清水 ②



 扉を閉めて振り返ると、女はその場に立ち尽くしていた。

 小さく口を開けたまま、天井からぶら下がる数々の鍵に釘付けになっている。

 涼やかな音を立てて揺れる鍵が、レンズ越しの瞳に反射しているのが見えて、ユージローはこっそりと口元に笑みを乗せた。

 彼女のように、鍵に釘付けになっているヒトを見ると、とても得気な気持ちになる。

 自分がその鍵を作ったわけではないのに、すごく胸が弾むのだ。

 鍵たちが誰かの想いを受け継ぐためのものであると知っているからでもあるし、鍵たちを作っているヒトが実直に一つ一つに向き合って出来た結晶だからでもある。

 自分もそうだったように、鍵たちの美しさに心惹かれる人がいることが純粋に嬉しい。

 美しいものを美しい、と見惚れるという行動が示しているから。

 誇らしさと嬉しさが胸の中でゆったりと掻き混ぜられて、全身を熱くする。体の奥から喜びが湧き上がってくるような気がするのだ。


 ユージローがカウンターに戻っていつも使っている椅子に腰を掛けるまで、女はずっと天井の鍵たちを見つめていた。


「よかったら、お座りください」


 ハッとしたように顔を戻した女の黒髪が一房、前へと垂れてくる。

 それを急いで指先で耳にかけた女は、失礼します、と小さな声で言って、少しだけ居心地が悪そうに椅子に腰を落ち着かせた。

 ちらりと見た彼女の頭の上に浮かんでいるのは『シスイ』という赤字。ゆらゆらと水の中にいるように揺れている。デンダの時とは違う揺れ方だった。

 なるほど、彼女はシスイさんと言うのか。

 とりあえず、シスイが何かを話し出すのをじっと待ってみる。しかし彼女はずっとカウンターの木目を見つめたまま、口を開こうとしなかった。

 顔を隠すように垂れた前髪が、彼女の表情を余計に見にくくさせている。


「お嬢さん」


 何を口に出そうか迷っていたユージローより先に、口を開いたのはヤマセだった。


「こちらには、鍵を作りに来たんですか?」


 柔らかな声を掛けられても、シスイは顔をあげようとしなかった。

 えっと、というか細い声が聞こえる。

 話すのが苦手なのか、他に理由があるのか解らないが、少なくとも相手を不愉快にさせたいわけではなさそうだった。僅かに震えている肩が、余計に彼女の肩を華奢に見せている。

 何かが彼女を怖がらせているのなら、その不安や恐怖を少しでも和らげてあげたい。

 そう思って、ユージローも声を掛ける。


「シスイさんは、お仕事帰りですか? お疲れ様です」


 勢いよく上がった顔。

 眼鏡のレンズ越しの瞳が、大きく見開かれて揺れていた。

 もしかして余計なことを言ってしまっただろうか。笑みを浮かべたまま背中に冷や汗が下っていくのを感じたのと、彼女の瞳から涙がじわりと滲んだのは、ほぼ同時だった。


「す、すみません! 僕、もしかして何か失礼を……?」


 ガタッと音を立てて椅子から立ち上がりながら、尋ねてみる。

 もしかして全くの見当違いのことを言ってしまただろうか。それとも、思い出したくないことを思い出させてしまっただろうか。

 嫌な気分にさせてしまったのなら謝るべきだ、と謝罪を口にしてみたけれど、彼女は頭をふるふると横に振った。それでも答えては貰えず、ユージローは狼狽えるばかりだ。


「落ち着くまで、これを使うと良い」


 タイミングよくヤマセから差し出されたのは、小さなハンカチーフ。

 すみません、と小さな声で言って受け取ったシスイは、さめざめと泣いて涙をそのハンカチーフに吸い込ませていた。

 助けを求めるようにヤマセを見上げる。

 ユージローの視線に気付くと、ヤマセは小さく微笑んだ。


──彼女の気が済むまで、少しそっとしておいてあげなさい。


 彼は声を出すことはしなかったけれど、確かにそう言ったのが聞こえた。

 小さく頷いて、もう一度彼女を見る。

 よくよく見れば、シスイは随分と疲弊しているように見える。

 それは髪がバサバサだとか、肌の色が悪いとか、見た目で分かるようなものではない。シスイの髪は、確かに風に吹かれたせいで少し膨らんでいるようには見えたけれど、手櫛で梳いたらすぐに纏まりそうな艶やかさがあった。きっと彼女は丁寧に自分の手入れをしているのだと思う。

 見た目は小綺麗でさっぱりとしている。なのに彼女自身が纏っている空気が、なんとなく悲壮感といえば良いのか、悲しみに暮れているような気がしたのだ。

 仕事が上手くいっていないのかもしれないし、別の何かがあったのかもしれない。それこそ長年付き合っていた恋人と別れたとか、大切な人を見送ったとか。

 その理由が予想の域を越えることはないし、彼女から聞いてみないと真実は分からない。

 話をしてくれるかどうかは彼女次第。

 だけれど、ユージローは思うのだ。


 こうして限界まで溜めていた涙を流すことで、その華奢に見える体に抱えた気持ちや、体の自由を奪う重石のような感情が少しでも減ったら良い。ずっと一人で抱え込む辛さが、記憶もないのに何となく解る気がしたから。

 シスイが来る前に見た夢のせいかもしれない。息苦しくて、辛くて、でも誰も居なくて、誰にも話せない。ただただ焦りだけが募って、辿り着きたい場所が、ずっと遠いことにまた苦しくなって。

 そういう何かが、彼女の中にあるのなら取り除けたら良いと思う。

 もちろん、自分に出来ることはたかだか知れている。

 コーリのように、彼女にとって必要な鍵を作れるわけでもない。

 ヤマセのように、彼女にとって必要な物を用意してやれるわけでもない。

 でも話を聞くくらいなら出来るから。

 彼女がもしも話す気があるのなら、精一杯彼女の話を聞きたい。

 そう思うのだ。



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