嗅げばわかるにゃ!

 今俺が住んでいる家は田舎から都会へと引っ越して来たときに親戚から借りた家だ。その親戚の親のお年寄り夫婦が介護施設へ入って空いたからと聞いている。


 そんな借家に最初は白芳しらよしと二人で住んでいた。けれど、最近は化け猫になった紅夜くやも加わって毎日が騒がしい。


 とある平日の朝、講義が昼からしかない俺は自宅の掃除をしていた。今は階下から聞こえる掃除機の音をBGMに二階の自室の窓を拭いている。


「よし、こんなもんだろう」


 きれいにみがけた大判の窓を見て俺は満足した。引っ越してきて大掃除をしてから毎週拭いているので大した手間はかからない。


 室内は良く言えば生活感があり悪く言えば雑然としていた。本棚の本は立てたり寝かしたりと適当さが目立ち、机の前にある椅子の背には寝間着代わりのトレーナーがまとめて掛けてある。布団も出しっぱなし。要は男らしい部屋というわけだ。


 とりあえず布団を片付けようと俺は手にかけた。布団を畳んでいると誰かが階段を登ってくる足音が聞こえてくる。


 黒い猫耳に白いワンピースの紅夜が入ってきた。そして、元気に声をかけてくる。


「ご主人さま、遊ぼうにゃ!」


「掃除が終わってからな」


「えー、しらちゃんもお掃除してるから相手をしてくれないにゃ」


「見てるだけじゃ飽きるか」


「飽きるにゃ。それに、掃除機の音がうるさいにゃ」


 若干口を尖らせた紅夜が不満を漏らした。


 気持ちはよくわかるけど掃除もやらないといけないことだ。これを放り出して紅夜と遊ぶわけにはいかない。


「だったら掃除を手伝ってくれるか?」


「にゃ、何をするにゃ?」


「本棚の拭き掃除をしてほしい。このティッシュで本棚の部分を軽く拭いてくれたらいいよ」


「わかったにゃ!」


 ティッシュ箱から取り出した一枚の白いティッシュを俺は紅夜に手渡した。


 嬉しそうな紅夜は本棚へと振り向いて棚を無造作に拭き始める。よくわからない鼻歌も聞こえてきた。どうやら調子に乗ってきたらしい。


「にゃにゃ~」


 楽しげな声と共に右手のティッシュで紅夜は棚でティッシュを滑らせた。


 問題はここからだ。なんと、紅夜は本棚に置いてある本のことを一切考慮しなかった。楽しげな紅夜の手にぶつかる度に本が棚の上を滑ったり床に落ちていく。


 繰り広げられる惨劇を目の当たりにした俺は驚いた。慌てて紅夜を止める。


「待って待って! なんで置いてある本を無茶苦茶にするんだ!?」


「にゃ? 本ってこの紙の塊のことにゃ?」


「せっかく掃除をしてるのに散らかしたらダメだろう。目の前の棚を見て」


「本があっちこっちにあるにゃ」


「紅夜が散らかしちゃったんだ。ティッシュで棚を拭いてほしいとは言ったけど、本を散らかしてほしいとは言ってないよな?」


「難しいにゃ」


「難しいかぁ」


 あちこちに散った文庫本などを見て俺はため息をついた。まさかこんな結果になるとは思わなかったな。今後は掃除の仕方を教えないといけない。


 未来の予定が一つ増えたことに唸りつつも今は紅夜にもできそうなことを考えた。周囲を見て椅子の背に掛けてある寝間着代わりのトレーナーが目に入る。


「それじゃ紅夜、今度は俺の服を畳んでくれないか? 確か、前に白芳がやっているところを見てたよな?」


「見てたにゃ。同じようにすればいいにゃか?」


「同じでいいよ。できたら椅子の上に置いておいて」


 指示を与えた俺は紅夜からティッシュを受け取った。そうして散らかった本棚の片付けを始める。


 しばらく無言で作業をしていると再び誰かが階段を登ってくる足音が聞こえた。部屋の扉を開いたのは白芳だ。


 切りのいいところで顔を上げた俺は白芳に声をかける。


「そっちは終わったのか?」


「あんた、何してるの?」


「え?」


 問いかけを無視して尋ねてきた白芳に俺は怪訝な表情を向けた。不思議に思いながらも自分の作業について説明しようとする。けれど、白芳が自分を見ていないことに気付いた。


 白芳の視線の先には俺の寝間着を畳んでいるはずの紅夜がいた。今は畳の上に俺のトレーナーの上部を広げて顔をうずめている。


「紅夜?」


「すーはーすーはーすーはーすーはーすーはー」


 何やら一生懸命に呼吸をしているようだ。けど、何のためにそんなことをしているのか俺にはわからない。


 同じ猫系妖怪ならわかるかなと思って白芳を見ると目を見開いている。どうしていいのかわからない俺はじっと見ていた。


 しばらくして我に返った白芳が叫ぶ。


「紅夜、あんた善賢よしかたのトレーナーで何してるのよ!?」


「すーはーすーはーすーはー、ご主人さまのにおいは最高にゃ~」


「え、俺の臭いを嗅いでるの!?」


 まさかの行動に俺は驚いた。服なら畳めるだろうと安心していたのに、まさか一生懸命そんなことをしているなんて予想外だ。


 まなじりを吊り上げた白芳が室内に入ってきた。紅夜が顔を埋めている俺のトレーナーを取り上げようとする。けれど、紅夜がしっかりと掴んでいるせいで取り上げられない。


「紅夜、早く離しなさい!」


「イヤにゃ! ご主人さまのにおいをもっと楽しむにゃ!」


「バカなことを言わないの! そんなことをしてもいいことなんてないんだから!」


「いいことはあるにゃ! 大好きなご主人さまに抱かれているみたいで幸せな気持ちになれるにゃ!」


「あんた本人の目の前でそんなこと言って恥ずかしくないの!?」


「恥ずかしくないにゃ!」


 あまりにもまっすぐな紅夜の発言に白芳の頬が少し赤くなった。もちろん全力で好意をぶつけられた俺の顔も少し赤い。効果は抜群だ!


 尚も俺のトレーナーの上を持ったままの二人はにらみ合う。けれど、無言だったのはごくわずかな間だけだった。紅夜が遠慮なく提案する。


「白ちゃんもご主人さまの臭いを嗅げばわかるにゃ!」


「みゃっ!?」


 発言と同時に紅夜が手を離した。動揺していた白芳は俺のトレーナーの上を持ったままよろめく。ついでに俺の心もよろめいた。


 その間に紅夜は俺の寝間着の下を持ち出してまたもや顔を埋める。


「すーはーすーはーすーはーすーはーすーはー」


「いや待てその場所はまずい」


 声を出しながら俺は自分の寝間着を取り上げようとするが紅夜は離そうとしなかった。黒い尻尾をピンと立ててひたすら呼吸を繰り返す。


 このままでは寝間着が破れかねないと思った俺は白芳へと顔を向けた。何かいい方法がないか一緒に考えてもらうためだ。


 ところが、俺と紅夜の様子を見ていた白芳は俺と目が合うと顔を真っ赤にして全身を震わせた。予想外の反応に戸惑う。


「白芳、これどうしたら」


「私があんたのにおいなんて嗅ぐわけないでしょう! 変態!」


「俺はそんなこと一言も言ってないぞ!?」


「ウソ! そんな期待した目で私を見てるじゃない!」


「違うって! 紅夜にトレーナーを手放してもらう方法を聞こうとしただけだって!」


「そんなの取り上げたらいいじゃない!」


「いやこの子、がっちり握ってて離してくれなくて。白芳だって取り上げられなかっただろ!?」


「うっ」


 先程のやり取りを思い出したらしい白芳が言葉に詰まった。顔を真っ赤にしながら全身を震わせたままだ。けれど、意を決した様子で俺の寝間着を手放すと紅夜の目の前に座る。


「紅夜、早くそんなの手放しなさい。ほら!」


「痛いにゃ! 白ちゃんがぶったにゃ!」


「ちょっと手を叩いただけじゃない」


「イヤにゃ、やめないにゃ! にゃ!」


「こら手をはたくな! えい!」


「またぶったにゃ!」


「きー! みゃ!」


「にゃ~! にゃ!」


「みゃーみゃーみゃー!」


「にゃーにゃーにゃー!」


 トレーナーの取り合いから始まった争いはすぐに殴り合いへと発展した。どちらも今は本気ではないようだが時間の問題だ。


 喧嘩をするの止めるために俺は間に割って入ろうとする。


「二人ともやめぶ」


「みゃ!?」


「にゃ!?」


 手を出し合っている両者の間に入ったせいで突然の衝撃が俺の両側頭部を襲った。


 何が起きたのかわからないまま痛みに悶えている俺の目の前で二人が声を上げる。


「白ちゃんひどいにゃ! ご主人さまをぐーで殴ったにゃ!」


「あんただって殴ったじゃない!」


「これも白ちゃんがにゃーの幸せを取り上げようとするからにゃ!」


「あんなトレーナーのどこが幸せなのよ!」


「ご主人さまの体臭においを悪く言う白ちゃんはこうにゃ!」


「痛っ! やったわね!」


「やったにゃ!」


「みゃーみゃーみゃー!」


「にゃーにゃーにゃー!」


 頭を抱えてうずくまっていていた俺の頭上で一度止まったキャットファイトが再び始まった。


 身の危険を感じた俺はとりあえずその場から離れようとする。


「お前らちょっと待っ」


「みゃ!?」


「にゃ!?」


 中途半端に頭を上げた俺の両側頭部にまたもや衝撃が襲ってきた。見境なく争うのはやめてほしい。


 痛みで今度こそ畳の上に倒れた俺は強くそう思った。

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