サカキ ①
「どうして姉さんには出来て、アンタは出来ないのかねぇ」
それは、こちらに向けられた言葉のようでもあったし、ただの独り言のようにも聞こえた。
いつもそうだった。
彼女は、いつもいつも誰かと比べるような人だった。その度に、落胆したようにため息を吐いて、目すら合わせてくれない人だった。
何で生まれてきちゃったのかねぇ。とは言われなかったけれど、彼女の態度がそう言っていた。こんなに出来損ないなら生まなきゃよかった。そんな声が聞こえてきそうだった。
胸を裂いて、その傷口の端をグリグリと執拗に広げられるみたいなその言葉たちに、ふとした時に責め立てられる。
そんなこと、言わないで。
泣き叫べなかったのは、彼女が言ってることを全ては否定できなかったからだった。確かにそうかもしれない。知らず知らずのうちに納得して、ますます何も言えなくなった。
縮こまる様に、内側へ、内側へ、誰にも見えないように自分を小さく折り畳んだ。そうしたら、いつの間にかただ張り付けたような笑みだけが、面に残ってしまった。
***
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
見えたのは、もう見慣れてしまった柔らかな色の木目だった。瞬きを数度繰り返すと、眦からすうっと冷たさが落ちた。指先で拭って、目の前に持ってくる。指の腹が、水滴で濡れていた。
知らないうちに泣いていたらしい。
さっきまで見ていた夢のことは靄がかったように思い出せなかった。けれど漠然とした哀しさと苦しさが体中を暴れ回っている。胸には、ささくれだった場所を撫でられるようなじくじくとした痛みがあった。
耐えるように膝を抱え込んで、何度も深呼吸を繰り返す。
大丈夫。
そう何度も自分に言い聞かせて、息を吸って吐き出す。だんだんと痛みが引いて、すべて無くなる頃には、欝蒼としていた胸の内もいくらかマシになっていた。
何もかも吐き出すように、息を大きく口から放つ。
こんな時は、ヤマセさんが淹れたあのお茶が飲みたい。口の中で甘くやわらかに溶けていって、でも喉に張り付くことなく全てを押し流すような優しさのかたまりみたいなあのお茶が飲みたい。
そう思った時には、ベッドから身体を下ろして階段を下りていた。
静かに開いた扉の向こうには、すでに作業しているコーリがいた。
いつも以上に集中しているのか、ユージローに気付く様子はない。持ち上げて見たり、鍵穴に差さる部分から見てみたり、いろんな角度から鍵を観察しながら、時に指で撫でている。鍵の山の部分も勿論、持ち手の装飾も丁寧に細い棘の様なやすりを使いながら、一つ一つ丁寧に仕上げている。工程は良く解らなくても、彼が真剣で一つも無駄にしないと思っていることは、その目を見れば一目瞭然だ。
「おはよう、ユージロー」
横から飛んできた声と、目の前に差し出された湯呑。視線をコーリから横にずらすと、いつもと変わらない笑みを口元に乗せたヤマセが立っていた。笑みと挨拶を返して、湯呑を受け取る。
「ありがとうございます。いただきます」
「どうぞ召し上がれ。今日の夢見はあまり良くなかったみたいだね」
持っていた湯呑の水面が、大きな波を立てる。
まるで、今日の天気は雨だよ、と言うみたいに軽い口調で、ズバリ心の中を見透かされてしまった。
目線だけでヤマセを見上げれば、ふふふ、と鼻で柔らかく笑われる。知っていましたよ、と言いたげだ。何も言えないままのユージローの肩を、ヤマセは慰めるように優しく叩いてくれる。
「言いたくないことは言わなくていいさ。でも自分の中に溜め込まないように」
「……はい、ありがとうございます。ヤマセさん」
どうして分かったのか、と聞いても多分誤魔化されてしまうのだろう。だからユージローも尋ねはしない。
ヤマセは何でも、とは言わないが、ほとんどのことをこうして見抜いてしまう。そして嫌味なく、言葉にすることが出来る。その口調は相手に沿うようでもあって、突き放す色を持ってはいない。かといって完全に放っておくわけでもなく、投げかけられる言葉は、この店に来るヒトの心の中で、時折キラリと輝いて、指針を示してくれる。店に飾られた鍵たちのように、目の前の道を照らしてくれる。勿論ユージローも、その光を受け取るうちの一人だ。
ヤマセのように、人のことを良く見ていて、必要な言葉を必要な時に投げかけられるヒトは、きっと誰にでも必要とされる。そこにいて良い、と自分で思わなくても、誰かに此処にいてくれ、と乞われるようなヒトだから。
僕もそうなりたい。
誰かの光になる言葉を投げかけるヤマセを見るたびに、ユージローはそう思う。
もう誰にも必要ないなんて言われないように。ふと湧き上がった気持ちに、首を傾げる。そんなことを言われた覚えはない。此処に来てからそんな冷たい言葉を投げ開けられたことは無いのに、どうしてそう思うのだろう。
ずきりと左目の奥が痛んだ。咄嗟に手で覆ってみたものの、痛みはすでにない。
「目、どうかしたのかい?」
「い、いえ。もう大丈夫です」
そう? とヤマセは深く聞くことはしなかった。本当に一体何だったのだろう。本当に一瞬過ぎて何もわからなかった。首を傾げていたら、カラカラ、と扉が開く音がした。慌てて湯呑の中の茶を飲み干して、カウンターへと向かう。
ちょうど扉から入ってきたのは、銀の長い髪を後ろまで垂らし、捩じれた黄土色のツノを頭に生やしたヒトだった。神社の神主のような上質な衣を身に纏っていて、天に向かって伸びる白亜の牙が、唇から覗いている。その牙に僅かに臆したユージローを、真っ赤な瞳がジロリと捉えた。
「人間が此処にいるとは珍しいな、ヤマセ」
しっかりとユージローに目を向けたまま、目の前のヒトは随分と低い声で言った。
そのヒトの頭の上にある揺らめく青い字には、サカキ、と書いてあって、さらにその奥にヤマセと同じように、黒に近い紫で何かが書いてある。しかし認識は出来ても、ユージローには読めない言葉だった。
「何自分のこと棚に上げてるの? キミが此処に来る方が珍しいじゃない」
「否定はせんが、幾百年此処に通ってるのに店に人間を置くのは初めてだろう」
え、とヤマセに振り返る。いつの間にか傍まで来ていたヤマセは、褒め称えるように数度手を打った。
「よく覚えてるね! もしかしてボクのファン?」
「ふぁん? なんだそれは」
「たまには人間の文化を学んだ方がいいよ、サカキ」
聞き慣れない言葉に首を傾げたサカキを、少し呆れたように見やってから、ヤマセはやれやれと肩を竦めた。
いや、そんなことよりも。
ユージローのことを迎え入れたヤマセは、随分と手慣れているように見えた。だから前もこんなことがあったのだろう、と思っていたのだけれど、今のサカキの言葉で、その仮定が全て覆された。
じゃあヤマセは、一体何の為にユージローを受け入れてくれたのだろう。何が彼にそうさせたのか、全く分からない。客としてこの場に訪れたのならまだしも、完全に異端の存在として現れたユージローを、ヤマセはあんなに簡単に受け入れてくれた。
彼らには彼らのルールがあると言われればそれまでなのだが、何がヤマセの琴線に触れることになったのか。
理由があるなら、知りたかった。
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