ユージロー ②



「えっと、あの、僕」


 やっと出た声は、今にも掠れてしまいそうな弱々しいもの。

 でも、目の前に腰を落とした着流しの男は、うんうん、と首をわずかに傾げただけで、怒鳴りつけてくることはない。これはちゃんと説明したら、解ってくれるかもしれない。妙にホッとしながら、ふと彼らの頭上を見たときだ。


「……コーリ、ヤマセ?」


 カタカナ文字の羅列があった。

 ツナギの男の頭上には青い字で『コーリ』。

 着流しの男の頭上には、青い字で『ヤマセ』と、その奥に、黒に近い紫の字で何かが羅列されている。それは解ったが、見たことのない文字で、読むことはできなかった。

 その言葉を口にした途端、彼らの目が大きく見開かれる。

 着流しの男は、ツナギの男を振り返り見てから、またこちらに向き直った。


「驚いたなァ。ボクとコーリの名前、どうして知ってるのかな」

「えっ」


 驚いたのはこちらの方だ。

 まさか彼らの頭上に乗った文字列が、彼らの名前なんて誰が思うだろうか。何度目を瞬いても、その文字列は消えることはない。ヤマセ、と書かれた文字の後ろのモヤのようになった文字列も消えない。目を擦ってみても、変わらなかった。


「いや、だって、貴方達の頭の上に書いてありますし」


 文字列がある場所に指を差す。

 しかし彼らはまたお互いの顔を見合わせて、首を傾げ合った。

 いや確かにおかしな話だ、と思う。

 普通に生活していて誰かの頭上に名前が見えるなんてことはないし、ましてや頭上に文字が見えることなんてない。何かのアニメで数字とか本名が見えることはあっても、現実世界でそんな奇天烈なことが起こることなんてないと思っていた。でもそれを今自分は実際に体験している。


 いや、待て。

 そもそも僕は、何という名前だっけ。


「ねぇねぇ」


 ぽん、と両肩を叩かれて意識を目の前に向ければ、ニッコリと笑ったヤマセがいる。美形だなぁ、なんて呑気なことを考えていないと、頭がパンクしそうだった。何となく見遣ったヤマセの後ろにいるコーリも心なしか、さっきよりも距離が近くなっている気がする。


「君、なんて名前?」


 ギクリと肩が跳ねたのは、ヤマセに伝わってしまっただろう。

 ニコニコとしたまま肩を放しそうにないヤマセに、冷や汗が背中を伝った。

 自分の名前くらい思い出せ、と思えば思うほど記憶には黒が滲んでいく。そもそもどこから来たかすら覚えていない。今自分が何歳で、何をしていたのかも。頭を掻きむしってしまいたい衝動に駆られたその時、ふと誰かの声が頭に響いた。


 ユージロー。


「っ、ユ、ユージローです!」


 それが本名かどうかはどちらでも良かった。

 今彼らに言えるだけの名前があればなんでも良かった。

 ヤマセは、ユージロー、とその言葉を繰り返しながら目線をユージローの頭上に上げる。その仕草に、もしかして彼も相手の名前が見える能力――と言って良いのかは不明だが――があったらどうしよう、と背中が冷えた。

 苦し紛れにその名前を名乗ったのだと、バレやしないだろうか。

 嫌な緊張感で内臓が冷えていく。

 しかし恐れていたような指摘をされることはなく、肩から離れていく彼の両手。そのうちの片方がそっと目の前に差し出された。骨張った、大きくて白い手だった。


「ユージローか。いい名前だね」


 手を差し出された理由がわからずに、ヤマセの顔を手を交互に見る。


「ヤマセ、大丈夫なのか?」


 少し不満そうな声を上げたのは、ヤマセの後ろにいたコーリだ。明らかに不機嫌そうに眉根を中央に寄せている。髪の毛と同じ色をした瞳が険を帯びていて、ユージローに視線を定めたままだった。


「心配ないよ。此処に入れるのは無害なモノだけ。そういうキマリになってるんだから。それに彼がお客さんでないことは、明確だ。なにせ、あの扉を潜ってないからね」


 ヤマセが見遣ったのは、さっき小太りの男が出ていった横扉だった。

 それはそうだが、と顔を曇らせるコーリは、まだ納得がいかないらしい。完全に置いてきぼりになっているユージローは、ただただ彼らのことを見守ることしかできなかった。バクバクと音を立てる心臓のまま、コーリとヤマセを交互に見る。


「そんなに不安なら、ボクの針で試してみる?」


 小さく笑ったヤマセが、差し出していた手を引いて逆手側の袖へと忍ばせる。ゴソゴソと数秒かけて取り出されたのは、細い銀針だった。


「ユージロー、人差し指を出して」


 ヤマセに言われるがまま右手人差し指を差し出す。何をされるかは予想がつく。きっとその指を針で刺されるのだろうな、と思っていたら、案の定だった。


「へっ!?」


 しかし全てが予想通りではなかった。その針を差した場所からぷつりと出てきたのは、真っ赤な血ではなく、はちみつ色の液体だったのだ。そのはちみつ色の液体は、球のようになって宙に浮く。え、え、と間抜けな声を上げたユージローに構いもせず、ヤマセは針を仕舞いながら笑ってみせた。


「ほーらね、何の問題もなかっただろう?」

「…………疑って悪かった」

「といっても、当の本人がなんにも解っていないみたいだけどね」


 クツクツと喉で笑うヤマセの言う通り、ユージローにはコーリに謝られるわけも、ヤマセに笑われる意味も解っていない。

 一体あの針は何なのかわからないし、自分の体から出てきたのがはちみつ色の液体であることも意味不明だし、何がなんだか分からない。自分のことも何者か分からない今、解っていることといえば、目の前の二人の名前くらいだった。

 一体どうしてこんなところに来てしまったんだろう。

 というか此処はどこなんだろう。

 一体自分は何者なんだろう。

 いろんな疑問が頭の中を忙しなく走っている。

 そんなユージローの気も知らず、指先から出たはちみつ色の球は楽しそうに宙であっちに行ったりこっちに来たりを繰り返す。呑気で羨ましかった。


「さて、一番説明の必要な彼に話をしてあげなきゃね」


 そういったヤマセから再び差し出された手。

 この手を取るのは、果たして正解なんだろうか。

 そうは思うものの、ユージローが今頼れるのは彼らしかいない。何よりも今自分がどこにいるのか知りたい。その好奇心が、恐怖を食いつぶして行く。

 グッと唾を飲み込んで。

 その差し出された手を、ギュッと握りしめたのだった。




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