サロウ ⑤
こぽこぽという音を聞きながら、ユージローは椅子に腰を掛けている。
茶を飲むか、と聞かれて思わず頷いてしまったけれど、どうして頷いてしまったんだろう、とユージローは自問した。
沈黙が痛い。
てっきりコーリから何か話──何かしらの注意という可能性が濃厚だと覚悟していた──があるのかと思っていたが、そういうわけでもないらしい。
このダイニングルームに入ったっきりコーリは無言を貫いていて、座ってろ、と言われて椅子に腰掛けたユージローは少しだけ居心地が悪かった。
ことりと目の前に置かれた湯呑。呑気に湯気が立っている。
「あっ、ありがとうございます」
「ん」
両手でそれを引き寄せて、一口口に含む。
甘やかさと爽やかさが口の中を占めていった。胸の内を落ち着かせてから、そっとコーリを見てみる。彼は湯呑を傾けているだけで、一向に何かを話し出す様子はない。
お茶に誘ってくれたのは嬉しいけど、気まずいことこの上ない!
心でそう叫んでしまったあとで、はたと気づく。
もしもコーリが慧眼持ちだったのなら、この言葉は全て筒抜けになってしまう。
さり気なくもう一度コーリを伺ってみる。
「? どうした」
「いえっ! なんでも!」
タイミングよく合ってしまった目。
不自然にそらした視線の端で、不思議そうにコーリが首を捻っているのが見えた。
これじゃあ完全に僕が不審者みたいじゃないか。ただお茶を飲もうと誘ってくれただけかもしれないのだから、ここは僕が話題を作るべきじゃないか?
突如湧いた、冷静に考えたら無理矢理過ぎる結論を導き出して、あの、と声を出す。
「ヤマセさんの姿が見えないですけど、何処かにお出かけですか?」
「いや、ただ単に出てきてないだけだ」
「…………、出てきてない?」
「ここに実体化してないって意味だ」
じったいか、とカタコトのように繰り返す。
実体化してない、ということはつまり会話自体は聞いているけれど、ユージローやコーリに見えないようになっているということだろうか。デンダの時も似たようなことを聞いた気がするのに、原理が全くわからないままだったのを思い出す。でもやっぱり理解は出来ない。
イマイチ飲み込めないのが、顔に出ていたらしい。
「ヤマセはこの店そのものであり、この店はヤマセの一部みたいなものなんだ」
コーリはそう説明してくれたが、ますます理解が難しい状況になっている。
つまりだ。店がヤマセそのものだったら、つまりユージローとコーリはヤマセの腹の中にいる、と解釈したらいいのだろうか。いや、なんだそれ。ユージローの頭はだどんどん混乱していくばかりだ。
ユージローが難しい顔を何度もしても、コーリは全く気にしないらしい。普通の人なら、理解出来ないなら此処ではそういうものだと思え、とぶっきらぼうに言って終わってしまう所だろう。だというのに彼は、言葉を探すように視線を斜め上に投げて、そうだな、と言った。
「簡単に例を出すとするなら、お前たちが思考に耽る時、自分の中に小さな自分が潜っていくような感じがあるのは解るか? それに少し似ている」
ああなるほど、と大きく頷く。
その感覚ならユージローにもよく分かる。
思考をする時、自分という海に深くを潜るような錯覚を覚える。人によっては、自分で自分自身と向き合う時、鏡写しの自分が前にいるような想像をして思考に沈む人もいるが、ユージローは前者だ。
その感覚は分かる。分かるのだが。
そうなると此処はヤマセの思考世界のようになっている、ということだろうか。
首を捻りつつ、尋ねる。
「つまり、この世界はヤマセさんそのもの、ってことですか?」
「簡単に言うと、まあそうだな」
「じゃあ僕達はヤマセさんの世界、というか体の中にいるってこと?」
「いる、というよりも交わっている、のほうが近い」
「…………なるほど、難しいですね」
世界同士が交わる点がある、というのは聞いていたから知っている。
その時は何となく理解したつもりだったけれど、実際にこうして説明されると難しいというか言葉に出来ない難しさがあるな、と思う。そういうものなのか、という感覚で理解することは出来ても、実際に人に説明しようと思うと難しい。喉まで出かかっているのに思い出せない、というあの現象に似ている。
「交わっている点、例えば『店の扉』を通して、俺たちは世界を共有する。サロウは別だが、此処に訪れるモノ達は大抵扉を使う」
「サロウさんだけ突然現れて突然消えたのも、そこに理由があるんですね?」
いきなり現れて光の粒になって消えたサロウを思い出して、口に出す。
そうだな、とコーリは頷いた。
「大抵のモノは『店の扉』がその交わる点になるが、サロウは扉をくぐる必要がない。この店に別の点で交わることが出来るからだ。そうだな……、サロウが来る方法は、俺たちが此処にいる現象、人間が思考に潜る時と一番近いかもしれない」
自分の声をよく聞くんだ、とサロウは言っていた。
もしかしたら、サロウは自分の心の声を聞くことで此処に来ているのかもしれない。コーリが近いと言っただけで、本人から直接聞いたわけではないけれど。
妙に納得がいって、頷く。言葉としてはまだきちんと理解は出来ていないかもしれないが、感覚としてはとても分かりやすかった。こんがらがっていた頭も妙にスッキリとしている。
持っていた湯呑の温かさを感じながら、湯呑に口を寄せた。
喉をあたたかいものが下っていく感覚に、ホッと一息が出る。
この店に、ユージローやコーリが在ること。
この店に、色んな客が来ること。
それが全て交わる点で起こる事象なのだとしたら、それは少し、この店が作り出す物に似ている気がした。
それを根気強く説明してくれた彼に視線を合わせて笑った。
「なんだか、この店の鍵と鍵穴の関係に似てますね」
コーリの瞳が、ゆっくりと見開かれる。
なんだかとても似ていると思ったのだ。
きっとこの店には、来られる人と来られない人がいる。
ユージローには来られない人を認識することは出来ないけれど、来られた人は何かしらの点、つまりこの店で言えば『扉』、鍵と鍵穴で言えば『鍵穴』を見つけて、自分と店の世界を交えることになる。
そうして此処に来た人たちは、また鍵を手にして鍵穴を探す。
まるで鍵と鍵穴の連続だ。
コーリの説明を、ユージローはそうやって解釈した。
「ユージロー、お前の言う通りだな」
その声は妙に落ち着いていて、更に言えば、嬉しさが潜んでいるような声だった。
しっとりとダイニングルームの空気に染みていったその言葉を紡いだコーリは、それ以上言葉を舌に乗せることはしなかった。
ただただ、小さな笑みを口元に浮かべながら、あたたかいお茶を何度も口へ運んでいた。
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