猫の習慣にゃ!

 紅夜くやが倒れて丸一日が過ぎた。朝日が差し込む窓を見ると今日もいい天気だ。


 昨晩、俺と白芳しらよしが寝る寸前に紅夜は空腹を訴えた。胃に優しい物をということで温かい牛乳を飲ませて眠らせたけど、今どんな容体なのかはわからない。


 気持ちが晴れないまま俺は身支度を調えると台所で朝食の準備を始める。二人分と三人分のどちらにしようか迷った。とりあえず二人分だけ作ることにする。


 表面上はいつも通りに料理をしていると階段を降りてくる足音が耳に入った。とても軽やかだ。振り向かなくても誰かはすぐにわかった。


 その誰かが腰に突撃してくる。


「おはようにゃ!」


「おぅっ! フライパン使ってるからタックルはやめてくれ!」


「ごめんなさいにゃ」


「まぁいいや。おはよう、紅夜。具合はもういいのか?」


「もう治ったにゃ!」


 腰に頬ずりする紅夜に俺は体調について尋ねてみたが完全に治ったらしかった。若干心配だけどいつも通りっぽいのでとりあえず良としようか。


 次いで白芳が台所に入ってきた。こちらも朝から機嫌がいい。


善賢よしかた、おはよう」


「おはよう。ということは、ハムエッグは三人分だな」


「そうね。パンはこっちで焼いておくわ」


「にゃーは二人分ほしいにゃ! 昨日食べてないにゃ!」


「病み上がりでいきなりたくさん食べられるのか?」


「平気にゃ! というより、お腹が空きすぎて痛いくらいにゃ!」


「白芳、これいいのか?」


「本人が言うのならいいんじゃない? 食べられないのなら残すでしょうし」


 トースターにパンをセットしている白芳が気のない言葉を返してきた。どうやら悪いことではないらしい。


「わかった。それじゃ紅夜は二つな」


「やったにゃ!」


「ちょっと待って腰から離れてやりにくい」


 黒い尻尾をピンと立てて俺の腰に貼り付いていた紅夜は更に顔をこすりつけてきた。


 朝食を作り終えて食べ始めると当たり前のようにいつもの団欒が始まった。やっぱり俺にとってはこの三人でいるのがもう当たり前なんだと実感する。


「ご主人さまの作ったご飯はやっぱりおいしいにゃ!」


「紅夜、よく噛みなさいよね」


「お前いつもよりもペースが速いな。誰も盗らないんだからもっとゆっくり食べたらいいのに」


「むぐむぐ、噛んでるにゃ。食べるペースもいつもそんなに変わらないにゃ」


 周りから注意されても紅夜は聞く気はないらしかった。この辺りもいつも通りで俺は苦笑いする。


 食事が終わった後の紅夜の行動も今まで通りだ。お菓子を手にすると居間で食べ始める。ハムエッグを二人分食べてもまだ胃に入るらしい。


 そんな様子を呆れつつも安心して俺と白芳は見ていた。




 講義が三限目で終わった俺は昼下がりに大学から帰宅した。この時間帯なら夕飯の支度に最初から入れると思って夕飯の献立に思いを巡らせる。


「ただいまー」


 玄関に入って靴を脱ぎながら俺は声を上げたが挨拶は返ってこなかった。今日は紅夜が飛び出してくると思っていたので首をかしげる。


 不思議に思いつつも家に上がると二階から白芳と紅夜の声が聞こえた。何やら言い争っているらしい。


 喧嘩できるほど紅夜の体調は快復したんだなと内心で喜びながら階段を上る。すると、物干し場前の廊下で二人が口論していた。


 階下から姿を現した俺に気付いた二人が同時にこちらへと目を向ける。


「善賢、ちょっと聞いてよ! あ!」


「ご主人さま、にゃ~!」


 事情を知らない俺はとりあえず突撃してきた紅夜を受けとめた。階段を背にして不意打ちを食らうと落ちそうだなと思いつつも顔を白芳へと向ける。


「何があったんだ?」


「洗濯した善賢の下着を盗ろうとしたのよ。においを嗅ぎたいって」


「はい?」


 一瞬何を言われているのか俺は理解できなかった。疑問を浮かべた表情のまま胸元に抱きついている紅夜へと顔を向ける。


「紅夜、なんで俺の下着なんか嗅ぎたかったんだ?」


「にゃーにはご主人さまが必要だからにゃ!」


「説明しているようで説明になってないよな」


「にゃーはいつもご主人さまとくっついていたいにゃ! けど、ご主人さまがお外にいる間はくっつけないにゃ! だから代わりにご主人さまの下着のにおいを嗅ぐにゃ!」


「一応三段論法としては成立しているのか?」


「してるわけないでしょ! なに説得されかかってるのよ!」


 ものすごい勢いで白芳が突っ込んでくれたおかげで俺は正気に戻れた。そうだ、二段目と三段目につながりはありそうでないぞ。危なかった。


 こちらを睨んでくる白芳の圧力に耐えながら俺は更に紅夜へと問いかける。


「いくらなんでも、俺の下着を嗅いじゃダメだろう」


「そんなことないにゃ! にゃーたち猫はお尻のにおいを嗅ぐのは当たり前にゃ! だからご主人さまの下着を嗅ぐのは問題ないにゃ!」


「本当に?」


「こっち見るな、善賢!」


「本当はご主人さまのお尻を直接嗅ぎたいけど我慢してるにゃ!」


「えぇ?」


「だからこっち見るな!」


 顔を真っ赤にして白芳が俺に向かって全力で拒否をしていた。


 猫の習性としてそういう行為があるというのは俺も聞いたことがある。けどそれじゃ、猫の妖怪はどうなのかなんて考えたこともなかった。


 紅夜は妖怪になって日も浅いからまだ猫の習慣が抜けきっていないだけかもしれない。でも、猫じゃらしで遊んだときは猫の習性が残ってるって言っていたよな。


 そうなると、実は白芳も?


 囚われてはいけない思考に俺は囚われてしまう。白芳が俺の、俺の、えぇ?


 一瞬いけない想像をしてしまった俺は目の前にいる白芳の顔を見て我に返った。しかし、邪なことを考えていたことは見抜かれていたらしく白芳の両手の爪が伸びる。


「善賢、今何を考えていたの?」


「待って何も考えてないですって」


「嘘よね。絶対何かやらしいことを考えていたわよね。私があんたのおし、お、あ~もうそんなこと言えるかぁ!」


「落ち着け、勝手に想像を広げるな!」


「想像したのはあんたでしょうがぁ!」


 思考が茹で上がっているらしい白芳が俺に襲いかかろうした。すぐ後ろは階段なので逃げることができない。まともにあの爪で引っかかれると痛いので思わず足が竦む。


 そのとき、俺に抱きついていた紅夜が離れてくるりと振り向いた。そして、白芳に向かって叫ぶ。


「やめるにゃ! しらちゃんだってご主人さまの下着を嗅いでたにゃ!」


「みゃ!?」


「えっ!?」


 あまりにも唐突な暴露に白芳はもちろん、俺も固まった。今なんて?


 硬直した俺達に構わず紅夜は語り続ける。


「白ちゃんは洗濯物を干したり取り入れたりするときに嗅いでるのを、にゃーは見たことあるにゃ!」


「待って私嗅いでなんていないわよ! 見てただけだもん!」


「なのににゃーはご主人さまの下着を嗅いじゃいけないっておかしいにゃ! にゃーもご主人さまの下着に顔をうずめたいにゃ!」


「あんた私の話を聞きなさいよ!」


「白ちゃんだって本当はご主人さまのお尻を嗅ぎたいくせに! 我慢は良くないにゃ!」


「さすがにお尻までは思ってないわよ!」


 再び始まった口論を俺は呆然と見守った。昼間にこれだけ大きな声で怒鳴り合っていたらご近所様に聞こえることは確実だ。そっかぁ、だから俺は白い目で見られるのかぁ。


「嘘ついてるとご主人さまに嫌われるにゃ!」


「みゃ!? そ、そんなことないわよね、善賢!?」


「ここで俺に振るのかぁ」


「白ちゃん、ご主人さまを脅すのはダメにゃ!」


「脅してないもん! ちょっと意見を聞いているだけだもん!」


「嘘つきの白ちゃんにはお仕置きにゃ!」


「みゃ!? やったわね! その悪い口はこうよ!」


「にゃ!? 許さないにゃ!」


「みゃーみゃーみゃー!」


「にゃーにゃーにゃー!」


 目の前で始まった喧嘩に俺は為す術がなかった。今回は爪が伸びているので本気だ。しかし、このまま放っておくわけにもいかない。


「お前らちょっと落ち着けって。とりあえ、いてぇ!?」


「みゃ!?」


「にゃ!?」


 あまり近づかないように注意していたけど狭い廊下に三人もいるので避けようがなかった。紅夜の弾いた白芳の左手が俺の右頬をかする。


「白ちゃんひどいにゃ!」


「ち、違う! これは紅夜が私の手を弾いたから!」


「ご主人さまかわいそうにゃ! にゃーが舐めて治すにゃ!」


「ちょっと紅夜!?」


 俺の方へと振り向いた紅夜は飛びかかるようにして抱きつくと右頬を舐め始めた。


 柔らかい体と温かい息がくすぐったい。しかし、白芳のいろんな表情がない交ぜになった顔を見てすぐに正気に戻る。そう、ここで冷静さを失うわけにはいかないんだよ!


「白芳、紅夜を引き離すの手伝ってくれ」


「わ、わかってるわよ!」


「離れたくないにゃ~」


 意外に力強い紅夜を白芳と一緒に俺の体から引き離した。尚も俺に寄ろうとする紅夜を白芳が引き留める。これ以上はダメだ。紅夜が落ち着いたのは結構後のことだった。

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