猫と蛇
疲れた体に単調なバスと電車の揺れは気持ちいい。帰りはほとんど居眠っていた。
羽黒駅に到着するとそこで山木先輩と別れる。時刻はもう夕方で空はすっかり朱い。
「あー疲れた」
黒い肩掛け鞄を肩に引っかけている俺は冴えない顔のまま歩いていた。自宅までそんなにかからない距離だが足が重い。
頭がぼんやりとしていた。バスと電車で居眠ったのだから頭はすっきりとしているはずなのに全然寝たりないような感じだ。
足を前に出すのが徐々に面倒になってきた。だからといって道の真ん中で立ち尽くすわけにはいかないので何とか足を出すよう意識する。
「もしかして風邪でもひいたか?」
単なる疲労だと考えていた俺はさすがにこの状態はおかしいことに気付いた。疲れすぎて病気になってしまうことはよくあるからそれではと予想する。
鞄の中にある常備薬の内容を俺は思い出そうとした。腹痛止め、頭痛止め、胃薬の三つしかない。さすがに風邪までは備えていなかった。
体調は相変わらず悪いままだが今のところ悪いなりに安定しているようだ。このまま何とかして家まで帰らないといけない。
「シャァ」
何か聞こえた気がするが頭がぼんやりとしていてよくわからなかった。
肩と背中が重くなってきたように思う。何かが乗っているかのようだ。更に生臭い。ごみではなくて生き物のような気がする。
視界に自分の家が入った。ようやく帰宅できると思うと嬉しいが今は喜べる状態じゃない。一体自分に何が起きているのかわからないのが気持ち悪かった。
自宅の入口が見える。
「とりあえず、部屋に戻って寝たい」
今や声を出して自分を奮い立たせないと動けなかった。
玄関の扉の前に立つ。取っ手をひねるが開かない。鍵がかかっているようだ。ポケットから何とかして鍵を取り出す。鍵穴に差し込んでようやく扉を開けた。
奥から
一つ深呼吸をしたあと敷居をまたいだ。その瞬間、これまでにない痛みと不快さが全身を襲いかかってきた。何歩か前に進んで靴も脱がないまま式台に倒れる。
「うぁ」
俺が倒れた音を聞きつけた白芳と紅夜が玄関にやって来た。一瞬硬直した後、二人とも声を上げる。
「
「ご主人さま!」
自分の体に何が起きているのか俺にはわからなかった。不意を突いて襲ってきた苦しみにひたすら耐える。
そんな俺の全身にうっすらと何かが浮かび上がってきた。腕ほどもある太さの紐のようなものだ。その姿がはっきりとするにつれて生臭さが玄関一帯に漂う。
「蛇!? これは成りかけじゃない! なんでこんなものが!」
「これは何にゃ? にゃ!? 危ないにゃ!」
次第にはっきりと姿を表してきた蛇らしきものは俺に巻き付きながら苦しんでいた。そして、苦しみながらも触ろうとした紅夜に牙を突き立てようとする。
他のことに構う余裕がない俺とは違い、白芳は白い猫耳と二つの尻尾を解放して爪を伸ばした。開いた口からは伸びた犬歯も見える。
「お前、どこから憑いてきた!」
「シャァァ!」
顔の形がより猫に近くなった白芳は毛を逆立てた。俺に巻き付いたまま襲いかかってくる蛇の牙を右の爪で弾く。その隙に左の爪で蛇の頭を狙うが避けられた。
牙を剥く白芳が叫ぶ。
「成りそこない風情が、よくも!」
「シャ!」
蛇の噛みつき攻撃は素早やかった。しかし、頭は一つしかないので白芳の左右の爪で弾かれて噛みつけない。一方、白芳も動きの速い蛇の頭を捕らえきれないでいる。
長期戦になるかと思われた勝負だが決着は意外なところからついた。蛇の背後に回った紅夜が蛇の胴体に噛みついたのだ。
「ご主人さまを放すにゃ!」
「シャ!?」
こちらも黒い猫耳と尻尾を現してぬめりのある太い胴体に手加減なく爪を立てて噛みついた。さすがに見過ごせなかったらしい蛇は紅夜へと振り向く。
それが致命的な隙となった。躊躇うことなく飛びかかった白芳が左手で蛇の頭を、右手で胴体を掴む。そして、首元に噛みつき、一瞬で千切る。
「シャァァァァ!」
「私の善賢から離れろぉぉぉ!」
口の中の肉を吐き出した白芳は躊躇うことなく両手を蛇の傷口に突っ込み、頭と胴体を引きちぎった。大量の血が玄関一帯に飛び散る。蛇は断末魔を上げたがすぐに力尽きた。
敵が倒れると白芳は蛇の頭を放り出して俺に近寄ってくる。巻き付いている蛇の死骸を乱暴に取り除くと両手で俺の顔を挟んだ。心配そうな目を向けてくる。
「善賢、大丈夫? しっかりして!」
「うう」
ずっと苦しみに耐えていた俺は解放された後も疲労から周囲の様子がよくわからなかった。しばらくぼんやりと正面を見ていたが次第にはっきりとしてくる。
「善賢、ああもうどうしよう。病院に連れて行けばいいの?」
「ご主人さまぁ、どこか痛いにゃ?」
「うぉ!?」
意識がはっきりとしてから改めて白芳と紅夜の顔を見た俺は思わずうめいた。何しろ犬歯を伸ばした猫に近い顔一面にどす黒い血を浴びていたからだ。最初に脳裏に浮かんだのは肉食獣に食われる寸前の光景だった。
それでも少ししてから二人が助けてくれたことに気付く。
「何があったんだ?」
「妖怪に成りかかった蛇に善賢が取り憑かれていたのよ。それを取り除いたの」
「にゃーも噛みついてやったにゃ!」
「取り憑いていた? いつから?」
「わからないわ。というより、どこであんなのを拾ったのよ?」
「どこって言われても。あ、そういえば、今日行って来た神社の裏手にある道で肩が重くなって生臭くなった気が」
「それよ!」
「それにゃ!」
同時に叫ばれて俺は少し驚いた。今から思い返すとなぜ今まで忘れていたのか不思議だ。
原因はこれではっきりとしたけれどまだ不安は残る。
「白芳が退治してくれたということは、もう大丈夫なんだよな」
「たぶんそうだと思う。体に痛いところがあったり、心になにか違和感なんてない?」
「体は疲れてるけどそれだけだろうし、心もすっきりとしてる。大丈夫だと思うんだけど」
「わかんにゃいのは不安にゃ」
「そうだ、
こういうことに詳しそうな専門家のことを俺達は思い出した。頼れるのなら今こそ頼るべきだろう。
幸い大体のところはこれで解決しそうだ。けれど、まだ非常に厄介なことが一つだけ残っている。
「ところで、この惨状は一体どういうことなんだ?」
「えっと、これはね、善賢を助けるために蛇を退治したときの余波よ」
「不可抗力にゃ!」
「紅夜は難しい言葉を知ってるなぁ」
玄関中に飛び散った血痕と肉、それに千切れた蛇の頭と胴体が転がっていた。物語なんかだと死んだ妖怪は塵になって消えたりするけど現実には色々と残るようだ。
「これ、後片付けどうしようか」
「かなり大変よねぇ」
「この蛇の死骸はどうしたらいいんだ? まさか生ごみとして捨てるわけにもいかないし」
「食べるにゃ?」
「いやそれは。普通の蛇はあっさりしておいしいらしいけど、こんな妖怪になりかけのやつはさすがに」
「とりあえず庭先に埋めとく?」
「それしかないのかなぁ。あ、今すぐ玉櫛さん達に連絡して、どうしたらいいか聞いてみたらどうだ?」
「善賢、まずはお風呂に入ってからでいいかな?」
「にゃーも入るにゃ」
「そうだな。そうしよう」
他に選択肢がないので俺はうなずいた。そして、いつまでも横になっているわけにはいかないので立ち上がる。俺も蛇の血を浴びて大変なことになっていた。
顔に返り血がこびりついた紅夜が俺に笑顔を向けてくる。
「それにしても
「紅夜も大きくなったらできるんじゃない?」
「そうかにゃ? それに言葉もすごかったにゃ。成りそこない風情がとか、私の善賢から離れろぉとか」
「みゃ!?」
楽しそうに話す紅夜を見ながら白芳が固まった。あのときは自分のことで手一杯だった俺は呆然とする。
「にゃーはご主人さまの飼い猫だからご主人さまのものだけど、ご主人さまは白ちゃんのものという意味にゃか?」
「そ、それは、別にそういう意味じゃなくて、単に勢いで言っちゃっただけっていうか」
ろくに説明できない白芳の体が挙動不審といえるくらいに揺れていた。いつの間にか顔も真っ赤だ。かなり焦っているようで意味のある返答になっていない。
「ご主人さまはどう思うにゃ?」
「え、俺!?」
自分に意見を揉められるとは思っていなかった俺は言葉に詰まった。これどうやって答えたらいいんだ?
純粋な紅夜の質問に、顔を赤くした俺と白芳は何と答えようかと必死で考えた。
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