佐々木 ⑤


 息を吸って吐き出す。

 数メートルに見えているのは、昨日鍵を無くして絶望していた佐々木に、救いの手を差し伸べてくれた鍵屋だった。

 今日も遅い時間だというのに、どこかほっとするような温度の光が、佐々木を誘うように煌々と漏れている。


 あの後ユージローに言われた言葉はこうだ。


――実はまだ鍵が出来てないんです。なのでまずは鍵をお作りしてから、その時お代についてお話しします。また明日、同じ時間に同じ場所へ来て下さい。


 曰く、佐々木が依頼した奇天烈な鍵を作るのに、一日ほど必要らしい。

 どんな作業工程でその鍵が作られるのか、正直物凄く気になる。がしかし、そこのあたりは所謂、企業秘密、というやつなのだろう。

 あの店の謎は多すぎて、もうツッコミが間に合わない。

 何のために使うのか解らない名前の鍵のことも、彼らの正体も、どうしてユージローが佐々木の名前を言い当てたのかも。

 現実であって現実ではないような気がするのに、確かにあの店は目の前に存在している。

 昨日受け取った家の鍵も本物で、がちゃりと音を立てて扉が開いたとき、ウワッ、なんて驚きの声を上げてしまった。幸い夜中のおかげで、誰も佐々木のことを見る事はなかったけれど。本当にあの短時間どころか、数秒で出てきた鍵を使えた瞬間は、一生忘れることは無いだろう。

 少し前の自分だったら絶対信用してなかったよなぁ、と小さく笑みが漏れる。

 他人に無関心でいようとした以前までの自分だったら、関わるようなこともしなかっただろう。自分の事も他人の事も全然信じようとしなかったから。

 でも彼らなら。

 ずっと抱えてきた想いを吐露した彼らなら、そして笑い飛ばすことなく寄り添ってくれた彼らなら、信じてみようと思えたから。

 だからこそ佐々木は、今此処に立っている。

 よし、と意気込んで、大股でその店の前まで辿り着く。ゆっくりと横開きの扉に手を掛けて、勢い良く開いた。


「こんばんは」

「あっ、ササキさん! お待ちしてました!」


 破顔したユージローが出迎えてくれた。

 こちらへどうぞ、と昨日と同じカウンターへと通してくれる。向かい側には既に、コーリが座っていた。カウンターの目の前までくると、コーリの顔がゆっくりと持ち上がる。


「来たな、ササキさん」


 コーリが少しだけ口角を持ち上げたように見えたのは、気のせいではないと思いたい。まるで歓迎してくれているような錯覚を覚えて、照れ臭くなった。鼻の頭を指先で擦る。


「そりゃあ来ますよ。明日来て下さい、って昨日言われたんですから」

「昨日言ったろ。そう言われても来ない奴はいる」

「それ、俺が来て嬉しいって聞こえるんですけど俺の気のせいですかね?」

「アンタがそう聞こえたのなら、そうなのかもな」


 椅子に腰を掛けた佐々木に、そんな肯定か否定かも解らない言葉が返ってくる。なんだよその適当な答え、と笑ってしまう。

 正直すぎる、とユージローが言っていた所から察するに、これもまた彼の本心なんだろう。やはり彼の口元はゆるく持ち上がっていた。


「鍵は出来たよ」


 鞄を足元に置いたと同時に、ぽつりと聞こえた声。

 視線を上げて姿勢を正すと、さっきまでの笑みを既に消したコーリが、じっと佐々木を見つめていた。

 ごくりと唾を飲み込んで、はい、と返事をする。


「鍵を見せる前に、お代のことについてだが」

「はい」


 ついにきた。

 ゴクリと唾を飲み込んで、深く頷いた。そんな佐々木の様子に、コーリの片眉がくいと持ち上がる。


「その前に出来たのを見せろ、とは言わないのか?」

「え? 言った方が良かったですか?」


 いや、とコーリは首を横に振る。

 彼が出来たと言ったのなら出来たのだろうと思ったのだ。逆にそう聞かれたらてっきり言った方が良かったのかと思うし、そうじゃないのなら何のためにその問いかけをしてきたのか解らない。

 首を傾げると、コーリに小さく笑われた。


「一日で大分変わったな、アンタ」

「……え?」

「だって、昨日は鍵を見せたとき本物かどうか随分疑ってただろ?」


 思い返してみると、確かにコーリの言うとおりだ。

 そんな鍵があるわけない、と言い出しそうな勢いだった昨日までの自分。

 だというのに、今はどうだ。実物が目の前になくても、それを受け入れようとしている。彼らがウソをつく筈がないと、そう当たり前の様に思っている。

 何だか、とても不思議だった。

 この店がそう思わせたのか、それとも昨日家の鍵で実証済みだからなのか。

 コーリやユージローの言動を、信用に値するものだと思っている。


「……もっと疑った方が、良いですか?」


 恐る恐る聞いてみる。コーリはまた首を横に振った。口元に小さな笑みを浮かべて、喉で笑われる。

 笑われる理由が分からなくて、頭の中に沢山のハテナを浮かべていた佐々木に、ぽつりと彼は言った。


「もう、アンタは大丈夫だな」


 その声は、とても優しい響きをしていた。

 母親に慈しむように名前を呼ばれた時の事を思い出させるような。とても温かくて、ずっと聞いていたら、思わず涙ぐんでしまいそうな。そんな音をしていた。

 じわりと目元に迫った熱を霧散させるように、何度も瞬きを繰り返す。幸いにも、彼らに醜態をさらすことはなかったけれど、気を抜いてしまえば涙を落としてしまいそうだった。

 そんなこちらの気も知らず、コーリは彼自身のつなぎ服のジッパーを僅かに下ろして、胸裏のポケットに手を突っ込んだ。

 ごそごそと数秒。

 ゆっくりと彼の指先がポケットから引き抜かれて、見えたのは。


「これが、アンタが言ってた『一歩を踏み出せる鍵』だ」


 青くて、組木細工を模したような頭の鍵だった。鍵穴に差し込むための部分は複雑な山を描いていて、この鍵で開ける錠前は、絶対にピッタリ合わないと開けられないものであることはすぐに解った。

 机に置かれたそれ。

 鍵は見つかった。

 あとは、自分が鍵穴を見つけるだけだ。


「鍵穴の在処は、見つけられそうか?」


 鍵から視線を上げて、コーリを見つめる。

 予想通り、彼は口角を僅かに持ち上げている。

 冷ややかではない、佐々木を照らしてくれた昨日の明かりと同じ温度をしたその笑み。

 背中を押される様な気分だった。見つけられないかもしれない、なんて気持ちは今胸の中にはない。今はただ、見つけてこの鍵をしっかり使いたいと思う。

 佐々木も同じ顔をして笑った。


「多分、見つかると思います」

「そうか」

 

 よかった、と言った彼はとても嬉しそうに見えた。



***



「ねえ、お父さん。けっきょく、そのおだいはなんだったの?」


 懐かしい記憶を思い返していたのを遮るように、娘の声が聞こえた。

 声が聞こえた方を見下ろせば、膝に乗せた小さな娘が柔らかくてマシュマロみたいな頬を大きく膨らませている。早く答えを教えてよ、と言わんばかりの彼女に笑って、口を開く。


「それはね、お父さんの逃げ癖だったんだよ」

「にげぐせ? にげぐせってなあに?」

「そうだなぁ。自分がやろう、って決めた事からにげちゃうことかな」

「よくわかんない」

「例えば、目の前に林檎があったとする」

「うん」

「それを、一個全部食べるぞ、って夏美は思ったとするだろう?」

「うん」

「でも林檎を食べ始めた夏美が、やっぱりやめーたって言って半分しか食べない、ってことだよ」


 うーん、と眉を寄せて唸っている娘は、多分いま言ったことを全部は理解できていないかもしれない。

 でも今はそれでも良いと思う。

 きっといつか解る日が来る。


「夏美にもきっと解る日がくるよ」

「わかったら、わたしもそのかぎやさんにいけるかな?」

「どうだろう? 行けるかもね」


 えへへ、と笑っている我が子の頭を優しく撫でる。

 レースのカーテンを大きく広げている春風が、心地良く二人の頬を撫でていく。


 あれからもう十年が経つ。

 あの鍵を受け取った日以来、佐々木もあの店には行けていない。

 そこにあったはずの鍵屋は、翌日に見に行ったとき跡形もなく消え去っていた。というよりも、ただの神社に変わっていたのだ。確かにあった筈の店が無くなっていた時、それでも佐々木の心は凪いでいた。

 スーツのポケットに入った鍵が、それは夢では無い、と教えてくれたからかもしれない。

 逃げ癖を彼らにお代として渡してしまったそれからの人生は、決して楽しい事ばかりではなかった。歯を食いしばって血が出るくらい手を握り締めるほど悔しい事もあったし、大きな声で泣いた日もあった。

 それでも佐々木はそれを乗り越えてきた。

 あの鍵の為の鍵穴を見つける事も出来た。

 だから、今の自分がある。

 顔を上げて、カーテンの向こう側の温かな光を見つめる。

 ユージローやコーリ、それからヤマセは今頃何をしているのだろう、と考えて、否、と頭を振る。


 きっと彼らは、相も変わらず鍵を作り続けているのだろう。

 彼らの鍵を必要とする誰かのために。

 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ご要望の鍵はお決まりですか? 晴なつ暎ふゆ @kumachiku5

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ