、どうして私がそんなめんどくさそうなことに巻き込まれてると思うの?」
すぐさま笑みを取り繕い、『いつも通りの自分』を演出しようとしたキラであったが――アヤメは見逃さなかった。
少女の瞳の奥で微かに揺れ動く動揺の色を。
「どうしてって、そんなの決まってる。お前は出会ったその時から、そういう奴だからだよ」
アヤメは嘆息混じりにそう言って、右手を伸ばして、キラの額を指先で軽く弾いた。
「あいてっ」
「それに、我が友は嘘をつく時は必ずと言っていいほど、視線が泳ぐ。今もほら、目が泳いでいるではないか」
「うっ……」
アヤメの言葉通り、キラは指摘された瞬間から無意識のうちに視線を彷徨わせていた。
……しまった。これじゃあ認めてしまっているようなものじゃないか。
自身の失態に気がつき、後悔するがもう遅い。
アヤメは勝ち誇った表情を浮かべ、再びキラの背後を取ると、首に腕を回し、逃さないと言わんばかりにぐいっと、身体を密着させてくる。
「さぁ、我が友よ。さっさと白状しろ。一体どんな面倒事に巻き込まれた? 正直に言えば我が手を貸してやらんこともやぶさかではないぞ?」
耳元で囁かれる吐息交じりの甘い誘惑に、キラはぶるり、と身を震わせる。
「だっ、大丈夫だってば! アヤメちゃんがわざわざそこまでして気にするほどのことでもないし、第一、こういう時のアヤメちゃんは私が何を言っても、言葉を厨二的解釈して勝手に暴走するでしょ!?」
咆哮するかのような声音を周囲へと撒き散らしながら、自身の首へと絡みつくアヤメの腕を強引に引き剥そうとするが、思っていた以上にがっちりとホールドされており、なかなか抜け出せそうにない。
「おいこら、そんなに暴れるな。我とて女の子。力づくで来られると少し怖い」
「頬を赤らめながら少し怖いじゃないよ、もう! 怖いんだったら、離せば良いじゃん! というか今すぐ離して!!」
「だが、それとこれとは別だ。我が友が素直さんになるまでこの手を緩めるつもりはない。そう、我が友が素直さんになるその時まではー」
クツクツと胸の奥底から湧き上がってくる愉悦を噛み殺しながら、アヤメはキラの背中へとたわわに実り始めている二つの果実を押し当て、ぐりぐりと擦るように動かし始めた。
「ひゃうっ……!」
制服越しではあるものの、背中を這いずり回る柔らかさに、キラは思わず艶めかしい悲鳴を上げ、身体を大きく仰け反らせる。
「ふむ。しかし相変わらずどこも敏感だな。実に弄り甲斐がある。どうだ? もうそろそろ素直さんになった方が色々と楽になれると思うんだが」
「いや、素直になるとかいう以前に、普通にセクハラだし……ッ! 一瞬でもアヤメちゃんのことを優しいとか思った自分が馬鹿みたいじゃん……っ!!」
「馬鹿みたいもなにも、お前はずっと前から大馬鹿者だろ。なにを今さら」
「酷い!? それと私が素直にならないのは警察の人に口止めをされているのと、危険なことからアヤメちゃんを遠ざけたいからだからね!? ならないというよりかは、なれないと言った方が正しいかな!!」
「だったら、何故、それを早く言わない!? 我はただ、我が友が困っているのなら助けになりたいと思って聞いているだけなのに、なんで意地を張る必要がある!? 変に恥をかいてしまったではないか!!」
「知らないよ、そんなこと!! 恥ずかしい思いをしたくなかったら、私に抱きついてこなければいいだけの話じゃん! 」
「ん、それもそうだな」
「えっ、えぇ……?」
先ほどまでの言動から一転して、あっさりと拘束を解くアヤメに、キラは思わず目を丸くする。
――……あれ? なんだか思ってた展開と違うような……。
普段の彼女ならば、ここでさらによくわからないことを口走る筈なのだが、今日に限って妙に聞き分けが良すぎる。
――……なんか、これはこれで逆に気持ち悪いんだけど……。
まるで嵐の前の静けさのような気味の悪さを感じながらも、なんとなく今ここで深く言及すると碌な目に合わない気がしたキラは、あえて黙っておくことにするのだった。
◆◇◆
「これにてホームルームを終了します。日直さん、号令をお願いします〜」
「きりーつ、気をつけ、礼」
「「ありがとうございましたー」」
「は〜い、皆さんさよならです。寄り道はせずにまっすぐお家に帰るんですよ~」
担任の女性教師がお決まりの台詞を残して教室から出て行くと同時、クラス内は一気に騒々しくなる。
ある者は友人達と共に談笑を始め、またある者達は鞄を手にして一目散に廊下へと飛び出していく。
それは、ここ第八魔剣士学園においても例外ではなく、生徒達は思い思いの行動を始めていた。
そんな中、キラはというと――
「――あの、九嶺さん。お時間、ちょっとよろしいでしょうか?」
「……へっ? あっ、うん。いいけど……」
隣の席に座る転校生――黒瀬ナギサから声をかけられ、反射的に首を縦に振っていた。
――……しまった。つい勢いでOKしちゃったけど、一体何の話だろう……?
ナギサとは一昨日の昼休みに食堂で少し言葉を交わして以来、会話らしい会話はしておらず、せいぜい会釈をしてきたら、それに返す程度しか関わり合いがない。
……いや、そもそもの話として、九嶺キラという人間自身が黒瀬ナギサという一人の少女に対して、顔を見たその瞬間から特別な関心を抱いており、想像するだけでもついむず痒くなってしまう感情との折り合いが、未だにできていないのが現状だ。
つまり、今のキラにとって彼女との対話は少々ハードルが高い。
故に、どうしても及び腰になってしまうのだが、当の本人であるナギサがそれを察してくれる由もなく、澄んだ漆黒の瞳でじっと見つめてくるものだから、余計に居心地が悪い。
「そうですか、なら良かった。私ったら、あまり庶民の方とは関わりがなくて、失礼をしてしまっているのではないかと心配していたんです。あぁ、よかった。九嶺さんにいい返事を貰えて」
ほっと安堵のため息を漏らすと同時、花が咲いたかのような可憐な笑顔を浮かべるナギサに、キラは頬が熱くなるのを感じ、慌てて視線を逸らす。
「……」
――やばい、かわいい。
彼女の浮かべる表情の一つ一つがキラの心を強く揺さぶる。
今までに経験したことの無い胸の高鳴りに、キラは戸惑うばかりであった。
「……? どうかされましたか、九嶺さん? 急に顔を赤らめられたりして……まさか、私の見間違いでなければ体調が悪くなったとか……?」
「えっ? い、いや、なんでもないよ! 全然大丈夫だから!」
「ですが、やはり少し様子がおかしいです。 もしかして、風邪か何かを引かれているんじゃ……少し額をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「いや、ほんとに大丈――」
「無茶は禁物です。動かないでくださいね」
「ちょっ……!」
断りを入れる暇すら与えず、ナギサはキラの額に掌を押し当て、体温を測り始める。
――……う、うぅ……恥ずかしい……。
唐突のスキンシップに、キラはただでさえ火照っている身体をさらに紅潮させ、顔を俯かせる。
一方、ナギサはというと、キラの反応を特に気にすることなく、真剣な眼差しを向けながら、「ふむ」と小さく呟きつつ、さらに数秒間ほど押し当て続けると―――ようやく手を離した。
「……どうやら、本当に大丈夫みたいですね。ひとまず安心しました」
「そ、そっか、ありがとうね。わざわざ私の心配までしてくれて」
「いえ、こちらこそいきなり不必要に身体に触れてしまい、申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」
ぺこりと頭を下げるナギサに、キラは苦笑を零す。
「ううん、別に謝らなくてもいいよ。私のためにしてくれたことだし……」
「……そう言って頂けると助かります」
ホッとしたように肩の力を抜き、再び微笑みかけてきたナギサを見て、キラもまた自然と口元に笑みを作る。
「それで、話ってなにかな? わざわざ私なんかとスキンシップを取るためだけに話しかけてきたわけじゃないんでしょ?」
「はい。実は九嶺さんに折り入って、お尋ねしたいことがあるのですが……」
そこで言葉を区切ると、ナギサはきょろきょろと首を振って、周囲を見渡した。
教室には相変わらず多くの生徒達が残って談笑をしており、男子生徒達に至っては、チラチラとナギサに熱い視線を送りながら、
「……やっべぇ……、俺も黒瀬さんに体温測られたい……」
とか、
「……くっ、僕の心があの二人の間に挟まりたいと叫んでいる……」
とか、鼻息を荒らげて、訳のわからないことをぶつくさと宣わっている始末。
うわ、と蔑みとも取れるような冷めた声がナギサの口から聞こえたような気がするが、完璧すぎるまでのナギサの美少女ぶりから考えて、それは有り得ないだろうという結論に、キラは即座に思い至る。
「――その前に……そうですね。一旦、場所を変えませんか? 人の居るところでこのような話を切り出すのは、少し憚られますので」
「うん、わかった。そういうことなら、どこか話をするのに良さそうなところ――あっ、そうだ。管理棟の屋上なんてどうかな? あそこなら、色々と話もしやすい思うんだけど」
「なるほど、確かにそれはいい案かもしれませんね。では、早速向かいましょうか」
キラの提案にナギサは二つ返事で了承すると、二人は揃って教室の外へと出る。
そのまま渡り廊下を通り抜け、階段の方へと向かう途中、キラはおもむろにナギサへと問いかけた。
「そういえば、自己紹介の時からずっと疑問に思っていたんだけどさ。黒瀬さんって、一応というかなんというか、黒瀬財閥の令嬢さんなんだよね?」
「? ええ、そうですが……なにか気になることでも?」
「まぁ、そうだね。どうして、この微妙なタイミングで、転校してきたのかが少しだけ気になって」
「……」
後ろで歩みを止め、黙り込んでしまうナギサに、聞いてほしくないことを聞いちゃったかな、と不安に駆られたキラは、慌ててフォローの言葉を口にする。
「あ、ごめん! 言いたくないことだったら、無理して言わなくていいから! ただ、ちょっとした出来心というかなんというか――」
「……いえ、構いませんよ。隠していてもいずれはバレてしまうことでしょうから」
慌てふためくキラに、ナギサはふっと口元に小さな笑みを浮かべると、ぽつりと小さな声でこう言った。
「……こう見えても私、家の中ではとっても悪い子なのです」
「……へ? それ、どういう意味?」
「言葉通りの意味ですよ。私は常日頃から兄姉と喧嘩ばかりしていて、いつもお父様に叱られているんです。
お前には黒瀬の人間としての責任があるのかと。
ですが、いくら言われても一向に改善の兆しが見えず、ついには本家のある京都の街から遠く離れた、この学園まで送られてしまった次第です」
お恥ずかしい話ですよね、とナギサは曖昧に笑った。
その笑顔には、どことなく諦めと寂しさ、自嘲の色が隠されているように見えて、キラの心を酷く締め付けた。
「そっか……だから、こんな中途半端な時期に――」
「ええ。ですので、本来であれば今頃は京都の第一魔剣士学園に在籍しているはずです。……まあ、その件については、あまり深くは考えないようにしていますが」
「…………」
ナギサの言葉に、キラは何も言えなかった。
彼女の境遇について何も知らなかった自分が、下手な慰めを口にしたところで何になる。
人の家の事情に口を出して何になる。
むしろ、余計に傷つけてしまうことになるのではないか――そんなことを考えているうちに、掌に爪が深く食い込んでいた。
「……ッ、」
手の中を走る、葛藤の電流にキラは唇を噛みしめた。
キラは自分のことがよく分からなかった。
『お前には黒瀬の人間としての責任があるのか』という冷たい言葉に、僅かなりにも同意を禁じえなかったからだ。
――力を振るう者には、それ相応の責任が伴うべきである。
それは、九嶺キラがこの第八魔剣士学園に入学するにあたってサツキから言われた言葉だ。
当時のキラはその言葉の意味するところを掴みかねていた。
漠然と『責任』なんていう難しい単語を使われても、その『責任』がなんであるかを熟考したことが無かったからだ。
しかし、今この場でその『責任』について考えてみるとどうだろうか。
黒瀬財閥といえば、世界で唯一、魔剣の製造を行える企業であり、魔剣というのは使徒と呼ばれる化け物達に対抗できる装備の総称である。
それはつまり、黒瀬財閥に人類の命運が委ねられているのと同義である。
そんな大企業の娘が、まさか自分の兄姉と喧嘩ばかりしているだなんて、聞いて呆れる。
それを幾度にも渡って叱ったとしても、改善の余地が無いとなれば、このような結果に落ち着いてしまうのは必然。
家から勘当されなかっただけ、まだ情があるというもの。
だがその考えは、黒瀬ナギサという一人の少女を人間として、あまりにも軽んじすぎている。
黒瀬ナギサという人間はまだ大人にすらなっていない。ならば、間違いを犯すことがあるのもまた必然。
それを黒瀬の娘だからという理由で、ナギサを裁こうとするのは、人として間違っている気がした。
――結局のところ、何が正しくて、何が間違っているのかを決めかねているというのが、キラの胸の中の現状だった。
「――もうすぐ、目的の場所に着きますよ! 九嶺さん!」
思考の海を漂っていたキラの意識は、ナギサが無邪気な笑顔を浮かべて、手を掴んできたことによって現実へと引き戻された。
下校する生徒たちの喧騒が随分と遠くから聞こえてくる。
……何となく、二人だけの場所に来たんだという実感がキラの胸に湧き上がっていた。
屋上へと続く扉を開け、二人は揃って屋上へと出る。
そして、ナギサは屋上の端の方へと歩み寄ると、くるりと身体を回転させながら、屋上からの景色を見渡した。
「……ふぅん、なるほど。これは中々の眺めですね」
言って微笑むナギサの横顔は、とても綺麗で、まるで一枚の絵画のようであった。
思わず見惚れてしまうような光景に息を飲みながらも、キラもまたナギサの隣に並び立つと、同じように屋上からの景色を一望する。
視界いっぱいに広がる、夕日に染まる街の情景。
沈みゆく太陽によって空が茜色に染め上げられており、ノスタルジックな雰囲気を感じさせた。
――……この時間が永遠に続けばいいのに。
「――それで、話っていうのは?」
「……はい」
キラの問いかけに、ナギサは小さく返事をする。
そして、しばらくの間、沈黙の時間を設けると、ナギサは深く空気を吸い込み、纏っている雰囲気を一変させた。
「……あなたは一体、何者なのかしら? ――ねぇ、九嶺さん?」
先程までの可憐な美少女ぶりとは打って変わって、そこには有無を言わさぬ迫力があった。
声色は氷のように冷たく、漆黒の視線は刃のような鋭さを孕んでいる。
そこに居たのは、紛れもなく黒瀬の名を冠するに相応しい令嬢の姿であった。
「……ッ!?」
突如として豹変したナギサに、キラは目を大きく見開き、反射的に一歩後ずさる。
それは、今まで一度も見たことのない、彼女のもう一つの姿。
その威圧感は、まさに王者の風格と呼ぶに相応しく、その眼光には確かな覚悟が宿っていた。
――これが彼女の本気の姿――。
そう確信するのに、キラは時間を必要としなかった。
「なっ、何を言って――」
「誤魔化しても時間の無駄よ。一昨日の夜、あなたが廊下で心臓を貫かれて、死んでいたのはこの目で確認済み。だというのに、あなたはなんかしらのトリックを使って蘇り、何事も無かったかのように登校してきた。これって一体どういうことか、説明してくれる?」
冷たく言い放ちながら、一歩、また一歩と、獲物を狙う捕食者のような足取りで、じりじりと距離を詰めてくるナギサに、キラもまた距離を取ろうと、一歩ずつ後退していく。
しかし、それも長くは続かない。
「――ひゃっ!!」
変な段差に足を取られたキラは、悲鳴を上げながらバランスを崩した。
その隙を逃すまいと、ナギサは素早くキラとの距離を縮めると、そのまま両手で手首を掴んで床に押し倒し、馬乗りになって動きを封じる。
あまりにも一瞬の出来事に、キラは抵抗することもできず、ただ呆然と目の前の少女の顔を見上げることしかできなかった。
「へぇ、本当に不思議な人ね。普通なら、こんな状況になったらもっと慌てるはずなのに……。それとも、本当は私が思っているよりも肝が据わっていたりするのかしら……?」
「ッ、そんなわけないじゃん! 私、こういうの苦手だし……」
「あら、そうなの。それは好都合だわ」
「えっ、ちょ、ちょっと待って! 何するつもり!?」
ニヤリと口角を上げるナギサに貞操の危機を覚えたキラが慌てて抗議の声をあげる。
だが、そんなことはお構いなしとばかりに、ナギサはゆっくりとキラの頬に手を添えた。
「何って、さっき言ったばかりでしょ。あなたが人間なのか、それとも使徒なのか。それを確かめるだけよ」
「そ、そんなこと急に言われても! ていうか、まずは話し合いから始めよ!! ほ、ほら、私たち同じクラスメイトなんだしさ!」
「残念だけど、私は他人のことをあまり信用していないの。それに、話すことなんて何も無いでしょう? だって私たちはお互いのことをまだよく知らないもの。だったら、こうしてしまった方が確実じゃない」
「た、確かにそうかもしれないけど! でも! だからといって! 女の子同士でそういうことするのはどうかと思う! えっちなのはちょっと……っ!」
「……えっち……? 言っている意味がよく分からないのだけれど。なにか変な勘違いを――って、え、ええええええ、えっち!? なに変なことを想像しているの、九嶺さん! 同性同士でそんな……いかがわしい!!」
キラの上に跨りながら、顔を真っ赤にして叫ぶナギサ。
その姿はまさしく純情な乙女そのもので、とてもではないが、黒瀬の名を冠するに相応しい令嬢とは思えなかった。
「ち、違うの!?」
「あ、当たり前よ! そもそも、どうして私が九嶺さんとえっちをするということになるの!? というか、よくもまぁ、この状況でそこまで考えられるものね! 逆に感心するくらいよ!!」
「じゃ、じゃあさ、私の上に乗っかってる理由は!? これってもしかして、そういう行為の体勢なんじゃないの!?」
「こ、これはもしあなたが使徒だった場合、すぐに殺せるようにするために決まっているじゃない!! それ以外に理由があるとでも言うつもり!?」
「ふ、ふーん、なるほどね。……あれ、ということはつまり、場合によっては私を殺すつもりだったんだ?」
「…………、」
キラの言葉に、ナギサは眉をピクリと動かして沈黙する。
どうやら、反応を見るからに図星らしかった。
どうしたものか、とキラが様子を伺っていると、やがてナギサは落ち着いた表情で小さく息を吐き、頬をつねってくる。
「あいだだだだだ! 急になにするの、黒瀬さん!! 暴力に訴えるなんて、多分だけど黒瀬さんの柄じゃないでしょ!!」
「……うっさい。私はただ危機的状況にも関わらず、ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべているその顔が気に食わないだけよ。いいから私の気が済むまで我慢してなさい」
氷のような冷たさで言うと、ナギサは更に力を込めてキラの頬を引っ張った。
襲い来る痛みに、キラは必死に抵抗するが、身体を押さえつけられているため身動き一つ取れない。
――ひどい……。どうして私がこんな……。
結局、キラが解放されたのは、それから十分以上経ってからの事であった。
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