看病の合間に
朝、いつものように起きると台所で朝食の用意を始める。やることも決まっているので迷うことはない。
しばらく何も考えずに作業を進めていたがそのうち首をかしげた。
昨晩は全員いつも通り寝たことを俺は覚えている。もしかしたら布団に入っても眠れなかったのかもしれない。
「寝付きが悪いなんて聞いたことはなかったんだけどな。何か考え事でも」
そこまでつぶやいて考えることはあると思い至った。当事者の一人が言うんだから間違いない。本当に俺のことで悩んでいるのかは本人に尋ねないとわからないが。
落ち着かなくなったところに階段を降りる音が耳に入る。急いでいるようで廊下からそのまま洗面所へと向かったようだ。少し物音がしたかと思うと白芳が姿を現す。
「おはよう。どうした?」
「
「は? なんだそれ、ダメだろう」
「
真剣な表情の白芳が急いで告げるとバケツと雑巾を持って台所を出て行った。
水を飲むならコップだろうと手にしたところで俺は体を止める。眠るときの白芳達は猫の姿に戻るのだからコップでは飲みにくいはず。
食器棚から小さめの深皿を取り出した俺は水道水を入れた。こぼれないよう慎重に歩きながら二階を目指す。白芳と紅夜の部屋は俺の自室の隣にある。
二人には私物がないため四畳半の部屋は殺風景だ。その中央に底の浅い段ボール箱を二箱置いて中にクッションやシーツなどを敷き詰めて寝床として使っていた。
室内に入ると雑巾で畳を拭いている白芳の後ろ姿が目に入る。段ボール箱の一つに紅夜がぐったりと横たわっていた。
状況がわからない俺は白芳にささやきかける。
「水を持って来たぞ」
「紅夜に飲ませてあげて」
指示通りに飲ませようと段ボールの横に深皿を置いた。そして、小さな声で呼びかける。
「紅夜、水を持って来たぞ」
「にゃ」
声に返事はしてくれたがそれだけだった。よほど具合が悪いのか動こうとしない。
心中に不安が広がる俺だったが何もできなさそうなので一度部屋の外へ出た。すぐに白芳が出てきたので階下に向かいながら尋ねる。
「何があったんだ?」
「私が起きたときから苦しそうだったんだけど、無理に起きたところで吐いちゃったから寝かしつけたのよ」
「昨日はあんなに元気だったのに」
「病気はいつ罹るかわからないわ。しばらく寝かせて様子を見ましょう」
「あの様子じゃ、朝ご飯は無理だな」
「そうね。私達の分だけ用意しておいて」
廊下で白芳と別れて台所に入った俺は朝食の用意を再開した。正直言って気乗りしない。
紅夜のことを気にしながら朝食をもそもそと食べていると白芳が入ってくる。その表情は朝から疲れたものだ。冷蔵庫から取り出した牛乳をコップに入れると席に座る。
「とりあえずは落ち着いたから、しばらくは様子見ね」
「今日講義を休んだ方がいいか?」
「そこまではしなくてもいいわよ。私一人で面倒見られるから」
「でもどうしたらいいんだろうな。動物病院に行くべきか? ああでも、化け猫になったから意味がない?」
「普通の子猫だったら迷わず診せるべきなんでしょうけど、先月に妖怪になっちゃったからね」
ぽつぽつと食べながら白芳は眉をひそめた。普通の動物でもどうすればいいかなんて俺にはわからないのにこれが妖怪だと尚更だ。
無力感に襲われた俺に対して白芳が少し明るく語りかける。
「まだ子猫で若いんだから、深刻な病気なんかじゃないと思うわよ。今日一日様子を見て変化がなければ、
「そうか、あの人がいたな。それならどうにかなるか」
「先月訪ねてきてくれて本当に助かったわ。今度帰ったらお母さまにお礼を言わないと」
「
先の春休みに神社で一度会ったときのことを俺は思い出した。馬並みに大きな三毛猫の姿を見たときは本当にたまげたな。あのふさふさの毛にはちょっと触りたかったけど。
言葉遣いは古めかしいけど話している分には近所のおばあちゃんと大差なかった。ただ、やっぱり神社に祀られているだけあって何か圧みたいなのを感じた記憶がある。
全然別件で玉櫛さんと
そこでふと思いついたことを俺は白芳に尋ねてみる。
「白芳って三毛夜叉様に育てられたんだろう? そのときに病気とかしたことはあったのか?」
「今回の紅夜みたいに倒れたことならあるわよ。ほら、小さい頃に一緒に遊んでいて、しばらく顔を見せなかったことがあったでしょ?」
「え? あーあったかなぁ」
「なによ、忘れたっていうの?」
「ぼんやりと思い出したような気が」
「もう。治った後にもう来てくれないかって」
中途半端なところで言葉を止められたのに釣られて俺はハムエッグから顔を上げた。すると、白芳が顔を真っ赤にして口を震わせているのが目に入る。
何をそんなに動揺しているのか俺にはわからなかった。気になったので尋ねてみる。
「どうしたんだ?」
「な、なんでもない!」
俺とは反対に白芳はハムエッグへと視線を落とした。けれど、食べる様子はなくて箸でつつくばかりだ。一方、俺も紅夜のことが気にかかって深くは追求しなかった。
それから家を出るまでの間、俺はできる限りの家事を手伝って白芳の負担を減らそうとする。結局大したことはできなかったが雑用だけ片付けて学校へと出かけた。
夕方、講義が終わるとすぐに帰路についた。いつも通りの行動だけど紅夜のことが心配で頭の片隅から離れない。
玄関から自宅に入った。いつもなら紅夜たまに白芳も出迎えてくれるが今日は誰も来ない。すっかり習慣になっているので寂しい思いをした。
今日はいつもと違って今日の俺はまず台所へと入る。予想通り白芳が夕飯の支度をしていた。
こちらに気付いた白芳に声をかける。
「ただいま。紅夜はどうしてる?」
「まだ寝てる。たまに様子を見に行ってたけど、ずっと寝てるみたいね」
「具合は悪いままなのか?」
「今朝寝かしつけたときから起きたところを見てないから何とも言えないわね。水が少し減っていたから何度か起きてたみたいだけど」
「快復してないのかな」
「穏やかに眠っているから、悪くはなっていないと思うわよ」
「だったらいいんだけどな」
何もできていないもどかしさを感じながらも俺は鞄を置きに自室へと向かった。
その後は紅夜がいないという以外はいつも通りの生活になる。そういえば、紅夜を拾う前はこれが当たり前だったんだよな。今じゃその静けさに違和感しかない。
久しぶりに静かな夜を過ごした俺は立ち上がる。
「それじゃそろそろ寝るかな」
「なら私も寝ようかしら」
居間にいた俺は玄関の戸締まりを始めた。台所にいた白芳は居間ともども電気を消して回る。どちらも言葉を交わすことなくそのまま二階に上がった。
階段を上りきってすぐが自室の俺はそこで振り返る。
「おやすみ」
「おやす、あ」
珍しいことに白芳が最後の階段を上り損ねた。足を引っかけて前に倒れそうになり、そのまま俺の胸元に飛び込んでくる。何が起きた?
抱き合う形になった俺は呆然とする。自分の顔の真下に白芳の頭と白い猫耳が見えた。女の子特有の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ごめん」
白芳がつぶやいた。
頭が真っ白になってどうしていいのかわからなかった俺の体は固まる。いや嘘だ。本当はこのまま──
「ちょっとだけこのままでも、いいかな?」
自分の耳を疑った。白芳は今何て言った? 普段からは考えられないくらい弱く小さい声。どんな顔をしているのか見たいけど俺の胸に押しつけられていて見えない。
けど、体で感じる白芳の温かさと柔らかさが俺の理性を溶かしていく。これは無理だ。
腕に力を込めようとしたそのとき、背後から扉がゆっくりを開く音がかすかにする。
「にゃぁ」
「ひっ!」
「うわぁ!」
俺は全力で突き飛ばされて床に転がった。かろうじて頭を守れたけど腰と背中が痛い。
一方、白芳は俺を突き飛ばした格好のまま紅夜を見ている。その顔は真っ赤だ。
振り向いた俺は部屋から出てきた黒猫の姿を捉えた。まだ本調子ではないらしい。
口をわななかせたまま固まっている白芳に代わって俺が尋ねる。
「紅夜、どうした?」
「おなか空いたにゃ」
「白芳、何か食べられる物ってあったっけ?」
「みゃ!? あ、あるわよ! 今持ってくるから部屋で待ってて!」
早口で捲し立てると白芳はそのまま階下へと走り去った。途中どこかにぶつかったらしく悲鳴をあげる声を耳にする。
さっきの白芳の態度は気になるがそれよりも今は紅夜の世話をしないといけない。俺は立ち上がると紅夜を抱えて部屋へと連れ戻した。
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