どうしたらいいの?(白芳視点)

 ある朝、私とほぼ同時に黒猫姿の紅夜くやが起きようとしていた。いつもなら朝食を作ってから起こしに来るまで寝ているからとても珍しい。


 白猫姿の私は頭を上げて注視する。よく見ると様子がおかしいわね。不安に思った私は紅夜に声をかける。


「紅夜、起きて大丈夫なの?」


しらちゃん、気持ち悪い、うぇ」


「ちょっとあんた!?」


 四畳半一間の中央に置いている寝床の段ボール箱から出ようとした紅夜が力尽きた。体半分を出したところでへたり込んで嘔吐する。


 慌てて人に化けた私は紅夜を寝床に寝かし直すと階下の洗面所へと向かった。水を入れたバケツと雑巾をすぐに用意する。寝間へ戻る途中で台所に人の気配を感じた。


 台所に顔を出した私は善賢よしかたに声をかける。


「おはよう。どうした?」


「紅夜の体調が悪いみたいなの。さっき戻しちゃって」


「は? なんだそれ、ダメだろう」


「善賢、深皿に水を入れて持って来て」


 用件を伝えると私はすぐに階上の寝間へと急いだ。中に入ると吐瀉物をすぐに拭き取り始める。後からやって来た善賢が紅夜に水をあげている間に手早く片付けた。


 後始末を済ませた私は食卓で善賢と朝食を食べ始める。話題はもちろん紅夜のことだけどあんまり話すことはなかった。


 だからだろうか、話題が私のことへと移る。


「白芳って三毛夜叉様に育てられたんだろう? そのときに病気とかしたことはあったのか?」


「今回の紅夜みたいに倒れたことならあるわよ。ほら、小さい頃に一緒に遊んでいて、しばらく顔を見せなかったことがあったでしょ?」


「え? あーあったかなぁ」


「なによ、忘れたっていうの?」


「ぼんやりと思い出したような気が」


「もう。治った後にもう来てくれないかって」


 しゃべっている途中で自分が何を口走ろうとしているのか私は気付いた。なんで私はこんなことを!


 顔を真っ赤にして口を震わせている私を善賢が不思議そうに見つめる。


「どうしたんだ?」


「な、なんでもない!」


 慌てる私に少し眉を寄せた善賢は考えることが別にあったみたいで追求してこなかった。


 善賢が大学へと向かうと私は普段通り家事をしながら紅夜の面倒を見て過ごす。幸か不幸かほとんど寝ているばかりで手間はかからなかったのが救いね。


 そうしてこの日も一日過ごし終えて寝ようとしたときに事件、いえあれは事故、が起きた。


 戸締まりと消灯をして二階へ上がろうとした私は最後の階段で足を引っかけてしまう。そして、目の前にいた善賢の胸にそのまま飛び込んでしまった。


 抱き合う形になった私は呆然とする。まるで善賢に包まれているようだった。ずっと気になっていたにおいが鼻腔をくすぐる。


「ごめん」


 私はつぶやいた。つぶやくのが精一杯だった。頭の中は真っ白、じゃなくて善賢のにおいでいっぱいだ。そう、これ。いつも紅夜を見て羨ましかったにおいに今の私は包まれている。


「ちょっとだけこのままでも、いいかな?」


 離れたくなかった。だから、いつもなたら考えられないような言葉が自然に出てくる。大きく息を吸い込むと善賢のにおいが私の中を満たしてくれた。これが幸せ──


「にゃぁ」


「ひっ!」


「うわぁ!」


 反射的に私が全力で突き飛ばした善賢が床に転がった。痛そうに顔をゆがめている。


 けれどそれどころじゃない!


 顔を真っ赤にしたまま私は奥の寝間へと目を向けた。扉の影から黒猫姿の紅夜が顔を覗かせる。まだ本調子ではないようで元気はない。


 先に立ち直った善賢が紅夜へと尋ねる。


「紅夜、どうした?」


「おなか空いたにゃ」


白芳しらよし、何か食べられる物ってあったっけ?」


「みゃ!? あ、あるわよ! 今持ってくるから部屋で待ってて!」


 早口で捲し立てた私はそのまま階下へと走った。慌てていたせいで椅子の脚に小指をぶつけて悲鳴を上げる。涙目になりながら私は冷蔵庫から牛乳を取り出した。


 翌日、すっかり快復した紅夜はいつもの調子に戻っていた。前日との落差が大きくて戸惑ったけれど元気なことはいいことよね。


 ただ、元気すぎるのは問題だと思う。善賢の下着のにおいを嗅ごうとした挙げ句、私にもそんな習慣があるだなんていう風評を善賢に吹き込むのはやめてほしい。私は誓ってそんなことはしていない。


 しかもこの紅夜ばかねこ、言うに事欠いてお尻を嗅ぎたいだなんて! いくらなんでもそんなことするわけないでしょう!


 目を剥いて私は反論した。けど、そのときふと昨晩善賢の胸に顔をうずめたことを思い出す。そのせいでまた紅夜と喧嘩をしてしまった。


 つい爪を立てて善賢を傷つけてしまったことは悪く思うけど、紅夜がその傷を舐めているのを見て負の感情が湧き上がる。私だってしたいのに。


 これ以来、私の機嫌は微妙に悪いままだった。前なら過ぎたこととして水に流せたのに最近はそれができなくなってきている。


「ご主人さま~、構ってにゃ~」


「それはいいけど、こんなにくっつく必要はないだろう」


「こうしてると幸せになれるにゃ~」


 だから、紅夜が善賢にぴったりとくっついている姿を見ると不愉快になった。


 こちらに顔を向けた善賢が声をかけてきても気持ちが抑えられない。


「白芳、冷蔵庫の中見て足りない物ってあるか?」


「知らないわね」


「足りない物があったら三人で買い物に行こうと思うんだけど、どうする?」


「──行くわ」


 何でもない会話なのに無性に腹が立った。でも、ここで怒るわけにはいかない。努めて冷静に冷蔵庫の中を見て足りない物を確認する。作業をして少し気分が落ち着いた。


 用意をしてから三人で家の外に出る。紅夜を中心に三人で手をつないで歩いた。


 楽しそうにする紅夜を見ながら善賢が疑問を口にする。


「三人で揃って出かけるって公園以外だと初めてか?」


「そう言えばそうね。どちらか二人と出かけたことならあるのに」


 ありそうで今までなかったことに私は少し驚いた。


 スーパーに着くと三人で必要な物をかごに入れていく。途中、紅夜がお菓子を買いに離れたけど、買い物で困ることはなかった。


 清算が終わるとサッカー台にかごを置いて持ってきた袋へと品物を移していく。そのとき、ちょっとした事件が起きた。


 少し離れた場所から紅夜の声が聞こえて私も気付く。


「にゃ!」


 かけ声一つで卵のパックを掴んだ紅夜はそれをおばあさんに差し出していた。最初は驚いて反応できなかったおばあさんもやがて笑顔で受け取る。


 後から気付いたおじいさんも加わって紅夜は楽しそうに話していた。けれど、すぐにこちらへと顔を向けてくる。


「善賢さん、白ちゃん!」


「よく取れたなぁ」


「あんた何してるのよ、紅夜」


 勝手に私達から離れたことはよくないことだけど、老夫婦を助けたことは褒めるべきだった。そんな相反する感情が同時に湧き起こって微妙な表情を浮かべてしまう。


 そんな私の胸の内など誰も気付かないまま老夫婦との会話が始まった。あまり長居はできないからどこで切り上げようかと考える。


「かわいらしい方ですね。そちらのお二人は姉妹ですか?」


「いえ、遠い親戚の子らなんですよ。どちらも」


「まぁそうだったの。失礼ですが、そちらの白い髪の方とお付き合いされているの?」


「え?」


「何となくそんな感じがしたのよ。一緒にいるのに慣れている感じがね」


 楽しそうに笑うおばあさんに私は言葉を返せなかった。横目で善賢を見ると目が合う。そして、お互いに顔が赤くなった。


 そっか、付き合っているように見えるんだ。望んでいた言葉を聞いて私は喜びを隠しきれない。だから更に顔が赤くなる。ごまかすために品物の入れ替え作業を再開した。


 我ながら単純だと思う。何かある度に機嫌が良くなったり悪くなったりするのは疲れるけど、自分の心を制御できないからどうにもならない。


 この週末もそうだった。朝食を食べ終わった後に二階の掃除を済ませた私は、掃除機を片手に階下へと向かう。


「ご主人さま、早く撫でてにゃ~」


「いや待てこれはもっとダメだろう!」


「そんなこと言わないでにゃ。ご主人さまだったらどこ触ってもいいにゃよ」


「きみは何を言ってるんですかね!?」


 階段を下りて廊下を歩いていると居間から善賢と紅夜のじゃれる声が耳に入った。いつもの会話なんだけど掃除機を握る手に自然と力が入る。


 どうしてこんなにつらいんだろう。何でこんなに私だけ我慢してるんだろう。いっそはっきりと言ってしまえばいいのかもしれない。でも、ずっと長く友人として接してきたから今更どういう風に言えばいいのかわからない。


 それに、もしこの関係を壊したら次にどうしたらいいのか想像できなかった。以前のように振る舞える自信が私にはない。


 いっそのこと、あっちから告白しいってくれたらどんなに嬉しいだろう。


 そこまで考えて私はため息をついた。善賢は私のことをどう思っているのかな。

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