佐々木 ②
扉の向こうは異世界でした、なんてマンガみたいなことはあるはずもなかった。
しかし、普段は目にしない光景が広がっている。
煌々としているのに優しく降り注ぐ明かりの下で、何千、否、何万という鍵が天井からぶら下がって揺れている。
一つ一つ、色も形状も全くの別物だ。
真っ赤なもの、真っ青なもの、金色のもの、銀色のもの、オーロラのような七色のもの。派手な装飾があるもの。シンプルなもの。子どものおもちゃのようなもの。
その鍵たちはどこからともなく吹く風に揺られて、心地の良い音を鳴らす。
普通ならば金属同士がぶつかる音のはずなのに、風鈴のように涼やかでもあったし、楽器のように華やかでもあった。
「こちらへどうぞ」
ハッとして天井から目を離せば、ユージローが人懐っこい笑みを浮かべて、背の高いカウンターの前の、同じく背の高い椅子を手のひらで指し示していた。促されるまま、足を進める。
「こんなにたくさんの鍵があるんですね」
「ふふ、すごいですよね。僕も初めてこの店に来た時本当に驚きました」
椅子に座りながら口を動かした佐々木に、ユージローが天井を見上げてどこか懐かしそうに目を細めていた。
記憶に浸る彼を邪魔するわけにもいかず、そういえばあの人は、と首を動かす。
カウンターのもっと奥で、さっきのチャラついた男――ヤマセが、彼の目線よりも低い場所にいる誰かに話しかけているのが見えた。
佐々木の位置からは、彼が誰と話しているのかは見えない。壁に寄りかかって笑みを浮かべているのは分かるから、きっと親しい間柄なのだろうな、と自己完結して、視線をユージローへと戻す。
ユージローはちょうど、よいしょ、と言いながら分厚いA4サイズのファイルを取り出したところだった。よし、と意気込んだ丸みを帯びた瞳がこちらを向く。
「早速ですが、貴方のご要望の鍵は『家の鍵』ということでよろしいですか?」
「えっと、はい、そうです」
「わかりました。えーっと、家の鍵、家の鍵はっと」
ぺらぺらと分厚いファイルを捲っていく。
本当にいろんな種類の鍵があるんだな。鍵屋でバイトなんてしたことないけど、バイトやるにしても全部覚えるのは無理そうだし、探すの大変そうだなぁ。
そんなことを思いながら、何気なくそのファイルの中身に目を走らせる。
一瞬見えた文字列を、脳が認知する。
鯨の腹の中を開ける鍵。
えっ、と思う間もなくページは捲られていく。探し物をしている彼を邪魔するのは悪いと思ったけれど、気になりすぎて黙ってはいられなかった。
「……あの、ユージローさん」
「はい!」
「今、あの、鯨の腹の中を開ける鍵って書いてあったんですけど」
「はい、それがどうかしましたか?」
「え、鯨の腹の中を開ける鍵って……、なんですか?」
「何でしょうね? すみません、お客様の要望通りに作るので、どんな用途で作られたのかは僕も詳しくは知らなくて」
困ったように眉を下げたものの、ユージローのページを捲る手が止まることはない。
佐々木が聞きたかったのは、そもそもそんな鍵が存在するのか、と言う話だったのだが、ユージローの答えはその存在を否定するどころか、肯定している。
鯨の腹の中を開ける鍵。なんだそれ、と思わずにはいられない。
そもそも鯨の腹の中を開けるなんて普通の人間にはできないし、そんなことをする必要もないはずだ。いや待て、一種の薬物の名前のように聞こえなくもない。もしかしなくても、本当にヤバいところに入ってしまったのかもしれない。マスターキーが無くても作れるってことがそもそも怪しいし、作ったら作ったで複製されて悪用される可能性だってある。
冷たいものが背中を下っていって、指先が冷えた気がした。
「疑問を持たれるのも、無理はないと思います」
ビクリと肩が震える。
そんなにわかりやすく態度に出したつもりはなかったのに、ユージローの言葉は、心の中を読まれてしまったのではと佐々木に思わせた。もしかして、怒らせてしまっただろうか。声がひどく平坦なものだったから、どっちとも取れる。
ページを捲っていた彼の手は『花と話をする鍵』のページで止まっていた。
恐る恐る上げた顔。ユージローは、少しだけ申し訳無さそうな笑みを浮かべていた。
「僕もこのファイルを見た時、本当にこんな鍵があるのかな、って思ったんですよ。でも本当にあるんです」
しっかりとした意思を感じる響きを持っていた。
それがあることを信じて疑わない、実際に見てきたと言わんばかりの声だったように思う。悪用するかもしれないなんて思ったのが申し訳なくなるほどの、言い聞かせるのとはまた違う、彼自身の中に確固たる思いが存在すると分かるその強さ。
わずかに口を開けたまま固まっている佐々木をそのままに、ユージローは言葉を紡いた。
「何にでもちゃんと『鍵』がある。そして、それを必要としているヒトがいる限り、この店は在り続ける。だって、此処はその為に存在している店だから――っていうのは、コーリさんの受け売りなんですけど」
少しだけ照れくさそうに後頭部を掻いて笑ってから、またページを捲り始めた。
コーリ、というのが誰のことを指すのかは分からないが、ユージローから紡がれた言葉は、妙に佐々木の胸に刺さって消えてはくれなかった。
何にでもちゃんと鍵がある。
じゃあ、と思う。
ずっと自分が思い悩んでいたことにも、鍵はあるのだろうか。
本当に。あの看板に書かれた通り、どんな鍵でも作れるのだとしたら。
「あの」
勝手に動いた口。
またページを捲り始めていたユージローの顔が上がる。大きな瞳の瞬きに促されるように、また口から胸の内に秘めた言葉が溢れていく。
「家の鍵ももちろん欲しいんですけど、もう一つほしい鍵があって。こんなことをユージローさんに言っても仕方ないかもしれないし、本当にそんな鍵が作れるのかわからないんですけど、もし作れるのなら欲しいんです」
「ものは試しです。ぜひ教えて下さい。どのような鍵ですか?」
グッと唇を噛んでから、肺に溜まった息を、思い切り吐き出す。
誰にも言ったことがないこの想いを、今日あったばかりの得体のしれない店の店員に言ってしまうのか? 本当に良いのか? 馬鹿にされるぞ。笑いものにされるかもしれないぞ。それでも良いのか?
囁くような闇の声に、それでも、と反論する。
分厚いファイルの中にあった鍵たちを、直接でなくても彼が見てきたのなら、きっと彼はバカにしない。今から自分が言うことも大概奇天烈かもしれないけれど、ファイルの中にあったもの方が余程奇天烈だった。だからきっと。
「あの」
膝の上で握りしめた拳で、スラックスがぐしゃりと曲がった。
ひどい手汗だ。
自分の心の内を話すことなんて余程ない佐々木にとっては、未知への一歩だった。
ずっとずっと幼い頃から抱えてきた、誰にも言うことなく自分の中だけで実りもせずに、朽ち果てるはずだった想い。
「ササキさん」
ハッと顔が上がる。ユージローはただ微笑んでいた。
「ゆっくりで大丈夫です。貴方の想いを聞かせて下さい」
紡がれた言葉は柔らかい。レンズ越しに見えたユージローが、少しだけぐにゃりと歪んで、すぐにもとに戻る。目の端から溢れた小さな雫を乱暴に親指の背で拭って、もう一度息を吸い込む。
「俺、昔からずっとやりたいことがあって。でも、それをずっと怖がってたんです。失敗したらどうしようって。でも、やっぱり諦めきれなくて」
はい、と柔らかな相槌が返ってくる。
彼になら言っても大丈夫だ。根拠もないのに、そう思った。
「だから、もしも……、もしも本当にあるのなら『一歩を踏み出せる鍵』がほしいんです」
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