サロウ ①
「おーい」
ふとそんな声が聞こえた気がして、分厚いファイルから顔を上げた。
扉が開いた様子はないし、扉の前に誰かがいるわけでもない。
注意深く耳をすませて聞こえてくるのは、コーリが鍵を研磨する音、天井からぶら下がる鍵たちが擦れる爽やかな音だけだ。
おかしいな、空耳かな。
目を通している分厚いファイルが不思議の塊みたいなものだから、そういう不可思議なこともあるのかもしれない。
もう一度そのファイルに視線を落とせば、蝶やら蜂やらの羽をあしらったような鍵の絵があって、その横には『妖精を静かにさせる鍵』と書かれている。材料が走り書きされているものの、自分には読めない文字なのか、はたまた字が汚すぎるだけなのか、読むことは難しかった。辛うじて読めるのは各材料の数だけだ。材料も、馬の髪の毛、とか、塩こしょう、とか不思議な組み合わせで、どうしたらそんなモノから鍵が作られるのか、全く解らない。
しかしどのページも似たようなもので、鍵の名前、鍵の様相、鍵の材料のみが書かれている。一体誰がどんな鍵を求めたのか知りたいところではあるのだけれど、名前などは一切なかった。
「おーい、聞いとるか、小童」
ハッと顔を上げる。やっぱり気の所為なんかじゃない!
きょろきょろと辺りを見回してみると、こっちこっち、と声がした。右方向から聞こえた声。
そっとそちらに目をやると。
カウンターの上に、小さな小さな男がいた。サンタクロースのような白い髭を足元まで伸ばして、緑の三角帽を頭に乗せている、ぬいぐるみのような小さな男だった。
わっ、と声を上げたユージローにぬいぐるみ男は、ぐぐ、と白くて太い眉を中央に寄せた。
「なんじゃい、化け物でも見たような声をあげよって」
「あ、いや、すみません! いきなり貴方がそこにいたので」
「さっきからずっとおったぞ。お前さんがそのファイル見てた時からの」
「え、あ、ごめんなさい。ずっと気づかなくて」
「良い良い。コーリなんぞはもっと気づかん」
やれやれと肩を落としたぬいぐるみ男。
その頭上を凝視すると、ぼやぼやと浮かんだ緑の字。
「サロウ、さん?」
「おう、よく解ったな。慧眼持ちか」
感心したようにサロウが頷く。
慧眼、という言葉に脳裏に浮かんだのは、前に店を訪れたサクヤという少女のような姿をした人だ。慧眼は相手の本質を見抜く力だという。ユージローが彼女の名前を当てた時、随分とユージローを観察した彼女は納得がいったようにそう言っていた。
頬を指先で掻きながら、はは、と乾いた笑いを零す。
「サクヤさんにはそう言われました」
「サクヤ? ……嗚呼、あのちっこい嬢さんか」
いやいやあなたも十分小さいですよね。
その言葉はユージローの心の中だけに留められるはずだった。だのに、ちらりとこちらと見たサロウは、不満げに体を膨らませる。
「儂らは小さい種族なんじゃ。好き好んで小さくなっとる嬢さんとは一緒にせんどいてくれ」
「えっ、どうして」
「心の中を読めたのか、か? 儂も慧眼持ちじゃからに決まっとる」
「慧眼ってそんなことも出来るんですか」
「全員ではないがな。儂は出来るぞ」
何処か得意げなサロウに、なるほど、と頷く。不思議が多すぎて自分の常識が一切通じないのだな、と妙に納得した。そしてそれに慣れつつある。
サクヤは、慧眼にも色んな種類がある、と言っていた。ユージローは相手の名前が解ってしまうが、サロウには、相手が何を考えているのか解る能力があるのだろう。
「便利ですね」
相手の気持ちが見えてしまうのなら、誰が何を考えているのかも、誰が何をしてほしいのかも、誰が自分の味方なのかも解る。自分の事を嫌っている人に近付かない事も出来るし、変な諍いを避けることも出来る。相手の行動を疑わなくてもいい。相手の言葉をいちいち疑わなくてもいい。
それがとても羨ましいと思う。
人間社会ではそういう能力があったら、ものすごく便利だと思うのだ。
「それはどうじゃろうな」
だというのに、サロウは肩を竦めた。彼が言った言葉の意味を測りかねて、首を傾げる。小さく息を吐き出したサロウが何処か遠くを見つめて言った。
「相手の気持ちが見えても、どうすることも出来ない時だってある。相手の気持ちを考えすぎて、気に病むことだってある。良いことばかりとは限らんよ」
そういう状況にあった誰かのことを思い出しているのだろうか。
ユージローよりもずっと遠くを見ている眼差しに映るのは、決して明るい色ではなかったように思えた。目の前にあったものを掴み損ねるような落胆した声に、思わず謝罪が口をついて出た。
「ごめんなさい。何の考えもなしに便利とか言ってしまって」
やっと視点がユージローに定まったサロウは、首を横に振って朗らかな笑みを浮かべた。
「いいや。小童の言う通り勿論便利なこともある。誰かに騙される心配もないしな。まあこういう力は一長一短と相場が決まっとる。どんな能力を持っているか、よりもどう使うか、の方が大事だったりするもんさ」
どう使うか。その言葉をもう一度自分の声に出す。
どう使うか。その問いかけは、此処に来た人が鍵を使えなかったり、鍵穴を見つけられないのと少し似ているような気がした。せっかく鍵を手に入れたのに、使えない人もいれば、鍵穴を見つけられない人もいると聞いた。どうしてそんな差が出るのか、ユージローにはまだ分からない。ヤマセの言葉も、未だに胸の内に渦巻いて消えてくれない。
「嗚呼。じいさん、来てたのか」
思考を遮ったのは、背後から聞こえた声。振り返った先には、作業に一段落ついたのか顔に煤をつけたままのコーリが立っていた。心なしか、いつもよりも頬が緩んでいるように見える。
「おお、コーリ。また鍵を頼みに来たぞ」
「またか。今度はどんな鍵だ?」
花と話をする鍵が欲しくてな、とにこやかに会話をしている二人を見ながら、ユージローは考える。
サロウさんとデンダさんは一体何が違うんだろう。
また鍵を頼みに来ているということは、サロウは鍵を使えないことも、鍵穴が見つけられないこともないということだ。コーリも来客に対していつも纏っている空気よりも随分と柔らかい気がする。
一体何が違えば、サロウとデンダにこんなにも差が出るんだろう。
いくら考えても答えは出そうにない。
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