佐々木 ③



 あなたには無理よ。


 そう言われたのはいつだったか。確かまだ物心ついて間もない頃だったような気がする。

 自分の夢を口に出した佐々木に、そう言ってきた母親の呆れたような顔は、不思議とよく覚えている。どこか憐れむような、馬鹿にしたような薄い笑み。胸にある灯火を全て消してしまうような冷たいもの。脳裏に刻み込まれてしまったその笑みを、佐々木は事あるごとに思い出す。

 その日以来、佐々木は自分の夢を口に出さなくなった。

 否定もされず肯定もされない、平凡すぎる人生を送った。

 それでいいと思っていたし、また誰かに否定されることの方が余程怖かった。お前には無理だ、と改めて口に出されることが怖かった。そんな恐怖に出遭うくらいだったら、何も口に出さずにただ流れに身を任せる方がずっと良かった。向上心がないと言われようが、チャレンジ精神がないと言われようが、特徴がないと言われようが、またあの日のように否定されるよりはマシだと思った。

 だというのに、母親に否定されたはずの幼い頃の夢はずっと、佐々木の胸に残り続けている。

 もしかしたら、なんて思う度に母親のあの薄い笑みを思い出すのに、それでも無くなってはくれなかった。

 あの日の母親の笑みと同じように、その夢は事あるごとに降って湧く。

 何度も消そうとしても、ずっと消えてくれない。

 まるでその想いが『忘れないで』と言うように。


「『一歩を踏み出せる鍵』ですね」


 ユージローの言葉に、懐古に浸っていた意識が現在いまへと戻ってくる。

 そこにあったのは、ずっと恐れていた佐々木を蔑む母親の笑みと同じではなかった。

 目も口も緩んだ和やかな笑み。さっき外で家の鍵を無くして絶望しかけていた佐々木の目の前に現れた、あの明るい灯のような笑みだった。


「きっとお作り出来ます。貴方の想いがそれだけ詰まったものなら」

「ほんとに、ですか?」

「はい。……といっても、作るのは僕じゃないんですけど」


 頬を掻いたユージローは、少しお待ち下さい、と言って席を立つと、店の奥へと向かっていく。

 勢いで奇天烈なことを言ってしまったけれど、本当にそんなことが出来るんだろうか。

 今更ながら不安になってきた。だって普通なら、そんなことはあり得ない。一歩を踏み出せる鍵なんて、普通の人に言ったら、頭がイかれたのか、と腹を抱えて笑い飛ばされても可笑しくないのだ。

 でも、と思う自分もいる。

 この店に入る前に、ユージローは言った。


――――この店は、少し特殊というか、普通じゃないので。


 あっけらかんと当然のように、佐々木にそう言った。

 きっと今までの自分なら、いやそんなの在り得ないので結構です、と言って信じることなんてしなかった。

 関わらないように、絶対に店に入る事なんてなかった筈だ。

 でも今、佐々木はこの店にいてこの椅子に座って、鍵を作って貰おうとしている。神のお告げ、なんてものは信じていないけれど、チャンスの神には前髪しかない、という何処かで聞いた言葉は妙に心に残っている。

 今までの佐々木は、目の前に来たものを何でも逃した。それで良いと思っていた。

 川の流れに逆らうことなく、あるがまま、目の前のものにも気付かないふりをして、生きてきた。その生き方も確かに良かった。傷付かずに済んだから。

 でも、今、気付かないふりをすることは難しい。ないものとして扱っていたものが、あると知ってしまったから。

 膝の上でぎゅっと握り締めた拳が見える。

 スラックスには相変わらず皺が寄っていた。


 だったら、もう見えないふりは止めよう。

 怖がって逃げていた道を、ちゃんと見よう。


 ドカッ、と目の前に誰かが腰を下ろす音が聞こえて、顔を勢い良く上げる。

 目の前に座っていたのは、ユージローではなかった。

 明るい色に焦げ茶のメッシュが入った肩の横より長い髪を、何本かの三つ編みに分けて結っている男だった。

 男だと解ったのは、妙に目が鋭くつなぎ服から出た首元に喉仏があったからだ。やや怖い印象を受けるが、美形と言って差し支えないその男は、顔の所々に煤を付けている。


「おい」

「ヒッ! はい!」


 低い声で声を掛けられて、思わず背筋が伸びる。あー、と零したその男は、気まずそうに後頭部を掻いた。


「すまない、アンタじゃない。……ユージロー」

「はい! 呼びましたか!」


 バクバクと未だに心臓が早鐘を打っている中で、見た目よりもコワイ人じゃ無さそうだな、と安堵する。ぱたぱたと駆け寄ってくるユージローにあれこれと聞いている所を見ると、多分悪い人ではないのだろう。

 ちょっとぶっきらぼうな人なのかもしれない。いるよなそういう人。顔で損してるって言うか怖がられちゃう人。


「ユージロー、彼の名前は?」


 内心そんな風に笑って居たら、そんな文言が聞こえた。


「ササキさんです」


 まだ名前言ってなかったよな、と思いつつ口を開こうとした佐々木よりも先に、ユージローに先に答えを言われて目を瞬く。

 あれ、俺、名前言ったかな。言ってないよな。何で知ってるんだ?

 何度思い返しても言った覚えがない。でも、そういえばさっきも確か名前を呼ばれた気がする。葛藤していた佐々木に、焦らなくて良いと言ってくれた時も、ちゃんと名前を呼んでくれていた。


「ササキさんは『家の鍵』と『一歩を踏み出せる鍵』が欲しいそうなんですけど」


 しかしそんなことを気にしているのは、自分だけらしい。

 疑問をぐるぐると頭で回している佐々木を置いてきぼりに、目の前の二人の会話はどんどんと進んでいく。


「ああ、なるほどな。お代の話とかはまだか?」

「まだしてません」

「解った」


 やりとりを終えて佐々木に向き直ったその男。ジッと見つめられるとやっぱり少しだけ威圧感がある。僅かに身を縮こませて、その眼光を受け止めた。静かに彼の口が開かれる。


「初めまして。俺はコーリだ。アンタが欲しいのは、家の鍵と一歩を踏み出せる鍵で間違いないか?」

「あ、えっと、はい。そうです」


 淡々とした口調ではあるものの、口調には見た目ほど威圧感はない。しどろもどろに返事をしても特に何か言うわけでもなく、わかった、と淡々と言った男は、おもむろに胸ポケットに手を突っ込んだ。


「まずは、家の鍵だな」


 煤の付いた骨張った長い指先が胸ポケットから抜き出されて、カウンターの上に乗る。

 えっ、と言ってしまったのは、指先が退かされた先に見覚えのある形をした鍵があったから。カプセルトイで適当に取ったキーホルダーはないものの、銀色のそれは確かに、何千回も見た自分の家の鍵だった。


「えっ、えっ!? なんで……?」

「なんでって、アンタが欲しかった鍵だろ?」


 何を当たり前の事を、と言いたげな声だった。

 いやいやいやあり得ないだろう、と言ってやりたい気分だ。だって佐々木はまだ、どんな家の鍵かも言っていないし、どんな形をしているかも全く言っていない。

 それなのに、マジックなのかと思うほどにいとも簡単に、目の前に欲しかった鍵が差し出されてしまったのだ。

 何をどうやったらそんな芸当が出来るのか、考えつかない。常識では考えられない事が、今目の前で起こったことだけはわかる。

 コーリさんの胸ポケットは、もしかして異次元空間にでもなっているのか、なんて奇天烈なことを思ってしまったくらいだ。

 さっきからずっと疑問が消えないまま、脳内を走り続けている。


「あ、あの」

「うん?」

「触ってみてもいい、ですか?」


 恐る恐る聞いた佐々木に、勿論、とその鍵がコーリの指先によって目の前に来る。

 そっと伸ばして己の指先。

 爪でトントンと叩いてみると、確かに金属と爪とがぶつかる音が返ってくる。

 多分、本物だ。

 鍵とコーリを交互に見ても首を傾げられるだけで、とても佐々木の疑問に答えてもらえそうになかった。あまりにも何度も彼の顔を見たからだろうか、コーリの意思の強そうな眉がぐぐ、と中央に寄った。


「偽物かもしれない、って思ってるのか?」

「あ、いや! そんなことは、ないんですけど」

「じゃあ何だ」

「いや、だって普通こんなすぐに、特徴も何も言ってない状態で鍵が出てくるなんて、とても想像してなくて」

「普通の店じゃないってユージローから聞かなかったのか?」


 僅かに不機嫌さが滲む声に聞こえた。サッと下げた視線の先。明かりを反射した銀色がある。鍵を弄っていた指先にじわりと汗が滲み出るような気がした。

 だって、仕方がないじゃないか。夢だと思うだろう、普通。いややっぱりもしかして、これは俺にとって都合の良い夢なのでは。

 そんなことを思った刹那。


「だいたい普通の店だったら、……痛ッ!」


 ペシン、と音がして、ハッと顔を上げる。

 頭を押さえるコーリと、平手をつくって溜め息を吐いているユージロー。ぱちぱちと目を瞬いてもその二人は消えることはない。

 未だに触れている鍵の感触も本物だ。

 目を刺すような銀の光も。

 時折音を立てる鍵の音達も。

 店の奥から聞こえる、ヤマセの豪快な笑い声も。


「……なにするんだ、ユージロー」

「コーリさん、もうちょっと言葉を選ばないと、ササキさんが怯えちゃってますよ。もうちょっと詳しく説明しましょう?」

「俺は事実しか言ってない」

「事実だとしても、これは夢かもしれないって人間なら誰だって思いますし、ただでさえコーリさんは眉を寄せると人相悪くなるんだから、シワ伸ばさないと」


 自分の眉間を伸ばす様に指で擦ったユージローが、呆気にとられている佐々木に向き直ってぺこりと頭を下げてくる。


「すみません、ササキさん。コーリさんも悪気があるわけじゃないんです。ちょっと言葉足らずっていうか、ストレートすぎるって言うか」

「あ、いえ、大丈夫です」


 確かに機嫌を損ねてしまったかと不安にはなったけれど、二人のやり取りのおかげで思わず笑いが出てしまうくらいだったから、問題ない。

 ズバズバと言えたり頭を叩けるくらいには、随分と仲が良いらしい。ゲラゲラと笑っているヤマセに向かって、ヤマセそろそろ黙れよ、なんてコーリも言っている。

 羨ましい限り、いや微笑ましいが正しいかもしれない。ユージローの言葉のおかげで、コーリの言葉には悪意がないことが解るし、コーリも悪気があって言ったわけではないと解った。

 何よりも、怒っているのではないと解って、安心した。


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