第二話④ 3日目④


「レイヤ、よくもわたしから逃げてくれた。許さない」

「ちょ、待、苦し、息がしにくッ!」

「だめ。もう逃がさない」


 その後、外から鍵を開けて強引に中に入ってきたクジラコは、おれをぎゅむっと抱きしめてくれやがった。柔らかい感触に包まれたおれだったが、実際は呼吸がし辛いのなんのでしんどい。

 暴れようとしたが、大きくて力の強い彼女によって全く身動きが取れないままだ。


「で。この女は誰? わたし知らない」

「き、君こそ、誰だい? 急に、入ってきて」

「わたしはクジラコ。このネバーランドゲームにおける、レイヤの遊戯進行及び生活補助型機械人形ティンカー・ベル、試作機タイプゼロ


 コトワリと自己紹介を終えたらしいクジラコが、更に強くおれを抱きしめた。あっ、もう息ができない。


「あなたが誰かは知らないけど、レイヤは渡さない」

「ッ!」


 誰かと聞いておいて聞く気もないクジラコの様子には、変な笑いが出てきそう。

 周囲の状況も分からないし、いや待って。それ以前に、絶対的に酸素が足りてないの。遂には酸欠で意識が遠のいていく感覚がある。寝る前みたいな感じの。


「……そっか。あなた、なんだね」

「大丈夫ですかーッ!?」

「ぶはーッ!? スゥゥゥ、ハァァァッ!!!」


 ボソっとコトワリが何かを呟いた後、この場にいる誰でもない声が響いてきた。それに気を取られたクジラコの拘束が緩んだ一瞬を見逃さず、おれは彼女から離れることに成功した。

 一気に空気を吸い込んで、盛大に吐き出す。肺に酸素が満ちていき、一気に楽になっていく。これだよ、欲しかったのは。酸素最高。


「っていうかあなた何者ですかッ!? 稼働中のゴンドラの扉を開けるなんて、なんて危ないことをッ!」

「レイヤがいなかったんだから仕方ない。ティンクとして、当然のことをしたまで」


 顔を上げてみれば、青と白のスタッフ制服に身を包んだ係員さん達に取り囲まれていた。気が付けば、もう地上に戻ってきていたらしい。

 口々に放たれるのは、運転中のゴンドラに飛び掛かってくれやがったクジラコへのお叱りばかり。それを受けても、謝る気が一切ないクジラコ。うん、これ、おれも謝らないと駄目な気がする。


「あーッ! あのおっきいお姉ちゃん、ピーター・パンと一緒にいる人だーッ!」


 外に出て頭を下げ始めたおれの耳に、とてつもなく不穏な一言が聞こえてきた。恐る恐る顔を上げてみれば、こちらを指さしている幼い金髪の女の子の姿がある。

 その指の先が、こちらに向いた。同時に、おれの頭上に文字が現れる。


「ピーター・パン見つけたーッ!」

「逃げるぞクジラコッ!」

「逃がさない。レイヤ、またわたしから逃げる気?」

「ちっげーよ、このままじゃ捕まるんだよッ! 察してッ!?」


 逃げようとしたおれの襟首を掴んで、ジト目でこちらを見てくるクジラコ。

 いや、うん。逃げたのは後でいっぱい謝るから、とにかく今は走らせて。このままだとおれのネバーランドゲーム、ここで終わりになっちゃうの。


 必死の訴えが何とか通じて、クジラコはおれを離してくれた。


「ワリイ、コトワリッ! 後で連絡するッ!」

「あっ……」


 状況の激動に呆気に取られていたコトワリに向かって、おれはそう叫んだ。さっきのことから推測される、彼女の想い。それが分からない程、おれも馬鹿じゃない。言葉にこそされなかったけど、十二分に伝わって来た。

 だが今は、それどころじゃないのも事実だ。時間をください。おれは彼女の返事を待たないままに、駆けだした。


「レイヤ、今日はたくさん狙われてる。でも安心して欲しい、わたしがいるるるるるるる」

「ほとんどはお前の所為なんだよ、っつーか遂には言語中枢までバグってきてんのかド畜生がァァァッ!!!」


 原因である自覚が全くないこのポンコツティンクを、誰かどうにかしてください。

 おれは悲鳴に近い声を上げながら、本日四度目の逃亡を開始するハメになった。



「行っちゃった、ね」


 レイヤがネバーランドゲームの参加者と共に姿を消した後、観覧車の前に残されたコトワリはポツリと呟いていた。ゆっくりと歩き出すと、近くにあった手すりに腰を下ろす。


「……聞くだけのつもりだったんだけど、ね」


 思い出されるのは、観覧車のゴンドラ内での出来事。久しぶりに彼と過ごした、二人だけの時間。

 彼女としては、最初はただ確認したいだけだった。幼い頃からずっと一緒だったレイヤが、果たして自分のことをどう思ってくれていたのか。自分に彼氏ができてからも、一向に様子が変わらない彼の、心の内を覗いてみたかっただけだった。


「好きだった、か」


 押しに押してみれば、彼はポロっと言葉を漏らした。思っていた通り、自分のことを好きでいてくれた。ここまでは、想定通りだった。

 しかしそれは、過去形だった。今はそうじゃないという、明確な言い回し。


「……ショック、だったな」


 コトワリは眉を下げて、目を伏せる。あの時の自分は、思った以上に衝撃を受けていた。

 好きでいてくれている自信はあった。彼にとっての自分は特別なんだという、自負もあった。その意識は、彼女の中での自尊心にもなっていた。


 それが彼にとっては、もう終わったことになっていたなんて、思いもしなかった。


「やっぱり当てつけみたいに付き合ったのが、駄目だったのかなあ」


 全く彼が告白してくれないことに焦れていた頃、彼女に想いを伝えてくれたのが今の彼氏、ユースケであった。機械人形オートマタの彼は女子の中でもかなり評判の良く、言われた時はこんな素敵な方が好意を向けてくれていたのかと、素直に嬉しかったことも事実だ。

 ただし、彼女の中にはレイヤがいた。最初は素直に断ろうかとも思っていたが、そこで彼女に蛇が囁く。


「私に彼氏の一人でもできれば、焦ってくれると思ったのに」


 見せつけてやろう。焦らせてやろう。自分はいつまでも、お前にとって都合の良い女の子じゃない。モタモタしてたら、こうやって他の人のところに行ってしまうぞと、レイヤに見せつけてやる為に。

 コトワリはユースケの告白を受け、付き合いを始めたのだ。レイヤが反応してくれると思ったから。焦った彼が、何か行動を起こしてくれると思ったから。


 だが。


「全然、変わらなかったからなあ。それにユースケは、良い人だったし」


 いつまで経っても、レイヤは全く態度を変えてくれなかった。そしてユースケは、とても良い人だった。いつでも連絡をくれたし、予定が合わなくても怒ることもない。記念日や誕生日はキチンと祝ってくれる。

 時々は自分のやりたいことを優先させる部分はあったが、それも些事なこと。理想の彼氏くんと言われても頷けるくらいだと、コトワリは思っていた。


「だけど、私は」


 彼女の中には、レイヤがいた。ずっとずっと、離れてくれなかった。これで彼に愛想を尽かせたのなら、話は早かった。ユースケの方を向いて、ちゃんと恋愛していけたのかもしれない。

 実際は、そうはならなかった。コトワリは盛大にため息をついた。


「にしても、あんなにしたのに、言ってくれなかったね。好きだったって言葉、嘘じゃなかったんだ」


 自分の中にある割り切れない思いに決着をつけようと、コトワリは踏み出した。ユースケを捨ててでもレイヤを取ると言ったら、彼はなんて言ってくれるのかと、彼に詰め寄った。

 その結果。


「……レイヤの中には、私じゃない誰かがいた」


 そこまで切り込んで、ようやく彼の心の内が見えた。自分の知らない、別の人が。コトワリにとって、青天の霹靂だった。


「嫌、だった。あんなに嫌だって、思うなんて」


 それは彼女の今までの人生の中で一番のショックであり、彼女は抑えられなくなってしまった。自分が一番好きなのは、自分が本当に心から愛しているのは、誰なのかという気持ちが。

 衝動と同時に焦りが生まれ、気が付くと彼女は彼を押し倒していた。邪魔さえ入らなければ、キスだってしていた。普段は絶対にしないような行動に出るくらいには、彼女自身も冷静ではなかった。


 一番欲しかった言葉をもらえるなら。彼女は今あるものを全て捨てても、良いとさえ思っていた。


「……あそこまでしたって言うのに、何もしてくれなかったね。据え膳食わぬは男の恥。つまり君は、男の恥さらしだ。ふふふっ」


 コトワリは笑ってみた。心からは、笑えなかった。彼が自分に対して来てくれなかったという事実が、あまりにも辛かったから。


「変な意地なんか捨てて、私から言えば良かったのかな。でもユースケと付き合ってる私なんかが、今さら……」


 彼氏を作った以上、もう後には引けない。今の今まで言ってこなかったのだから、向こうから言ってもらうしかない。

 そんな風に考えていた昔の自分を、過去に戻って引っぱたいてやりたかった。


「ばか」


 それは自分に向けてか、彼に向けてか。あるいは両方か。誰への言葉なのか分からないままに、彼女はそう口にしていた。


「ばか、ばか、ばーか」


 何度も何度も、唇は言葉を紡ぐ。コトワリの声は誰にも届かないまま、宙を震わせて消えていく。

 いつの間にか、陽が傾いていた。遊園地の敷地内の照明が次々と点灯を始め、昼とは違う明るさが広がっていく。もうすぐ、夜になる。


「あっ、ユースケ」


 視界内にチャットが来ている通知がある。時間的に考えて、おそらくは夕飯のお誘いだと彼女は思った。自分は食べられないのに、いつも一緒にいようとしてくれる彼。


「…………」


 コトワリはその通知を眺めてはいたが、メッセージを開くことはなかった。指で通知を消すと彼女は立ち上がり、一人で歩き出す。

 彼女の視線は自然と、消えていった幼馴染が向かった方面へと、向いていた。


「……ばか」


 もう一度、彼女はそう言った。その言葉も、誰にも届くことはなかった。

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