お菓子を巡る争い
客人が去った直後、ようやく本当の意味で肩の力を抜けた俺はため息をつく。
「
「だったらいつも私と会う度に緊張してるの?」
「
「それって私に威厳がないってことじゃない」
半目で睨んでくる白芳に苦笑いを返しながら応接間の後片付けをした。白芳も湯呑みをお盆に乗せて台所へと持っていく。
一方、
「にゃーはお菓子を食べるにゃ!」
「せめて台所で食べてくれ」
「わかったにゃ!」
許可をもらって喜んだ紅夜が応接間を出て行った。
ローテーブルを拭き終わった俺が台所に入ると白芳が湯呑みを洗っている。紅夜は食卓でお菓子を美味しそうに食べていた。
こうして改めて見ると、三人が集まってまだそんなに日が経っていないというのに随分と馴染んでいるな。
アナログ式の丸時計を見るともう夕方だ。夕飯の支度をしないといけない。
「今日の晩ご飯は何にしようかな」
「紅夜、あんまりお菓子ばっかり食べてると晩ご飯が食べられなくなるわよ」
「でもお菓子はやめられないにゃ」
「もう。はい、おしまい」
「にゃ!? あとひとつだけにゃ!」
お菓子の皿を巡る攻防が白芳と紅夜の間で始まった。呆れた笑いが口から漏れつつも俺は椅子にかけてあるエプロンを身につける。
冷凍庫を覗いて肉があることを確認すると薄切り豚ロース四人分を取り出した。一人分多いのは一人前では足りないからだ。白芳と紅夜は育ち盛りだしな。
取り出した豚ロースは電子レンジに入れて解凍する。今から自然解凍するとなると時間が間に合わないからだ。普段ならもっと早く用意するので電子レンジは使わない。
「
「これは意地悪じゃないの!」
「お菓子~、にゃーのお菓子~!」
「
「ご主人さまの作ったご飯にゃら無限に入るにゃ!」
「そんなわけないでしょ! 胃袋は有限なのよ!」
「ご主人さまのご飯は別腹にゃ!」
背後の争いは激しさを増すばかりだ。それを無視して俺は冷蔵庫からキャベツの四分の一玉を取り出した。プラスチック製の薄いまな板の上に置いて二人分だけ千切りにする。
キャベツの量が少ないのは白芳と紅夜が肉以外にあんまり興味を示さないからだ。猫の習性が強く残っているせいらしい。よって、二人の皿には半人前だけ添える。
「えいにゃ! やった取れたにゃ!」
「あ! もうこら、返しなさい!」
「イヤにゃ! にゃーは食べるにゃ!」
「ちょっとどこ行くのよ!?」
台所と居間で走り回っていた二人は、お菓子を取った紅夜の逃亡で他の場所へと去った。声と足音から二階に向かったらしい。
静かになった台所に電子レンジの調理完了音が響く。キャベツの残りを冷蔵庫にしまった。野菜が残り少なくないので近いうちに買わないといけない。
金属のボウルに
「こらー! 善賢の部屋から出てきなさい!」
「食べ終わったら出るにゃ! ばりばり!」
「ふざけんなー!」
まるで遠い世界の出来事のように二人の争いが背中から聞こえてきた。白芳にはここが借家だということを思い出して扉を叩く手を加減してほしい。
ささやかな想いとは別に手を動かしていく。小さなガラス製ボウルに醤油、料理酒、砂糖、すりおろし生姜を加えて混ぜた。これで下準備はできた。
ちなみに、うちではみりんは使わない。焦げやすくなるからだ。それなら砂糖も同じなんだけど、さすがに砂糖なしだと辛くなるので少量だけ入れている。
「おいしかったにゃー!」
「このバカねこー!」
「痛いにゃ! 殴ることないにゃ!」
「おだまりなさい! 善賢に甘えてなんでも許されると思っちゃダメよ!」
「ひどいにゃ! でもやられっぱなしじゃないにゃよ! えい!」
「いた!? あんた、よくもやったわね! こうなったら徹底的にお仕置きよ!」
「にゃーにお仕置きしてもいいのはご主人さまだけにゃ! 痛いのもばっちこいにゃ!」
「あんた何言ってんのよ! バカじゃない!?」
「ご主人さま、大好きにゃー!」
「みゃーみゃーみゃー!」
「にゃーにゃーにゃー!」
階下まではっきりと聞こえてるということはご近所様にも聞こえているんだろうな。ただでさえ噂になっているのに変なことを口走られると困るんだけど。
諦めの境地に達しつつも俺は手を動かし続けた。フライパンをコンロの上に置いて火をかける。続いてごま油を入れて温めてから薄切り豚ロース二人分を入れた。
肉が焼けるまで少し時間がかかる。菜箸を置いて火を弱火にすると白芳と紅夜のいる二階へと向かった。
階段を登った先では俺の部屋の前で二人が手を丸めて叩き合っている。どちらにも引っ掻き傷があった。思ったよりも激しい喧嘩に見えたので多少焦る。
「二人とも、いくら何でもやりすぎだろ」
「うわーん、ご主人さまー!」
「あ、こらちょっと待ちなさい!」
声をかけた途端に紅夜が白芳の脇をすり抜けて俺に突撃してきた。結構な勢いがあったのでよろめいたが階段の手前で何とか踏みとどまる。
俺の腹にしがみついた紅夜が潤んだ瞳を向けてきた。口を尖らせて涙ながらに訴えてくる。
「白ちゃんが、お菓子を食べただけでぶってきたにゃ! ご主人さまが食べてもいいって言ったのに、ひどいにゃ!」
「確かに言ったけど、別に全部食べなくても」
「善賢、悪いことをしたときはちゃんと叱らなきゃいけないわ!」
「それは確かにその通りなんだけど、別にここまでしなくても」
「にゃーは悪くないにゃ! ご主人さまの言う通りにしただけにゃ!」
「あー、物には限度というのがあってだね」
「善賢そこをどいて、紅夜を叱れない!」
「待って落ち着いて!」
目を吊り上げた白芳が爪を伸ばした両手を構えながら近づいて来た。明らかに鋭そうな
このままでは白芳が収まらないと思った俺はとにかく紅夜を諭すことにした。これに失敗すると俺も爪で引っかかれそうなので必死だ。優しい声で紅夜に語りかける。
「紅夜、お菓子を食べてもいいって確かに言ったけど、誰も盗ったりしないんだから別に今すぐ全部食べる必要はないだろ?」
「でも、でも、お菓子はおいしくてやめられないにゃ! やめようと思っても体が言うことを聞いてくれないにゃ!」
「うん、気持ちはわかる。すごくよくわかる。俺もポテトチップスを食べ始めると全部食べ終わるまでやめられないからな」
「ご主人さまもにゃーと同じにゃ!」
「けどな、晩ご飯の前にお菓子をたくさん食べるとその分おなかが膨れるだろ?」
「確かに膨れるにゃ。でも、ご主人さまの作ったご飯は全部食べられるにゃ!」
「確かに全部食べてくれるんだろうな。けど、例え食べられたとしても、お腹が膨れた分だけご飯がおいしくなくなっちゃうだろ?」
「そ、そんなことない、にゃ」
言葉とは裏腹に紅夜は目を微妙に逸らした。よし、もう少し。
逸らされた視線を戻して俺は更に話す。
「だから、俺はご飯の前にポテトチップスを食べないようにしてるんだ。やめられないから。紅夜も努力してくれると嬉しいな」
「努力にゃ?」
「そう。できないからってやらないと、いつまで経ってもできないままだろ。だから、ご飯の前にお菓子を食べないよう我慢する努力だ」
「難しいにゃ」
「確かに。だから今、白芳に怒られてるんじゃないか。もう食べちゃったのは仕方ないけど、次からは食べないようにな」
「は、はいにゃ」
「よし! それじゃ白芳に謝ろう。今回は紅夜が悪いことをしたから」
「うっ」
俺はくるりと紅夜の体を反転させた。目の前には腰に両手を当てて仁王立ちする白芳のが見える。表情は怒っているが両手の爪は伸びていない。
言いづらそうにしている紅夜が上目遣いに白芳を見つめる。
「お、お菓子を食べて、ごめんなさいにゃ」
「今回は許してあげる。善賢の言う通り、これからはご飯の前にお菓子は食べないようにね」
「努力するにゃ」
「まぁいいでしょ」
白芳の肩から力が抜けたのを見て俺と紅夜も緊張を解いた。とりあえずお菓子の件はこれで落着だ。危機は回避できた。
険の取れた表情の白芳は鼻をひくつかせる。
「それじゃ下りましょうか。ところでこれ何の臭い? 豚と油? おいしそうね」
「本当にゃ。お肉にゃ」
「今晩は豚の生姜焼き、あ!」
そういえば火をかけたままだったんだ! ここまで臭いがするということは結構やばいことになってるかも!
目を見開いた俺は一人急いで台所へと向かった。
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