清水 ④


 なんてことを言うのだろう。

 思わず立ち上がろうとしたユージローだったが、肩に置かれたヤマセの手がそれを遮った。

 ただ置かれているだけに見えるのに一体何処にそんな力があるのか、と聞きたくなるほどの力、というよりも体が言うことを聞かない、という方が正確かもしれない。動くことを意図的に止められているような、神経が言うことを聞いてくれなくなったような、不思議な感覚が体の中を占めている。

 辛うじて動く頭を動かして、シスイへと目を向けた。


 シスイは、ヤマセに視線を向けて固まっていた。

 信じられないものをみるような、レンズ越しの大きく見開かれた目。

 呆気にとられたように、僅かに開いた唇。


 彼女がショックを受けているのが、丸わかりだ。

 家族に話をしても理解されなかった、と言っていた彼女にまた同じ思いをさせてしまったのかと思うと、気が気ではなかった。


「自分の心は自分のもので、相手には理解できないものです。貴女と同じ人がいないように、貴女の心を心の底から理解できる人は貴女以外いない」


 ヤマセさんの意図が、全然分からない。

 どうしてヤマセのような言葉を巧みに操るヒトが、傷口に塩を塗るようなことを言うのだろう。そんなことを言えば彼女が傷つくと彼は解っているはずだ。あれだけ人間観察に長けていて、相手の本質を突くようなことを言うヒトが、何も考えていないとは思えない。傷つくと知っていて、わざと言ったようにしか思えない。今まではそんな事ないって信じていたけれど、もしかして彼はただ、人を動揺させて楽しんでいるんじゃないだろうか。

 ヤマセの人となりをいよいよ疑い始めたユージローをよそに、その張本人は更に口を動かした。


「ボクの心が貴女に分からないように、貴女の心をボクもユージローも、想像することは出来ても、本当の意味で理解できることはない。貴女が感じた痛みは貴女のものだ」


 ヤマセが言うことは、正しい。

 同じ状況に陥ったとして、同じ感情の動きをするかと言えばそうではない。

 感じることも、思うことも、行動も、何もかも全て同じ人は居ないのだろうと思う。生きてきた過程も、感じてきたことも、まるで違う。例え双子だとしても違う人間であれば、出てくる言葉も想いも全て同じとは限らない。


 想像ができても、同じことを追体験し同じことを感じることは難しい。


 ヤマセはそう言いたいのだ。

 それは想像が容易くつくことで、彼が間違っているとはこれっぽっちも思わない。

 正しすぎるくらいだ。でも。ギリッ、と奥歯を噛みしめる。

 ヤマセが言うことが正しかったとしても、それで片付けられて良い問題ではない、と思うのだ。

 何かがあって彼女が悲しんだ、という事実がある。

 過去にあったことが彼女の記憶から消えないまま、彼女は未だに悲しんでいる。それを誰かに解決してほしいなんて高望みはしているわけではない。

 ただその時のことを誰かに理解してほしい、と願うことはそんなにいけないことだろうか。

 誰かに痛みを共有したいと願うことは、駄目なことなのだろうか。

 だって一人で抱えるにはあまりのも重たいものだったら、誰かに話したくなるものじゃないか。誰かに解って欲しいと思ってしまうじゃないか。

 話したところでどうにもならない、と片付けてしまう人も、誰かに言わずとも自分で消化してしまえる人も勿論いると思うけれど、でも。


 全員がそうとは限らないのに。


「でもね」


 ヤマセの声が落ちてきて、肩を優しく叩かれる。

 いつの間にか下がっていた顔に、やっとユージローは気が付いた。


「だからこそ、他人にどうこう言われる筋合いはない」


 視線を持ち上げた先にいるヤマセは、やっぱり穏やかな笑みを口元に乗せていた。その瞳には、意地の悪さはない。見守るような、柔らかさと温かさがあった。


「なぜなら貴女以外の誰かは、貴方基準の物差しで痛みを測って感じることは決してできないのだから。他人に理解されなかったとしても、貴女が痛いと感じたのならそれは痛いことで、貴女が耐え難いと感じたのなら耐え難いことなんです」


 シャラリと鍵たちが音を立てる。

 ふわりと何処からともなく吹いた風が胸の奥を撫でて、胸の中に立ち込めていた暗雲を全て取り去っていくようだった。


「誰かに理解されることは、さほど重要ではありません。貴女が何を感じ、どう思ったのか、そちらの方が誰かに理解されることよりも余程大切です」


 ヤマセの一連の言葉の意図がやっと、ユージローにも理解できる。

 ヤマセは、シスイに『他人に理解してもらおうとするな』と言ったのではない。『他人からの理解が必要な痛みなんてない』と言ったのだ。

 他人に理解されないからといって、その傷をなかったことにする必要はない。痛いと思ったことは痛いし、悲しいと思ったことは悲しい。辛いと思ったことは辛い。それを経験した人がそう思ったのならそれが真実で、そこに当事者でない他人が介在する必要はない。

 ヤマセはきっと、そう言いたいのだ。


「だから、他人がいくら蔑ろにしようが、貴女は貴女自身を蔑ろにするのは良くない。貴女自身の心をなかったことにしないためにも」


 ややあって、はい、とシスイから聞こえた声は滲んでいた。

 ゆっくりと彼女に目を向ければ、少しだけ下を向いて目元をハンカチで押さえている。

 静かに安堵の息を漏らしたユージローの頬も、自然と緩んでいく。


 早合点してヤマセに食ってかからなくてよかった、と思う。

 ヤマセでなければ、こんな大切なことをシスイに伝えることは出来なかった。自分は結局、彼女に何を伝えるべきか未だに言葉に出来てもいない。それどころか結論を聞く前に、なんてことを言うんだ、と止めてしまうところだった。

 確かに話を聞いて彼女の気持ちを多少軽くすることは出来たかも知れないけれど、明日からの彼女の心の支えに成るようなことは、きっと彼女が扉を潜って帰ってしまっても言えないと思うのだ。


 どうしたらヤマセさんみたいに、目の前の問題に惑わされることなく物事の本質を見つめることが出来るんだろう。目の前のことだけで精一杯になってしまう僕とは、一体何が違うんだろう。


 その答えはまだ当分見つかりそうにない。


「さて、お嬢さん」


 肩から手を離したヤマセが、ユージローの隣に立つ。導かれるように持ち上がったシスイの瞳が、ヤマセを捉えた。僅かに傾げられた首。


「此処は、貴女が欲しいと願う鍵を作る店。外の看板にあるように、どんな鍵でも作る店です」


 まるで昔話を語るような柔らかさで紡がれる言葉たちが、まっすぐにシスイへと伝えられる。

 彼女の瞳が一瞬輝いて見えたのが、目の錯覚出ないと良い。

 そうユージローは思った。


「貴女が欲しいと願う鍵は、見つかりましたか?」


 ヤマセからの問いかけに、時間を掛けてシスイの口がゆっくりと開かれた。

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