ユージロー ④
「なるほど」
反射的に口から溢れた言葉だったが、頭の中では、なるほど、なんて全く思っていない。情報量が多すぎて、あと少しでも情報を入れてしまったら、脳が処理落ちしそうだ。
「ちょっと待ってください」
声を掛けて湯呑を手に取る。
幸いにもまだあの美味しいお茶は残っていて、喉に流し込めば少しだけ頭を冷やしてくれた。中身のなくなった湯呑に、また新しく注がれていくはちみつ色。視線を上げれば、ヤマセが気を利かせてくれたようだった。ありがとうございます、と言えば、どういたしまして、と柔らかく返ってくる。
会話もきちんと成立するし、見た目も人間とさして変わりないのに、人間ではない存在。
コーリとヤマセに言われたことを頭の中で何度も反芻する。
とりあえず。食べられることはないようで、そこは安心だ。
待ってください、という言葉に律儀に待っていてくれるところも、ユージローを安心させた。
彼らには、人が無意識にかけているような圧を感じない。
もう一度説明してください、と言えばもう一度説明してくれるような真摯さがある。コーリは態度からしてそうだし、ヤマセもからかいが好きなだけで、人のことを蔑ろにする様子はない。分からない、と伝えてもちょっとずつ解っていけば良いよ、と言ってくれる器量を持ち合わせているように感じる。
根拠なんて、ないけれど。
「全部は、すみません、理解できないんですけど、コーリさんとヤマセさんが人間でないことはわかりました。でも、此処が異世界?というのは、」
「想像がつかない?」
「はい」
「よし」
素直に肯定したユージローに、何を思ったのかヤマセは深く頷いた。
そのまま流れるような動作で、目を白黒させているユージローの傍まで来た彼が、手を差し出してくる。ヤマセの顔とその手を交互に何度も見ていると、ヤマセは笑って言った。
「百聞は一見にしかず。実際に見てみたら良いよ」
この人に手を差し出されると何だか断れないんだよなぁ、なんてどうでもいいことを思う。最初こそ警戒してしまったものの、どうしてだか彼が差し出してくれる手は、とても魅力的なものに思えてしまうのだ。その手を取ったら全てが解決するような、そんな心持ちにする。
そんなことを思っているを知ってか知らずか、ヤマセはユージローの手を引く。
されるがまま椅子から立ち上がって、さっき通った扉を潜って、店内へ。高らかな下駄の音に混じって、また鍵たちが擦れる音がする。ヤマセの足は止まることはなく、カウンターを抜けていく。
さっき小太りの男が出ていった扉の前で、やっとその足を止めた。
くるりと振り返ったヤマセが、柔らかな笑みを浮かべたままこちらを見下ろしてくる。
「ここを、開けてみると良い」
そっと放された手。その宙ぶらりんの手を、そのまま横扉の引手に掛ける。
口の中に溜まった唾をゴクリと飲み込んだ。
ゆっくりと指先に力を入れていく。
からからと徐々に開いていく扉の先。
そこにあったのは、墨を塗りつぶしたような暗闇だった。
その宙に、ぼんやりと薄く灯る橙があった。ザワザワと何かが聞こえてくるのに、それは言葉として耳で捉えることは出来ず、ただただ騒がしさだけをユージローに感じさせる。
「どんなふうに見える?」
隣から掛かる声に視線をやれば、同じように扉から外の様子を見ているヤマセの横顔が見える。ヤマセの色素の薄い瞳に映る橙は、ゆらゆらと揺れていた。その瞳には、ユージローが僅かに抱いた恐怖とは別の感情が乗っているように見える。
ふいにこちらを向いた瞳に、促されるように口を開いた。
「えっと、暗闇があって、ぼんやりとした灯りが点々と連なってます」
「なるほど、君にはそう見えているんだね」
「君には、って、ヤマセさんは違うんですか?」
もしも同じものを見ているのだとしたら『君にも』で良いはずなのに、彼は『君には』と言った。言葉遊びを得意とするヤマセは、そんな小さな言葉の違いにも意味を込めている気がしたのだ。
だからそう聞いたユージローに、ヤマセは目を細めて笑う。
「鋭いね。君の言う通り、ボクには君とは違う景色が見える。ボクが昔から知っている慣れ親しんだ街並みだ」
ユージローから目を放したヤマセが見えるという街並を、ユージローももう一度見てみる。やっぱり目の前に広がるのは、墨汁のような闇とぼんやりと灯る明かり、そして耳にざらつくような音だけだ。とても街並みなんて見えなかった。
「ヤマセさんが見てる景色と僕が見ている景色は全然違うんですね。ちょっと見てみたかったです」
「それは得策じゃないな。見えたら、君が変わってしまうからね」
それはどういう意味ですか、という問いは、ヤマセが徐ろに引いた横扉の音のせいでかき消されていく。ユージローに向き直った彼は言った。
「さてと。これで納得してもらえたかな?」
「あ、えっと、はい。此処が馴染みのない場所であることはわかりました」
「よろしい。では、コーリのところに戻ろうか」
はい、と頷いてヤマセの後ろに続く。
嗚呼、と思い出したように声を上げたヤマセが、首だけで振り返る。その顔には彼お得意の薄い笑みが、顔へ貼り付けたように浮かんでいた。
「ユージローが一人の時は、あの扉から外に出ないこと」
その声は彼には珍しく硬い色をしていた。絶対にするな、とは言われていないのに、やめておいた方が得策だ、と言われているような。
理由は聞かないほうが良いだろうか。
でも多分自分のためにならないんだろう、ということは予想できる。
はい、と深く頷けば、うんうん、と満足気にヤマセはまた前を向いた。
何が起きるかは定かではないけれど、あの扉は色んな世界につながる扉なのは、コーリの話からも分かる。普通の生活をしていれば、妖怪とか天使とか悪魔とか、そういう人間や動物以外の存在に出会うことはほぼ無い。もちろんそういうモノが見える能力を持つ人もいるけれど、ユージローには今まで無縁のものだった。
だけど、とヤマセの頭の上を見る。
今は何故か他人の頭上にそのヒトの名前が見えるようになった。今でも青い字は彼の頭上にふわふわと浮いている。その奥に見える紫の字も靄のように浮いている。
それは、意識すれば簡単に見ることが出来る。
意識しなければ、まるでそこには存在しないように景色に溶けている。
こんな不思議なことを自分で経験するとは思わなかった。
そもそも今は、自分がどこの誰かすら解っていないけれど。
「あ、でも絶対出るなってことではなくてね、ボクかコーリが近くにいれば大丈夫だよ。あと扉を開けるのも問題ない。敷居を跨ぐのだけは一人でしないように」
解った? とまた振り返ってきたヤマセに、わかりましたって、と笑う。
「子どもじゃないんだから、何度も言わなくてもわかります」
「そうかなぁ。いつかやりそうで怖いよ」
「そういうのフラグって言うんですやめてください」
「それを君が回収しなければいい話だ」
「……フラグも通じちゃうんなんて驚きですね」
「ボクの知識を舐めてもらったら困るよ」
ふふん、とヤマセが得意げに鼻を鳴らしたから、ユージローはまた笑ってしまったのだった。
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