清水 ⑦


 次にシスイが現れたのは、ユージローが一度二階に眠りに行った後のことだった。

 二階から降りてきた時、既にシスイはカウンターの向こう側の椅子に座っていた。あれ、と思ったのは、初めに見た時のシスイと少し違う印象を抱いたからだ。

 長かった前髪が、バッサリと切り落とされて綺麗な横線を描いていた。身につけているものは殆ど変わらないのに、前髪だけでだいぶ印象が変わる。店に初めて来た時はずいぶん暗い印象を受けたのに、今はどちらかと言えば仕事が出来そうなOLという印象を抱かせた。

 目が合うと、少しだけ目元を緩めてぺこりと頭を下げられて、ユージローも慌てて頭を下げてから、カウンターへ入った。


「ユージローさん、今日はお休みなのかと思ってました」

「いや、あはは」


 まさかさっきまで寝てました、とは言えずに、笑って誤魔化す。聞けば、ヤマセが対応してくれたのだという。もうすぐ鍵が出来るから待ってて欲しい、と言われたそうだ。

 まだ時間があると分かって、すぐさま自分の中に生まれた言葉を掛けた。


「シスイさん、随分雰囲気が変わりましたね」

「あ、そうみえますか?」

「はい。前髪を切られたせいか、明るく見えます」


 その言葉に嘘はない。前の髪型が似合ってなかったわけではないけれど、前髪が目に掛からないだけで、こんな風に明るく見えるのだな、と思った。レンズ越しに見える瞳にいつも光が入って見えるから、余計にそう思うのかも知れない。

 彼女はどういう人に見えますか、と今誰かに聞かれたら『爽やかで、とても仕事が出来そうなヒト』と答えるだろう。

 少しだけ恥ずかしそうにシスイは、横髪を耳に掛けた。


「昨日帰ってから、バッサリ切っちゃったんです」

「ご自分で、ですか?」


 はい、と言ったシスイは、照れたように目元を赤く染めて、首元を撫でた。


「明るい性格の鍵を作って貰うのに、私が陰気な格好してたら何だかチグハグだなって思って。思い切って切っちゃいました。職場の人も驚いてました」


 思い出しているのか、ふふふ、と彼女は笑った。その笑みは、やはり陰気さを感じさせない。あんなに人の目を気にしていたのに、悪戯が成功した子どもみたいに可笑しそうにしている。

 そんな様子の彼女を見て、ユージローはヤマセの言葉を思い出す。


 鍵を作ったことを切欠に、本当に欲しい鍵が解るヒトもいる、とヤマセは言っていた。まさに彼女がそれだった。自分が心配していた事なんて、遠く彼方に霞む様に、既にシスイは変わり始めているのだ。

 ぎゅうう、と胸が嬉しさで締め付けられる。

 よかった。彼女が変わりたいと思って、もうすでに行動に移せているのなら、彼女が望む通り、きっと彼女は変わることが出来るのだろうと思う。

 ユージローが考えているよりもずっと、シスイは前を見て歩けているのかもしれない。


「シスイさん、これは僕のお節介として聞き流して欲しいんですが、」


 声をかけると、彼女は少し首を傾げた。

 彼女は、きっと鍵を無駄にすることはないだろう。

 でも、もしも。

 もしも、望み通りの結果が得られなかった時、下を向かずに済む様に。


「もしもの時は、またお越し下さい。此処は、訪れたヒトが望んだ鍵を作る店です。僕たちは此処で、貴女をいつでもお待ちしてます」


 シスイが目を瞬く。じっと見つめ返す。もしも迷った時に、此処を思い出して貰えたら良いと思うから。ユージローの視線に応える様に、シスイは小さく笑って頷いた。


「待たせた」


 背中に声が掛かって振り返る。コーリが一本の鍵を持って立っていた。


「それが、『明るい性格になる鍵』ですか?」

「そうだ」


 ユージローは椅子から立ち上がって、コーリに場所を譲った。カウンターに無造作に置かれた鍵を見つめる。

 光を七色に反射するクリスタルに王冠が付いたキーヘッド。錠を開くための鍵山は、針金の様に細いガラスで出来ていた。

 とてもうつくしい鍵だった。


「この鍵を渡す前に、注意事項を伝える」


 シスイから、ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。コーリは構わず、口を動かし始める。


「まず、俺たちは鍵を作ることは出来ても、開ける手伝いは出来ない。要は、鍵穴はアンタが自分で見つけなければいけないってことだ」

「は、はい」

「だからこれを受け取ったとしても、使える保証は出来ない。それが最大の注意点だ」


 コーリの言葉をシスイは真剣に聞いていた。鍵を見つめる瞳は、とても真っ直ぐだ。その鍵を疑う様な素振りは、一切感じられなかった。


「その注意点を踏まえて、これを渡す条件として、アンタが今着けている黒のマフラーを貰うことになる」

「これ、ですか?」

「ああ。その条件が呑まないのであれば、この鍵を渡すことは出来ない」


 シスイは、ギュッと首元のマフラーを握り締めた。伏せられた瞳からは、少しの寂しさが見て取れた。サロウがあの大切なブローチに向けていた、記憶を思い返すようなそれ。


「どうしても、これじゃなきゃダメですか?」

「ああ。それでなければ鍵は渡せない」


 彼女にとって、とても大切な思い出が詰まったマフラーなのだろう。ところどころ端がほつれているのに、それを使い続けているのが証拠だった。

 しかし、ユージローにはそれを止める権利はない。

 この店から一つの鍵が旅立つ時、その鍵を貰い受けたヒトから別の鍵を作るための材料を受け取る。

 それがこの店のキマリなのだ。それを破ったら、余程のことが起きるのだと思う。その内容は、ユージローには分からないけれど。


「このマフラーは、私にとっての御守りだったんです」


 ポツリとシスイは言う。それを遮るでもなく、コーリは静かに聞いていた。


「こんな私のことを好きだと言ってくれた元彼から、ずっと前に貰ったものです。結局彼とは別れてしまったけど、このマフラーのお陰で、私は今まで頑張ってこれたと言っても良いくらいなんです」


 想像しなくても、彼女がそれをとても頼りにしてきたのはよくわかる。

 でも、とユージローは思う。

 そのマフラーは言わば、彼女の過去そのものだ。暗い性格だと彼女が言っていた通りの、彼女を象徴するものだ。だからこそ、コーリはそのマフラーを選んだのかもしれない。

 でも御守り同然のものが、簡単に手放せないのはユージローにも分かるのだ。自分も昔、ずっとうさぎの小さなぬいぐるみを大切にしていた。

 古びた、うさぎのぬいぐるみ。

 一瞬よぎった映像に、ハッとした時にはすでにその景色はなかった。


「でも」


 うさぎのぬいぐるみ、という言葉だけを反芻していたユージローの思考を遮ったのは、他でもないシスイだ。


「これを差し出しても、私はその鍵が欲しいです。……薄情だと思われるかもしれませんが」

「そんなこと絶対に思いません!」


 気付けば声を上げていた。

 変わりたいと願うヒトを薄情だなんて思わない。物を手放したとしても記憶が無くなるわけではない。少しずつ薄れてしまっても、過去の彼女が彼を愛していたことは変わりはしないし、そのマフラーが支えだったことも変わりはしない。


「シスイさんが、変わりたいと思ったその心を、シスイさんには大切にしてほしいです。貴女は貴女の心に正直で良いんです」


 ぱちぱちと眼鏡の向こう側の瞳が瞬かれる。ゆうるりと弧を描いて、はい、と頷いた彼女はとてもうつくしい笑みを浮かべていた。


「じゃあ、取引成立だな」


 マフラーを丁寧に畳んだシスイは、頷いてそれをカウンターの上に置いた。それを受け取ったコーリは、代わりに彼女の目の前にその鍵を差し出す。


「此処は、アンタが望む鍵を出す店だ。また用があったらいつでも来ると良い」

「いつでもお待ちしてます!」

「はい。お二人とも、お世話になりました。ヤマセさんにもよろしくお伝えください」

「僕から伝えておきます」


 今日一番の笑みを浮かべたシスイは、お礼を言って扉の向こうに消えていった。

 扉が閉まるまで見送って、コーリに視線を向ける。彼もまた扉を見つめていた。


「彼女は、鍵を使うことが出来るでしょうか」


 ぽつりと問いかけると、コーリは口元に笑みを浮かべて言った。


「それは、彼女次第だ」


 彼らしい言葉だった。そうですね、と笑って返事をすると、コーリは立ち上がってまた工房に戻っていく。開いた椅子に今度はユージローが腰を掛けた。

 どうか彼女が彼女の望むものを手に入れられますように。

 そう誰ともなく、祈った。








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