ユージロー ①



 気付いたら、周りは暗闇だった。


 一体此処はどこだろうと見回しても、光も何もない、ただの漆黒だった。

 指先の感触も足先の感触もあるのに、自分の姿が全く見えない。

 訳がわからないまま一歩、また一歩と進んでみる。夢か何かだろうか。そんな事を思いながら、手を動かして障害物がないことを確認する。進む方向が合っているのか解らないが、とにかく何かを見つけようと、歩を進める。

 しかし、いくら進んでも何も景色が変わらない。

 一体なんなんだ。そんなことを思った直後だった。

 背中を、ドンッと強く誰かに押された感覚があった。


「わっ!?」


 当然、体は急な衝撃に耐えられなかった。

 傾いたのを感じながら、踏ん張ることもできず倒れ込む。咄嗟に閉じた目。さっきと少しも変わらない闇に支配されたまま、反射的に出した手と胸に痛みが走った。


「いてて、……あれ?」


 押されたことに憤慨する前に、真っ黒だった瞼の裏に光が差したような気がして、ゆっくりと目を開いていく。

 初めに見えたのは、アイボリーの木目。

 何度も瞬きを繰り返しても、それは消えない。

 夢では、ないらしい。床に付いた自分の手もよく見えた。こんな手だったっけ。そういえば、木目を見ると、その目の部分からおばけが出てくる、なんて家族に脅されたっけな。

 そこで、あれ、と思う。

 靄がかかって家族の顔が思い出せなかった。

 おかしいな。やっぱりまだ夢の中にいるのかな。

 ゆっくりと体を起こして、顔を上げた。


「……わっ!」


 目に飛び込んできたのは、天井からぶら下がる三者三様の鍵。

 金のもの。銀のもの。鉄のもの。オーロラのような七色のもの。目を刺すようなビビットカラーのもの。木色のもの。

 形も鍵それぞれ。何に使うんだと聞きたくなるほど、大きなものから、アーモンドくらい小さなものまで。

 それらは時折どこからともなく吹く風に揺られて、いつの日にか聞いた風鈴のように涼やかな音を立てる。心を落ち着かせるような柔らかで優しい音だった。

 心地よさに包まれて、ぼんやりとその景色に浸っていた耳。

 そこに、突如怒号が叩き込まれた。


「ふざけるな!」


 男の吠えるような声と、何かが散らばる音に、肩がビクリと跳ねる。

 あまりにも怒りをあらわにする声。胃の辺りがキリキリと痛み出したのを感じながら、ゆっくりと怒号と物音が聞こえた方へと視線をやってみる。

 自分がいる数メートル先に、カウンターがあるのが見えた。


「こんなの詐欺だ! 違うか!?」


 自分がいる場所は丁度物陰になっているようで、そのカウンターのような場所からこちらは見えないらしい。未だに男が怒鳴っているのが聞こえて、身を縮めながら物陰からそっと声の聞こえる方を覗いてみる。

 見えたのは、カウンターの向こうにいる鬼のような形相をしている小太りの男と、顔は見えないがすらりとした背格好でツナギ姿の人だ。肩くらいまでの明るい色の髪を何本もの細めの三編みにしている。


「金はもらってないだろ」


 冷静な低い声がそのツナギ姿の人から発せられて、彼もまた男なのだと知った。

 小太りの男は返ってきた言葉に、悔しそうに下唇を噛み締めて唸る。


「それに、鍵を渡す前に言ったはずだ。作ったとしても、使えるかどうかはアンタ次第だって」

「ッ! ワタシにその資格がないと言いたいのかッ!」

「誰もそんなことは言ってない」

「じゃあ何だって言うんだ! ワタシに何が足りない!?」


 ツナギの男の胸元に、小太りの男の手が伸びる。ここからでは見えないが、ツナギの胸元はぐしゃりと歪んだはずだ。それを払い除けようともせず、ツナギの男はされるがままだった。


「鍵穴を見つけるのはアンタだ、と鍵を渡したときに伝えたはずだ。アンタもそれに同意した。そうだろ? 俺は鍵を作る手伝いはできても、鍵穴を見つける手伝いはできない」


 怒りを露わにしている小太りの男とは、正反対の同情も動揺もしていない静かな声が、その場に落ちる。

 その言葉が指す意味を全て理解することはできないが、ツナギの男が嘘を言っていないことだけはなんとなく分かる。茶化すような物言いでもなく、ただ事実のみを告げているような気がしたからだ。

 でもそれを言いに自分があの場に出ても、かえって状況を悪化させる可能性の方が高い。話を余計にややこしくするに決まっている。怒りを持ち続けている人間を説得するのは、余程の事が無いと無理に等しいのだ。


 誰でもいいから、彼らをなんとかしてくれっ!


 そう心の中で唱えた数秒後だった。

 こめかみに青筋を立てて今にも手が出そうな小太りの男の肩を、ぽんと誰かが叩いたのだ。


「まァまァお客さん、そんなにカッカしないで」


 ピリピリとした場に響いたのは、第三者の緩んだ声だった。

 いつの間にそこに居たのだろう。小太りの男の肩に手を置いたまま姿を表したのは、着流しを着た背の高い男。

 色素の薄い髪が、優雅にふわりと揺れる。垂れ目の眦と口元には薄い笑みを浮かべていて、彼の左耳にある細く長い耳飾りが、シャラリと涼しげな音を立てた。その男が纏う優雅な空気は、今まで漂っていた肌を刺すような怒気が満ちた空間を、一気に緩ませていく。

 チッ、と舌を打った小太りの男が、掴んでいたツナギの男の胸元を放す。

 止められた事で冷静になったのだろう、小太りの男は、バツが悪そうに顔をそらす。


「また来る!」


 そう言って背を向けると、横開きの扉を思い切り開けて、扉の向こうに消えていった。

 静かになった場に、はあ、と大きな溜め息を落としたのは、着流しの男だ。


「お前もよく相手してやるねぇ。あんなのほっとけばいいのに」

「そういうわけにもいかないだろ」

「まあ確かに店の中に居座られても困るけど」


 くすくすと笑いながら明後日の方を向いていた着流しの男の瞳が、ふとこちらを向いた。

 かち合う視線。

 肩を震わせたのと、男の目が見開かれたのは、ほぼ同時だった。


「あれぇ? 見知らぬ子がいるみたいだねぇ」


 糸を引くように細まった色素の薄い瞳に射抜かれて、あ、だか、う、だかわけのわからない声が出る。どうしよう。なんて言い訳すれば。

 着流しの男の視線を追ったツナギの男もこちらを振り返って、大きく目を見開いている。

 その場から動けないまま、カランコロン、と軽快な下駄の音を響かせて目の前にやってきた着流しの男を見上げる。その後ろには、怪訝そうな顔をしたツナギの男。眉間に皺を寄せている彼は、もともと切れ長な目が益々細くなって、余計に怖く見えた。

 背中にたっぷりの冷や汗。大した言い訳も思いつかない。

 万事休す。

 正直に『暗闇を歩いてたらいきなり此処にいた』と説明して、果たして信じてもらえるだろうか。


「さて、君はナニモノかな?」


 心の準備も整わないまま、蛇のように細くなった目が問いかけてきた。



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