殿田 ④


 ピシャリと扉が閉まった音がする。

 肺に溜まっていた息がゆっくりと吐き出したら、同じタイミングで上から溜め息が降ってきた。

 あ、と見上げると、腰に手を置いてこちらを見下ろしているヤマセと目が合う。


「ユ~ジロ~ぉ?」


 あ、と口が開いたまま見つめ合う。

 あはは、と漏れた声に、また呆れたような溜め息が降ってきた。


「まあ君のことだから、こんなことだろうとは思っていたけどね」


 やれやれと肩を竦めたヤマセに手を差し出される。その手を取って立ち上がると、しわくちゃになっていたエプロンを指先で直された。こういうところ優しいよなぁ、と思う。なんだかむず痒くなって、と漏れてしまった笑い。


「何笑ってるの、ユージロー?」

「あ、いや、すみません。ヤマセさんがお母さんみたいだなって思って」

「そこはせめてお父さんじゃないのかな」

「ははは、すみません」

「ま、あながち間違いではないけれどね」

 

 ふふん、と口角を釣り上げたヤマセに、え、と声が漏れる。

 間違いじゃないってどういうことだ。

 もしかして。

 僕が勘違いしていただけで、ヤマセさんは女性だったりするのだろうか。


「もしかして、ヤマセさんは女性……、ですか?」


 恐る恐る尋ねてみる。

 きょとりと目を丸くしたと思ったらくすりと笑われて、さあてね、とどっちかわからないような答えが返ってきた。

 この曖昧な返答。これはもしかしなくても、また弄られたんじゃないか?

 じとりと眉を寄せて見れば、快活に笑ったヤマセに人差し指で眉間のシワを伸ばされた。


「そんな顔しない。騙してなんてないさ」

「じゃあヤマセさんは女性ってことですか?」

「いいや?」

「えぇ? 結局どっちなんですか……?」

「つまりボクが言いたいのはね、ボクが女性でも男性でも大した問題じゃないだろう、って言うことさ」


 ヤマセは時々謎掛けのような、簡単なのにわかりにくいことを言う。

 確かに性別は問題ではないと言われてしまえば、そうなのだ。彼らはそもそも人間ではないのだし、そういう性別という概念もないのかもしれない。しかし、だったら何故『お母さん』があながち間違いではない、と言えるのかが分からない。

 首を傾げて唸っているユージローを見かねたのか、ヤマセは笑いながら答えをくれた。


「この店はボクが管理しているだろう? だからこそ、この店も、この店にいる子達も、ある意味ボクの子どものような存在ということさ」


 近くの棚を指先で撫でて、眩しそうに目を細めている。

 その横顔は確かに、親が子を想い、愛でる時の顔に似ている。からかいなんて微塵も含まれていない、本心なのだと思わせる言葉だった。


「子どもが可愛いと思う気持ちは、母親でも父親でも、もっと言えば祖父や祖母だって兄弟姉妹だって、持ちうる可能性があるものだろう? だから、あながち間違いではないけれどね、と言ったんだ」

「確かにそうですけど」

「不満そうだね?」

「もっとわかりやすく言ってくれてもいいのに、とは思います」

「ふふ、君が理解できると知っていなかったら、こんな言い方はしないよ」


 含みのある言い方をしたヤマセに、思い出したのはさっきまでいたカウンターの向こう側にいたデンダのことだ。

 棚から顔を出しても、あの全ての喜びを落としてきてしまったような悲痛な表情を浮かべた男はいない。

 コーリのことを侮辱した時はあれほど憎らしかったのに、ヤマセとのやり取りの全てを聞いてしまったせいか、鍵を使うことの出来ないデンダがとても可哀想に思えてしまった。同情なんて烏滸がましいとまた怒鳴られるかもしれないが、そう思わずにはいられなかった。


「デンダさんは、」


 目の端で、ヤマセがユージローの方へ視線を送ってきたのが見えた。

 先を促されているような気がして、口を開く。


「どうして、コーリさんの鍵を使えなかったんでしょう」


 コーリも言っていた。

 鍵穴を見つけるのはあんただ、と。

 でもあの夢で見たデンダは、鍵穴を探さなくても目の前にあった。あの金庫が彼のいうものと同一だとしたら、鍵穴を探す必要なんてなかったはずだ。だというのに、金庫は開かず、鍵を使うことも出来なかった。彼の言う通り、デンダにとってタダのガラクタになってしまった。


「簡単なことさ」


 そんなヤマセの声が聞こえて、視線を彼へと向ける。

 ヤマセは穏やかに微笑んでいた。


「彼は何にも信頼していないんだ。コーリも、コーリにもらった鍵のことも、自分自身のことも。多分、金庫のことも、信頼していないんだろうね」

「ええっと、どういう意味ですか?」

「そうだな、例え話をしようか」


 人差し指を顔の前に立てたヤマセが、物語を語るように滑らかに言葉を紡いでいく。


「今ユージローにコーリが、目の前にある扉の鍵を渡したとする。鍵が閉まってるからそれで開けてくれ、と言われたら、君は何の疑いもなくその錠を開けるだろう?」

「そうですね」

「それだよ」

「え?」

「それと同じことなのさ」


 穏やかな口調でヤマセはそういうけれど、ユージローにはちっとも意味がわからなかった。

 だって、あまりにも当然のこと過ぎる。

 コーリが渡してくれた鍵なら、それは開くだろうと思う。ヤマセに渡されたのなら、少しだけ疑ってしまうこともあるかもしれないが、コーリがそんなくだらない冗談を言うことはない。だから当然のように受け取ってそれを開けるだろう。

 でもそれの何処をどう考えたら、デンダが鍵を使えないのか、いまいちピンと来なかった。


「え、待ってください。どういうことですか?」

「さっきの男は、コーリに鍵を受け取った時点で、こんなものは偽物だろう、と決めつける。そう決めつけた時点で、鍵が本物だろうが、そうでなかろうが、錠は開かないのさ」

「鍵は本物なのに?」

「ああ。人間は、自分の予想した方向に物事を動かす癖がある。鍵が偽物だ、と思い込めばそれは本当に偽物になるように扉は開かなくなってしまう。さらに彼は、自分が成功する姿を信頼していない、つまり裏を返すと、金庫を開けられないことを信頼している。心の何処かで自分にはその資格がないと思っているのか、実力がないと思っているのか、自信がないのか。理由は定かではないけれどね」


 そんな事が本当にありえるのだろうか。

 鍵は本物なのに、そんな思い込み一つで開けられなくなってしまうことが本当にあるのだろうか。

 ユージローにその言葉を証明する術はない。


「ユージロー、君はボクの話を嘘だと思うかい?」


 問いかけられて顔を上げる。

 変わらない笑みを浮かべるヤマセに、首を横に振った。


「ヤマセさんの言うことは簡単なようでいて難しいけれど、嘘だとは思いません」


 証明はできないが、ヤマセが嘘を吐いているとも考えにくいのもまた事実だった。

彼はちょっかいを掛けてくるけれど、ユージローが質問したことにいつだって、面倒臭がらずに真摯に答えてくれる。今までも、言葉を濁すことはあっても、嘘を吐かれたことはない。


「ですが、すぐにその言葉を信じろ、と言われても多分、難しいと思います」


 目を伏せて見えたのは、ヤマセの淡い緑の着流しと白い足、赤い鼻緒の下駄。

 今までそんな考え方をしてこなかった。

 自分の予想した方向に物事が進むなら、どうしてままならないことが多いのかとすら思う。ヤマセの言葉を借りれば、それは自分が、ままならないことを信頼しているから、という答えに成るのだろうが、それでもまだ実感がこれっぽっちもない。

 すぐさま受け入れることは出来ないと思った、その時だ。


「そこだよ」


 不意に柔らかな声が鼓膜を揺さぶった。

 弾かれたように上げた視線の先で、ヤマセは目元を柔らかくして微笑んでいた。


「え?」

「さっきの男と、君の違いはそこだ、ユージロー」


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