段ボールに入っていた黒猫

 講義と同好会活動を終えた俺は大学を出た。敷地は市の郊外にあって周りは田んぼだらけだから遮るものがない。通学時間三十分のうち二十分はこの景色が続く。


 灰色の空へたまに目を向けつつ俺は歩いていた。そして、悪い予想ほど当たってしまうからたまらない。


「天気予報の三十パーセントって微妙すぎるだろ!」


 降らないと信じた俺がバカだった。


 田植え前の田んぼを背景に俺は走る。たっぷり十分以上は雨に濡れた。ようやく住宅街に入っても雨宿りできる場所はない。ちくしょう!


 悪態をつきながら帰路の途上にあるごみ置き場に差しかかる。


「にゃー、にゃー、にゃー」


 段ボール箱の中から聞こえる子猫の鳴き声を耳にした俺は思わず立ち止まった。中にはかわいらしい黒猫が一生懸命何かを訴えかけている。


 必死に鳴いているその姿が誰かの影と重なった。田舎を出る直前のことを思い出す。この子だけを見捨てるというのは後味が悪い。


「あいつ、何て言うかな」


 段ボール箱から拾い上げた黒い子猫を抱えた俺は眉をひそめた。同居者がどんな反応を示すのかわからない。


 ただ、一時だけでもうちで世話をすることは既に決めていた。親猫もいないのにこのまま放っておいたら生き残れない。


 黒い子猫は安心したのか丸まっておとなしくなった。その姿を見て少し気分が良くなる。


 しばらくして頭を叩く雨足が強くなっていることに気付いた。早く帰宅しないと俺も風邪をひいてしまう。


 俺は黒い子猫を落とさないように抱えながら再び走り始めた。




 自宅に戻った俺はずぶ濡れのまま玄関に入った。走ったせいで息切れしているが雨に濡れるとまだ肌寒い。


「ただいまー」


善賢よしかた、おかえりー! うわ、ずぶ濡れじゃない」


 廊下の奥からやって来た白芳しらよしが呆れたような様子で目を見開いた。頭上の白い猫耳がこちらを向き、紅白の巫女服姿の裏から白い二つの尻尾がピンと立っている。


「タオル取ってきてくれ」


「いいわよ。で、そのは?」


「捨て猫。あのまま雨に濡れてたら死にそうだったから拾ってきた」


「ふーん」


 俺の話を聞きながら白芳が紫色の瞳を子猫に向けた。見られているこに気付いた黒猫が俺の腕の中から赤い瞳を白芳に返す。


「にゃー」


「とりあえず体を拭かないとね」


 特にこれといった反応を示さなかった白芳は背を向けて奥へと戻っていった。


 脱衣所で濡れた体を拭いて着替えた俺は居間で正座している白芳を見つける。目の前に小ぶりの深皿を置いて黒い子猫に水を飲ませていた。舐める姿がかわいらしい。


 近くの畳の上に座った俺は黒い子猫を見ながら首をかしげる。


「牛乳じゃなくて水なのか?」


「猫に人間の飲む牛乳は良くないのよ。飲ませるのなら猫用のやつね」


「そんなのあったんだ。あれ? でもお前は平気だよな?」


「私は普通の猫とは違うから平気なの」


「猫又は猫とは違うのか」


「そうよ。私達妖怪は動物とは違うんだから」


 俺の方に目を向けることなく白芳が返答した。黒い子猫を見つめる眼差しは優しい。


 捨て猫を拾ってきた反応を今まで伺っていたが悪くない反応だ。同族嫌悪という言葉があるように同じ猫だから嫌うかもしれないと思っていたので胸をなで下ろしている。


 ただし、今はまだ捨て猫を避難させてきただけだ。これからどうするという話しはまだしていない。だからまだ完全に緊張がほぐれたわけではなかった。


 そのことを考えながら唸る。


「他にも食べさせたらダメなやつとかあるんだろうな。ネットで調べないと」


「私も知っている範囲で教えてあげるわよ。ところで善賢、この、どうするつもりなの?」


「まだはっきりとは決めてない。とりあえず緊急避難的に連れてきただけだから」


 同情心から拾っただけの俺は眉をひそめた。問われると改めてほとんど後先考えていない。さてどうしたものか。


 黒い子猫が水を舐める音がかすかに聞こえた。目を向けると白芳がじっとこちらを見つめ返してくる。


 うちで飼うと言うのは簡単だ。けど、今まで動物を飼ったことがない俺は最後まで面倒をみる自信がない。それじゃ捨てるのかというとそれも忍びなかった。


 顔をしかめて目をつむるとまた二ヵ月前のことを思い出した。いよいよ都会に行くことになって神社で白芳とあったときのあの顔だ。俺の言葉を察していたのかひどく不安で悲しそうな表情を浮かべていた。


 黒い子猫へとまた目を向ける。また捨てられたらこの子は一体どう思うだろうか?


「よし、飼おう」


「いいの?」


「うちは借家だし、前に住んでいた人が動物を飼っていたって聞いたことがあるから大丈夫だ。問題なのは俺が猫の飼い方をさっぱり知らないってことだな」


「何かあったらこのに私が直接聞いてあげるわよ!」


 白芳が満面の笑みを浮かべた。この様子だと最初から飼うつもりだったのかもしれない。


 水を飲み終えた黒い子猫は俺と白芳に顔を向けてくる。


「にゃー」


「飼うとなると名前がいるな。さすがにいつまでもこの子じゃわからんし」


「何て名前がいいかしら?」


「そうだなぁ。真っ黒だからクロとか?」


「安直すぎない? それに、絶対同じ名前の黒猫がいるわよ」


「でもなぁ。あ、こいつ目が赤いぞ。ちょっと濃い赤」


「瞳があかくて毛が黒いのね。それじゃ、紅夜くやなんてどうかしら。べに色の『紅』に黒から連想して『夜』」


「なんかカッコいいな! それじゃこの子の名前は紅夜にしよう!」


「にゃー」


 嬉しそうに俺と白芳が名前を口にすると紅夜がこちらに顔を向けて鳴いた。もしかしたら名前を気に入ってくれたのかもしれない。


 この日はとりあえず白芳に紅夜の世話を任せることにした。その間にあまりにも無知過ぎる俺はとりあえずネットで調べる。本当に基本的なことさえ何も知らないからな。


 何はともあれ食べるものは必要なので急いでコンビニでキャットフードを買ってくる。何が正解なのか全然わからないから紅夜が食べてくれるまでドキドキだ。


 それから白芳が風呂で丁寧に洗ってきれいにしてくれた。一時は嫌がるそぶりを見せたらしいが何とか説得したらしい。


 やがていよいよ寝ることになった。ここで紅夜は俺の足下へと寄って来る。


「にゃー」


「おやすみって言ってるのかな?」


「違うわね。あんたと一緒に寝たいって言ってるのよ」


「いいのか?」


「別にいいんじゃない? 飼い主はあんたなんだし。ちなみに紅夜は雌だから変なことしちゃダメよ」


「猫に何しろってんだ」


 あまりにもマニアックすぎる疑いをかけられた俺は肩を落として否定した。性に興味があるお年頃なのは確かだがそこまで飢えていないぞ。たぶん。


 二階の自室に紅夜を迎え入れると俺は部屋の中央に布団を敷く。広さは六畳だけど机と本棚と箪笥たんすに囲まれているから感覚的に狭い。


「寝ようか。おやすみ」


「にゃー」


 敷いた布団に潜った俺は全身の力を抜いた。一番落ち着くときだ。


 横になった俺の枕元に寄ってきた紅夜が丸くなった。明日からは猫の世話も加わって毎日が更に忙しくなるだろう。


 しかし、まさか翌朝の寝起きに特大の爆弾が落ちてくるとは予想外だった。


 最初にうっすらと目覚めたとき、いつもと違う感触が体の右側にあった。けれど不快なものではなくてむしろ心地良かったからその感触を楽しむ。


 意識が次第にはっきりとしてくると体の右側に誰かがくっついていることに気付いた。誰なんだろうと心の中で首をかしげる。


 やがて目を開いたときにそれはおかしいことに思い至った。昨晩は一人で布団に入ったはず。一体誰が?


 まだ薄もやのかかった意識のまま頭を右へと向けた。すると、そこには肩で切りそろえた黒髪を顔にかけて眠るあどけない美少女が横になっている。


「え?」


 眠気が吹き飛ぶと同時に体と思考が固まった。なんで見ず知らずの女の子が俺の布団に入って寝ているんだ!?


 理由も事情もわからないがとにかくこの状況はまずいと俺は焦る。布団から出ようと身じろぎした。すると、ぴったりとくっついていた女の子が目を覚ます。


「にゃー?」


 焦った俺はとりあえず離れようと上布団を剥いで起き上がった。けど、女の子が一糸まとわぬ姿であることを目の当たりにして再び硬直する。


 頭頂にはピクピクと動く黒い猫耳があり紅い瞳は純粋で顔と同じく傷一つないきれいな肌に慎ましげに膨らんだ二つの房いや待てそれ以上はいけない!


 とっさに顔を逸らして女の子の体を視界から外した。ところが、「にゃー!」という声と共に飛びつかれてしまう。


「ご主人さま、おはようにゃー!」


「ご主人さま?」


 女の子にご主人さま呼ばわりされる理由など俺にはないし、そんな人物の心当たりもなかった。ちなみに、幼女寄りの美少女を裸で添い寝させる趣味もない。たぶん恐らく。


 自分の身に何が起きているのか俺にはさっぱりわからなかった。

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