殿田 ③
恐る恐る彼等から見えないように、物陰から顔を出す。
カウンターとヤマセのおかげで、デンダからはユージローを見ることは出来ない。店の奥まで来たことのない彼には、店内の構造が分かるはずもない。丁度カウンターの椅子に座ると、客側からは店の奥、つまりいつもコーリが作業している様子を見ることは出来ないのだ。
この店の構造を熟知しているヤマセにはバレる可能性もあるものの、ずっとデンダの方に顔を向けているおかげでユージローには気付いていないはずだ。
静かに息を潜めて彼等の様子を伺う。
「あの子に言っても仕方がないことを、どうして言うのでしょう?」
心底不思議だ、と言わんばかりに首を傾けたヤマセの向こう側に、汗をたらりと垂らしたデンダがいる。ヤマセの声は、静かで怒鳴っている訳ではないのに、圧を感じるものだった。
「あの子は素直で良い子だ。だから貴方も八つ当たりしやすいんだろう。でも、貴方に土下座しないといけない理由はない」
「あ、アイツは此処の店員のくせに、客であるワタシを疑ったんだぞ!」
声を上げたデンダの言い訳が耳に届いても、ヤマセは喉で笑った。
「だからなんですか?」
「…………は?」
「聞こえませんでしたか? だからなんですか、と言いました」
え、とユージローも思う。
だからなんですか、ってなんだ?
デンダの驚きの声も当然だろう。だって常識的に考えれば、そんな言葉は出てこないはずだ。接客でそんなことを言ったとしたら、客に逆上されても可笑しくない。トラブルを避けるためにも、そんなことをいう人はないない。
しかし、言った張本人は全く動じた様子はなく、それどころか腹の辺りで腕を組んでいる。顔は見えないけれど、多分笑みを浮かべているのだろう。
「確かにユージローが、貴方のことを根拠もなく侮辱したのなら、ユージローに非があるでしょうね。しかし、そんなことをウチのユージローがするはずない」
実際にボクも見ていたし、聞いていました。
そう言うヤマセに、疑いの目を向けたのは、ユージローだけではなかったはずだ。
降りてきた時にこの店内には誰もいなかったし、かといって、奥の扉が開いた音もしなかった。更に言えば、全く気配がなかったのだ。
デンダは苦し紛れに鼻で笑った。
「ハッ、あんたも嘘を吐いているだろう! あんたは何処にもいなかった!」
「いましたよ。疑うのなら、今此処で言いましょうか?」
全く動じていない声のまま、ヤマセは口を動かし始めた。
「まず貴方はこの店の扉を壊れそうになるほど強く開けましたね? そこにちょうどユージローが二階から降りてきた。声を掛けてくるユージローを無視してふてぶてしくその椅子に腰掛けた貴方はこう言った。『キミは此処の新しい従業員かね?』と」
見ていたし、という言葉を証明するように、紡がれた状況説明。
正しくその通りだった。
デンダのユージローへの態度も、デンダの言葉も、ユージローが見たままのことだった。ヤマセの言葉が嘘ではない、とデンダも理解したのだろう、慌てて口を動かして反論した。
「だ、だが鍵が使えないのはワタシのせいだとアイツは言っただろう!」
「いいえ。彼は『鍵のせいではない可能性もあるのではないですか?』と貴方に問いかけただけです。それを貴方は勝手に決めつけて、逆にウチのコーリとユージローを侮辱した。自分に非はないと言わんばかりに」
違いますか?
冷静な声がその場に満ちる。
デンダは何も言えないようだった。ヤマセの後ろ姿しか見えないユージローには、デンダがどんな顔をしているのかは見えない。しかし、ヤマセ越しに見える『デンダ』という赤い字がゆらゆらと揺れているのが見えた。
「前に貴方が此処に来た時、コーリが言いましたよね?」
「な、何をだ!」
「鍵穴を見つけるのは貴方で、鍵を使うのも貴方だ、と」
「ッそれが、どうしたっていうんだ」
「鍵を使うためには、貴方に『何か』が決定的に足りない。それを貴方自身、自覚している。しかしその答えを見つけられないことに腹を立てて、そんな自分を認められず、コーリやユージローに八つ当たりしているだけなんですよ」
バンッ、と大きな音を立ててカウンターが叩かれる。
デンダだ。彼の肉付きの良い腕が打ち震えているのが見えた。それだけ怒りを露わにしているというのに、何も言い返さない。否、きっと何も言えない、というのが正しいのだろう。
「どうぞ、お引き取りください」
ヤマセは僅かに頭を下げると、組んでいた腕を解いてその手で出口を指し示す。
デンダがまた焦ったように声を上げた。
「あんたらっ、悪評が広まってもいいのか!?」
「どうぞご勝手に。何もボク達は商売しているわけではありませんので」
ほら、お金も頂いてないでしょう? と喉で笑う声がする。
ヒッ、と喉が引き攣るような声はデンダのもので間違いないだろう。普通の店には通じていたかもしれない手が、全く通じず相手にもされない。その事実に、恐怖を抱いているのかもしれなかった。
「鍵は返品していただかなくて結構です。もうお代も頂いてますし」
「こ、こ、こんなことを言って…! ただで済むと思うなよッ!」
「タダでは済まないのはお互い様ですよ、デンダさん」
毅然とした言葉に怖気付いたのか、デンダが後退る。
ヤマセの向こう側に一瞬見えたデンダの顔は、随分と歪んで恐ろしいものでも見るような様相をしていた。
「あんたら一体、何なんだっ……!」
悲痛な叫びのように聞こえた。
さっきまでユージローに土下座をさせようとしていた優位に満ちた笑みはない。それどころか、焦燥に駆られた迷子の子どものように喚いている。ヤマセは何も答えはしなかった。
ユージローは、ただその様子をぼんやりと見つめることしか出来なかった。
「クソッ、一体俺に何が足りないんだッ! 教えてくれ! 金ならいくらでもっ、いくらでも払うから!」
頭を抱えて喚いているデンダの頭の上で、赤い字が揺らいでいる。
雑巾を絞るようにねじれて、伸びて、細くなる。擦り切れそうなほど、細く。
それでも、ヤマセの声は少しも揺らぐことはなかった。
「ボクが貴方に教えることは何もありません。────他人も、自分も疑っている貴方には、何も」
ただ流れ落ちる滝のように強く、しかし湖のように静かな声だった。
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