ユージロー ③



 ゆらゆらと目の前の湯呑から湯気が立ち上っている。

 ユージローが通されたのは、店の工房の更に奥にあった小さなダイニングルームだった。

 薬缶を二つ乗せたらいっぱいになってしまうコンロ。

 その隣のちょっとした調理台と流し台。

 冷蔵庫はなく、大の男二人でいっぱいになってしまうような狭さのキッチンから二歩ほどの扉側に、艶のあるメープル色の四角い二人掛けのダイニングテーブル。

 その椅子に座るように言われて大人しく腰を下ろしたユージローだったが、圧の強い二人がキッチンに寄りかかってこちらを見ているせいで、居心地が最悪だった。

 ユージローが出来ることといえば、目の前の湯呑の湯気を見ることくらいで、二人と目を合わせることすら憚られる。


「遠慮せずに、お茶を飲むと良い」

「え、あ、はい。ありがとうございます」


 おずおずと湯呑を引き寄せて両手で包み込む。両手から伝わってくるぬくもりは、全身に走っていた緊張をゆっくりと解いてくれた。

 ほっ、と小さく息を溢して湯呑を口に近付ける。

 ふわりと香ったのは、今までに嗅いだことのない不思議な匂い。口の中に含むと、滑らかなのにどこか甘かった。しかしその味が最後まで口に残ることはなく、喉まで流し込んでしまえば爽やかさだけが最後まで尾を引いて、やがて消えていく。


「気に入ってくれた?」

「あ、はい! とても美味しいお茶ですね」


 顔を上げて見たヤマセは、それは良かった、と柔らかな笑みを浮かべている。

 悪い人じゃなさそうで良かった。思ったのと多分同時だった。


「でも、毒が入ってるとは思わないのかな?」


 そんな言葉が飛んできて、慌てて湯呑をテーブルの上に置く。

 伺うようにヤマセを見ても、浮かべられた笑みが消えることはない。

 ますます怪しい。だんだんからかわれているのか嘘か分からなってきて、恐る恐る尋ねる。


「……入ってるんですか?」

「いいや?」


 なにその『いいや』って。どっちだ。

 怪しいなと思えば思うほど、ヤマセの笑みが胡散臭いものに思えてきて、じとりと目を向ける。クツクツと喉で笑ったヤマセは、冗談だよ、と言っているけれど、その言葉も真実かどうか怪しい。とりあえず自分は倒れていない。即効性の毒は入っていないようだけれど、遅延性のものが入っている可能性は捨てきれない。


「ヤマセ、茶番も大概にしておけ」

「はいはい。コーリの言う通りだね」


 鋭い声が飛ぶ。観念したように肩を竦めたヤマセは、彼自身の湯呑を手にとって口を寄せている。彼が飲んでも平気なら、冗談だよ、という言葉は真実なのかもしれない。それに、コーリが茶番と言ったのが大きい。彼はヤマセとは違って、嘘を言うような人ではない気がした。あくまでそんな気がするだけで、確証はないのだけれど。


「悪いな、コイツは悪戯好きで有名なんだ」


 ジッと二人の様子を伺っていると、コーリが眉をわずかに下げて言った。


「失礼な。人間をからかうのが好きなだけで悪戯が好きなわけではないよ」

「それを悪戯好きっていうんだよ、阿呆」


 大きな溜め息を吐くコーリに、悪びれる様子もなくカラカラと笑うヤマセ。

 こうしたやり取りは、日常茶飯事なのだろう。呆れた様子はあるけれど、声に棘はない。どちらかといえば、和やかな空気感がダイニングルームに満ちている。もしかしたら、ユージローの緊張を解くためにそんなやりとりをしてくれたんじゃないか、と勘違いしてしまうほどに。


「嗚呼! そういえば自己紹介がまだだったね」


 もう飲み干してしまったのか、湯呑を置いたヤマセが手を叩いた。

 その軽快な音に、ユージローの背中もすっと伸びる。


「ボクはヤマセ。この店『キエン』の管理みたいなことしている。こっちの鉄面皮は、」

「コーリだ。鍵を作ってる」


 鍵、という言葉にさっきまで居た部屋の天井を思い出す。

 気持ち良い音を奏でる鍵たちが、すぐに脳裏に広がった。

 あの色とりどりの鍵は全て彼が作ったのだろうか。たった一人であれだけの数の鍵を作るのに、一体どれほどの時間を要したのか、想像できなかった。一つ一つに込められた意味があるのなら、聞いてみたい。


「じゃあ店にあった鍵は全部、コーリさんが?」


 そう思って問いかけたのだけれど、返ってきた答えは、否、だった。


「俺のもあるが、全部じゃない。先代のが殆どだ」

「そうなんですね。じゃあ今はコーリさんとヤマセさんがお店を切り盛りしてるんですか?」


 きょろきょろと辺りを見回しても、彼ら以外の影を感じないし、そもそも生活感がまるで感じられない。食事を取るにしても冷蔵庫もないし、お茶の香りはしても食べ物の香りはまったくない。此処は完全に生活と切り離しているのかもしれないな、と思ったときだ。


「切り盛りというと、人間っぽくなってしまうから正しくないな。この店は『ただ在る』だけで、商売の必要はないんだ」


 ヤマセのその言い方に、少しだけ引っかかりを覚えた。

 ヤマセの口ぶりはまるで『自分たちは人間ではない』と言っているように聞こえる。しかも商売の必要がないと来た。


「それは、どういう……?」

「多分君の察しの通りだと思うけどね」


 またつつ、と吊り上がるヤマセの口角。

 蛇のような狡猾さが滲む笑みに、段々と顔から血の気が引いていく感覚が襲って、目眩がしそうだった。


 つまり僕は、普通ではありえない場所に来てしまったということだろうか。

 彼らは人間じゃないとして、一体何なんだろう。

 もしかして食べられたりしてしまうんだろうか。


 はあ、と大きな溜め息がその場に落とされて、ハッと顔を上げる。


「ヤマセ、お前はもう黙ってろ」

「えぇ、なんで?」

「お前が説明すると事がややこしくなる。コイツも怯えてるだろ」


 二人の顔を交互に見ていたらコーリに指を差されて、ユージローは更に体を縮める。まさかバレてしまうなんて。他人に興味の無いように見えて、コーリは案外人を見ているようだった。あらまあたしかに、とヤマセは楽しそうに言ってから、閉口する。あとはコーリに任せたのか、ひらひらと手を振って笑みを浮かべて。

 まさかまた悪戯をされたのか。全くなんて人だ。

 鋭い目を向けても、けらけらと笑って躱されてしまって全く効果がない。


「悪いな、ユージロー、だったか?」

「あ、えっとはい。大丈夫です」

「ヤマセは話をややこしくする天才なんだ」


 失礼な、とヤジが飛んでくるが、コーリはそれにすら慣れているのか完全に無視をして口を開く。


「まず、俺とヤマセは『人間』じゃない」


 え、とユージローから声が漏れた。僅かに視線を下げたコーリは、驚くのも無理はないと思う、と同意を示してくれる。でもその答えはつまり、ユージローの予想が、ヤマセの言葉が、正しいことだと証明していた。


「人の理から外れている者、それが俺たちだ。位とかそういうのも色々あるが、それは話が長くなるから割愛する。といっても、人間たちが想像するような怪物や幽霊ともまた違う存在だ」

「……具体的に、どんな存在なんですか?」

「人間とは生きる世界軸と時間軸が違う存在」


 分かるようで分からない。言葉は端的なのに、想像がしにくかった。

 顔を曇らせたユージローに、つまりね、とヤマセから声が飛ぶ。


「人間が生きる世界軸がこの人差し指の線上だったとしたら、ボクたちは、この線とは交わらないこの位置にいる感じ」


 ヤマセの両手の人差し指は、確かにどこまで伸ばしても交わらない位置にあった。確か、ねじれの位置、と呼ばれるものだった気がする。分かったような分からないような説明に、ユージローは首を傾げながら尋ねた。


「じゃあ、さっき此処に来ていたあの男の人も人間じゃないんですか?」

「いや、あれは人間だよ」

「えっ」


 即答されてまた驚きの声が出る。ねじれの位置にあって、一生交わらないのなら人間がこの店に来るのは可怪しいんじゃないか?

 そう思ったユージローを見透かしたようにケラケラと笑ったヤマセは、さっき作ったねじれの位置の指先を手首ごとひねって、手の甲をこちらへと見せるような形へと変えた。


「こうすると、交わってるように見えるだろう?」

「た、確かに」

「こういう点で、ボクたちと人間は交わってるんだ。ほら、よく言うだろ? 天使とか悪魔はそばにいるけど、世界軸が違うから見えないんだって」

「聞いたことはありますけど……」

「それと一緒なのさ。普段は全く別の世界軸だけれど、ふとした時に交わる瞬間が在る。それは物によって決まった法則に則って起きる事象だ。そうだな、君に馴染み深いのは、黄昏時にあの世とこの世が交わる、って言われるモノかな。あれも一種の法則を元に起きる事象なんだよ」


 言われている事を全て理解できはしないけれど、妙に説得力のある言葉だ。

 別の世界軸がたくさんある、という話は確かに聞いたことが在る。自分がいる世界が全てではない、自分が思っている以上に色んな世界が混じり合っている、と誰かから聞いたこともあった気がする。

 それを証明しろ、と言ったら不可能なのかもしれないけれど、全くのデタラメだと証明する方法もまた無い。ヤマセの話を鵜呑みにするのもどうかと思う気持ちもなくはない。しかし、これにコーリの反論が入らないのであれば、信じてしまっても良いのかもしれない。

 ちらりとコーリを伺う。


「えっ、何!? ボクが言うこと信用できないの!?」

「いやだって散々からかわれましたし」

「自業自得としか言いようがないな」


 コーリの言葉に、ですよね、と同意を示す。

 酷い! なんて言って嘘泣きしているヤマセに少し申し訳なくなりつつも、コーリに目をやる。真摯な光を宿した瞳が、真っ直ぐにユージローを射抜いていた。


「ヤマセが言ったとおりだ。そして、この『キエン』という店は色んな世界軸と交わる店で、人間が来ることもあれば、人間ではないもの、例えば妖怪、悪魔、天使、神と呼ばれるモノも、来る。そういう店だ」





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