清水 ①
暗闇の中を走っているようだった。
ただひたすらに足を動かすのに、何処へも行けている気も、進んでいる気もしない。
ただただ足を動かしてその場からまるで動いていないような感覚。
だというのに、何故か追いかけられているような気がして、気持ちだけが急く。
息も切れてきて、だんだんと足が動かなくなっていく。
それでも焦燥感だけは消えない。
ずっと、何かに追われている感覚がする。
ハッとして目を覚ました後もその感覚はしばらく続いて、やがてそれが消えてなくなると、どうしようもなく泣きたくなる。
***
瞼をゆっくりと持ち上げる。
しゃらりと音を立てたのが、天井からぶら下がる鍵たちだと気付くのに、少しだけ時間を要した。どうやら自分はカウンターに突っ伏してうたた寝をしてしまったらしい。やけに体が重くて、何度も瞬きを繰り返す。そうしている内に、コーリが鍵を研磨する音が聞こえてきた。
ゆっくりと体を起こせば、ぱさりと何かが落ちた音がする。
緩慢な動作で下を見れば、誰かが肩に掛けてくれたのか、ブランケットが落ちていた。多分ヤマセさんだろうな。ぼんやりと思いながら、椅子から立ち上がってそのブランケットを拾い上げて畳んでから、脇にある小さな棚の上へと置いた。
「やあ、目が覚めたかい?」
ことりとカウンターに置かれた湯呑と、それを掴む白い手。
顔を持ち上げれば、穏やかに笑みを零すヤマセが居た。少しバツが悪くて、視線を泳がせながら下を向く。
「すみません、僕、」
「いいや、気にすることないさ。心配しなくても、君が寝ている間は客は来ないことになっている」
そうかそれなら良かった、と安堵する。数秒の間を置いて、あれ、と思う。
自分が寝ている間は客が来ない、とヤマセは言った。商売しているわけじゃない、と耳からタコができそうなくらい聞いたけれど、それでも自分のせいで客が来ないのは頂けない。
「それはそれでどうなんでしょう……」
「いいのいいの。その方がコーリも鍵作りに集中できるし!」
けらけらと何の問題もないように笑っているヤマセを、ジトリと見遣る。そんな適当で良いのだろうか。否、ヤマセさん的には何の問題もないのは事実かも知れないけれど。
自分が此処に来るまで、一体どうやって店を回していたのか甚だ疑問だ。サロウのように扉を潜らないモノなら問題はないけれど、扉を潜って来るヒト達は誰かが出迎えなければいけないのではないのだろうか。ヤマセがその役を担っていたのならいざ知らず。でも言っては悪いが、ヤマセが接客をするようにはあまり思えない。もちろん、助け船は出してくれるし、きちんとしたところもあるけれど。
「もしかしてボクのこと疑ってる?」
「疑ってはないです。ただ僕が来る前はヤマセさんが店番してたのかなって思って」
「やってたよ! 多少はね」
「多少……」
「あ、その目全然信じてないね?」
「そうですね」
「アハハッ! ユージロー、君も随分言うようになったね」
良い良い、と言って頭をぽんぽんとされても、逆に子ども扱いされた気がしてあまり嬉しくはないのだけれど。そんなことはお構いなしに、未だに子ども扱いを止めずにヤマセが言う。
「本当に君が考えているようなことはないから大丈夫だよ。万が一そうだとしたら、コーリがとっくの昔にここから離れていると思うしね」
そう言われると妙に説得力があった。
心の声をあまり取り繕うこと無くそのまま言葉にしているように見えるコーリが、ヤマセに何も言わないとは考えにくい。
客相手であったら違うかも知れないが、ヤマセ相手に遠慮することはない。
そう言い切ってしまえる意思の強さを、コーリからは感じる。
「納得してくれた?」
「はい。とても」
「それがコーリのことってところがニクいけどねぇ」
くすくすと笑うヤマセはそうは言いつつ、言葉の強さに棘はない。
まるでそう言うことを知っていました、と言わんばかりの余裕が彼にはある。
ヤマセさんは柳みたいな人だな、とユージローは思う。
いつ風に吹かれてもそよそよと葉と枝を揺らすだけで、幹の部分が折れることも揺れることもない。それでいい、と全てを肯定するような寛容さと柔らかさを持ち合わせていて、それでいて理不尽に真っ向から立ち向かう強さもある。
コーリやヤマセを見ていると、自分はとても小さな人間なんじゃないかと思うことがある。
彼等は人間じゃないから当たり前だ、と言われればそうなのかもしれない。
だが、こうして同じ生活を送っていると人間とか人外とかそういうことは、それほど大差のないことだと感じる。そうなった時、明らかに自分が劣っている生き物のように感じてしまう。
そう思っている自分に気付いて、また落ち込む。
比べても仕方の無い事だ。解っている。ユージローはユージロー以外のヒトには成れないし、あくまで自分から見た二人がそう見えるだけで、実際のところは彼らにしか彼らのことは解らないこともある。
きっとヤマセやコーリなら、そんなこと気にしてどうする、と言うのだろう。
否、他人より劣っているとかそんなことはどうだって良いことだ、だろうか。
ユージローはどうしても自分が劣っている部分を見てしまう。だけれど、コーリもヤマセも、自分が劣っているとかネガティブな気持ちを持つ素振りが全く無い。
どうしたらそんなふうに堂々としていられるのだろう。
怖いものなんてない、と言いたげに前を向けるのだろう。
「ユージロー」
ぽん、と軽く肩を叩かれてハッと顔を上げる。
ヤマセは眉を下げて笑っていた。
「難しい顔をしてるよ」
「え、あ、ええっと」
しどろもどろになってしまった返答に、ヤマセは僅かに首を傾げるだけで、深く聞いてくることはない。
いっそのこと胸の内の言葉たちをヤマセさんにぶつけてしまえ。
乱暴にも聞こえる声が、脳裏に響く。
でもそれを口に出すのはどうしても憚られる。自分がとても劣っている、と口に出すのと同義だからだ。そう思われたくない気持ちと、モヤモヤと暗雲を呼び寄せるモノを吐き出してしまいたい気持ちの間で揺れる。
「言いたいことは言っても良いんだよ」
柔らかな声が鼓膜を揺らす。まるで、それはユージローの心内を知っているような音をしていた。それでいて、胸の奥に沈めておきたい言葉をゆっくりと引き出すような力を持っていた。
ヤマセの言葉に導かれるように、ごくりと口の中に溜まった唾を飲み込んで、ゆっくりと口を開いていく。
その時だ。
ガタガタガタ、と扉が震えた。
突然の音に驚いて、わっ、と声を上げてしまった。その所為で、喉まで出かかっていた言葉が勢いよく引っ込んでいく。
バクバクと大きく揺れる心臓がうるさい。
その場に固まってしまったユージローをよそに、ヤマセは平然と、お客さんだね、と言った。
「ユージロー、扉を開けてくれる?」
「え、あっ、はい!」
カウンターから出て、横扉の引手に指を掛けてから、ゆっくりと扉を開けた。
「ヒャッ!」
「わっ!?」
裏返ったような悲鳴にまた驚いて、ユージローも声を上げる。
そこに立っていたのは、肩ほどの黒髪を中央で分けて両側に流している丸眼鏡を掛けた女だった。服はOLがよく着ていそうなカラーシャツと黒のジャケット、Aラインのスカートと黒のパンプス。前を開けたダウンコートと真っ黒なマフラーをぐるぐる巻にしていた。
一瞬おばけかと思った。そんな失礼な言葉は、一生ユージローの胸に秘められることになった。上から下まで彼女を見てみる。彼の女は、カチカチと歯を鳴らしていて、ひどく怯えているのように見えた。
「いらっしゃい。外は寒いでしょうから、どうぞ中に」
ヤマセの声が掛かって、はたと気付く。
そうだ、驚いている場合ではなかった。ヤマセの一声で扉を開けたのだから、彼女は立派な客なのだ。
「よかったら、どうぞ」
半身になって店に入るように促してみる。
丸眼鏡の向こう側の瞳に、探るように見つめられた。その瞳を見つめ返せば、女からはホッと小さく息が吐かれる。小さくペコリと頭を下げた彼女は、そっとその白い足で店の敷居を跨いだ。
それを見送ってから、ユージローは何となく扉の外に顔を出してみる。
ひゅうと吹き付けた風は冷たいのに、相変わらず外は何の景色もない。
暗くぼんやりとした灯りがぽつぽつとあるだけだ。
一体何処に繋がっているのだろう。そして、彼女は一体何処で繋がりの点を見つけたのだろう。
「ユージロー」
「あ、はい!」
背中に掛かったヤマセの柔らかい声。巡らせていた疑問を胸の奥に押し込めて、すぐさま顔を引っ込めてからその扉を閉めた。
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