ユージロー ⑥
瞼をゆっくり持ち上げる。見えたのは、柑子色にそまる天井の木目。
嗚呼、そういえば。
僕は不思議な処に来てしまったんだった。
やっぱり夢じゃなかったんだな。
そんなことを思いながら、ぼんやりと眠る前と同じ景色を眺める。眠る前のあれこれを記憶をのんびりと辿りながら、ゆっくりと横に顔を向ける。カーテンは開けっ放しになっていて、ベッドには誰も居ない。まだ、コーリは眠りについていないようだった。
緩慢な動作で体を起こす。枕元に自分で置いた黒のエプロンがあるのが目に入って、手に取る。タンスの木の香りがして、思わず顔を埋める。肺いっぱいにその香りを吸い込めば、落ち込んだ気持ちが少しだけ軽くなった気がした。
昔から、こういう香りは好きだったんだよなぁ。
そんなことを思うのに、昔のことは全くわからない。
はあ、と落とした息は重たく布団に落ちていく。
ヤマセは夢が大事だと言った。
それなのに、寝ても夢を見ることは出来なかった。
覚えていないだけかもしれないけれど、夢を見たほうが良い、という言葉に期待していただけに、落胆も大きい。夢を見て、いち早く自分の記憶を集めることが出来たなら、彼等を煩わせずに済むのに。
自分の名前も、此処に来る前はどこに居たのかも、何をしていたのかも、全く思い出せない。一体何があったらこんなことになるのだろう。記憶にない自分の胸ぐらを掴んで問いただしてやりたいくらいだった。
やめやめ、と頭を左右に大きく振ってベッドから降りる。
じっとしていたってなんにも変わらない。兎に角動けるところは動こう。焦っても良いことはない、とよく言うし、記憶がないのであれば思い出すまで待つしかない。
コーリも言っていた。その時になれば分かる、と。
クヨクヨしていたって仕方がないのだから。
今は目の前のことに集中しよう。
その時が来るまでは、出来る限りのことをしよう。
せめて彼等の迷惑にならないように、しっかり役に立とう。
黒のミドルエプロンを身につけて、しっかりと紐を結ぶ。
気合を入れるように両手で頬を叩くと、パシンッ、と小気味いい音がその場に響いて背筋が伸びた。その音のお陰で、幾分か軽くなった胸の内。足を動かして階段をそっと下る。
光が漏れるその扉を、音をなるべく立てないように優しく手前に引いて、横にずらす。
鍵同士が擦れる涼やかな音が鼓膜を揺らして、暖かい色の明かりがユージローを迎えてくれた。ああやっぱり心地が良い。まるで此処に居て良いよ、と言われているみたいに。
扉が開いてユージローが出てきた事に気付いたらしく、座卓のような長方形の机で作業していたコーリが顔を上げた。
「よく眠れたか?」
問うてくる声は平坦だった。はい、と返せば、そうか、と言って、何事もなかったように、研磨していた鍵へと目を向けてしまう。あまりの淡白さに少し不安になった。もしかしたらいつまで寝てるんだ、と思われただろうか。
恐る恐る、声を掛ける。
「もしかして僕、随分寝てましたか?」
「どうだろうな。いちいち計ってないから知らない」
最もだ、と思う。
普通誰がどれだけ寝てるか、なんて興味のないことで、気にすることもない。特に今自分がいるところは、朝とか夜とかいう概念がない、とヤマセが言っていた。そもそも、時間という概念がないのかもしれない。
「あの、コーリさん。ご迷惑じゃなければ、もう一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
細いヤスリ棒で鍵を削っているコーリは、淡々と返事をくれる。特段機嫌が悪そうにも見えないし、邪険にするような声の圧もない。それに少しだけホッと胸をなでおろして、口を開いた。
「この世界には、時間っていう概念がないんでしょうか?」
「あるに決まってるだろ」
即答だった。え、と漏れてしまったのと、コーリの顔が鍵から上がったのは、ほぼ同時だった。その顔は不機嫌と言うよりも、純粋に驚いているような顔だった。
「何故ないと思ったんだ?」
「あ、いや、だって、朝とか夜とかがないってヤマセさんが」
「ああ、そういう意味か。此処の『時間』という定義が、人間がいる世界とは違う」
何を言っているんだ、と一瞬眉をひそめたコーリだったが、ヤマセに言われたことを伝えれば、納得がいったように頷いてくれた。どうやらユージローが伝えたかった意味は伝わったらしいが、コーリの言葉は、ユージローが理解するには難があった。
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だが」
二人して首を傾げ合っても答えは見えてこない。
ヤマセが此処に居たら説明をしてくれただろうが、どこにいってしまったのか、店内を見回してもヤマセの姿はない。もう一度コーリに目を合わせて、疑問をぶつけてみる。
「えっと、じゃあ、此処では”時間”ってどんなモノなんですか?」
「流れモノだ」
いやそれはこちらも同じだけど。
それが顔に出ていたのか、なんて顔してるんだ、と眉を顰められた。
「いや、その答えが僕のと同じだったので」
「そうなのか? 人間の世界では、太陽を基準に時間というものが決まってると聞いたが」
「え? 此処では違うんですか?」
「違うな。此処には太陽なんてものはないだろ?」
確かに言われてみればそうだ。
ヤマセに見せてもらった店の外の景色は、ただの暗闇のように見えた。とても太陽が在るようには見えない。だとすれば、此処では時間というのは何で定義されているのだろう。全く見当も付かない。
頭を悩ませていたユージローに、コーリが端的な答えをくれた。
「此処では、時間は大した意味を持たない。ただ流れるもの、それだけだ。それよりも、その時に自分が何をしたのか、のほうがよっぽど俺たちには大事なんだ」
伸び縮みさせるやつもいるくらいだしな、と平然と言っているコーリに、ただただユージローは口をあんぐりと開けるしかなかった。
今までのユージローにはない発想だ。
ユージローの周りにいた人は、いつだって時間に追われていたような気がする。確信的な記憶なんて何一つないけれど、寝る間も惜しんで色んなことをしていた人が居た気がする。時間は金よりも重要だ、という人も居た気がする。何の記憶も有していないけれど。
「そっか、そうなんですね」
遠慮する必要はない、とヤマセが言っていた意味が、ようやく腹の底まで落ちてきた。確かに時間という概念が、コーリの言う通りであるのなら、遠慮なんて要らない、と言い切れるのも分かる。彼等は他人が時間をどう使おうが、気にしないのだろう。
既に作業に戻って鍵を磨いているコーリに、もう一つだけ良いですか、と声を掛ける。
「僕が此処で出来ることはありますか?」
自分も今何をするのかを大切にしたい。
そう思った。
せっかくこの店にいるのならコーリやヤマセと同じように、過ぎゆく時間に囚われず、自分が何をしたのか、何をするのか、を大切にしたい。そう思えたから。
自分で思ったよりも力強い声が、コーリに届く。
顔を上げたコーリの口角は、ゆるく持ち上がっていた。
「じゃあ、店番を頼む」
「はい!」
「カウンターの棚に入ってるものは何を触ってくれても構わない。わからないことがあったら、いつでも声掛けてくれ」
「はい、ありがとうございます!」
力強く頷いたユージローは、カウンターへ意気揚々と大股で向かう。
その後姿を、コーリが少しだけ眩しそうに見ていたことなど知らずに。
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