今までは何ともなかったのに

 六月に入った。こよみの上では梅雨の時期だが実際にはそうとも限らない。例年だと梅雨入りが月の後半になるのが一般的だ。


 今日の大学の講義は昼からなので朝は何もない。こういう日は粛々と日課を片付けていく。


 起きて身支度を調えてから自室を出ると階下へと向かった。洗面とお手洗いを済ませると台所で朝食の準備だ。まずエプロンを身につける。


 プラスチック製の薄いまな板を水洗いした。その上に冷蔵庫から取り出した薄切りハムを乗せて四分割する。次いでフライパンをコンロに置いて油を少し入れて温め始めた。


 この頃に白芳しらよしが台所に入ってくる。


「よ、善賢よしかた、おはよう」


「うん、おはよう」


 ぎこちない挨拶を交わすと白芳は無言で自主的に動いた。俺がフライパンでハムエッグを作っている後ろで白芳はトースターにパンを入れてタイマーをセットする。


 その後、皿とコップを用意して流し台に置かれた洗い物を片付けた白芳は一旦台所を出た。紅夜くやを起こすためだ。


 一つ目のハムエッグを作って皿に移しながらため息をつく。


 蛇の事件が落着すると俺達の生活はまた元に戻った。しかし、一部戻らなかったこともある。別に喧嘩をしたわけじゃない。ただ、お互いの距離感が狂ってしまったんだ。


玉櫛たまくしさんと朧火おぼろびさんが余計なことを言わなけりゃ良かったのに」


 フライパンに二人目のハムを置きながら俺はつぶやいた。これが八つ当たりだということはわかっている。どうせ紅夜が言ってくるに違いないからだ。


 それでも、と思う。


 今までは古い友人あるいは幼馴染みという認識だった。確かに美人ではあるし男として色々と思うところがあったことは間違いない。でも、明確に意識したことはなかった。白芳の態度からしても恐らくこれまでは何も思っていなかったと思う。


 それが今や思いっきり意識してしまっていた。何でもない態度を見せようとするほど恥ずかしいくらいに意識してしまう。悪循環だ。


 ハムの上に生卵を落としたところで階段から足音が聞こえてくる。


「ご主人さま、おはようにゃ~!」


「おはよう」


「お菓子を食べたいにゃ」


「さすがに朝一からはダメだろう。お菓子はおやつの時間だけだ」


「え~」


 無茶な要求をする紅夜が口を尖らせた。けれど、素直に食卓の椅子に座るあたり本気で言っていない。


 今のやり取りでいつも甘えてくる紅夜と平気で話せるのは不思議だと改めて思った。三つ目のハムエッグに取りかかりながら考えてみる。


 すぐに思い至ったのは言動の幼さだ。人間に化けているときは中学生くらいというある意味絶妙な姿だが、幼い妹という意識に変わりはない。


 三つ目のハムエッグができあがろうというときに白芳が台所へと入ってくる。


「紅夜、ちゃんと手を洗った?」


「洗ったにゃ! しらちゃんも早く座るにゃ!」


「はいはい。飲み物用意するわね」


 冷蔵庫から牛乳とミックスジュースを取り出した白芳がそれぞれのコップに注いでいった。


 フライパンの中身を皿に移しながらその姿をちらりと見た俺はやっぱり違うなと思う。ただ、何に惹かれたのかということはまだ言葉にできない。


 出そうで出てこない答えに俺が悶々としていると白芳から声がかかる。


「善賢、用意はできた?」


「今そっちに行く」


 何でもない様子を装いながら俺は自分の席に着いた。顔が赤くなっていないか心配しつつも白芳をちらりと見る。なんとなく落ち着かない様子に思えた。


 そんな俺と白芳を見ていた紅夜が不思議そうに尋ねてくる。


「ご主人さま、白ちゃん、どうしたにゃ?」


「別に何でもないよ。ご飯ができたし、食べようか」


「そうね、そうしましょう!」


 笑顔で白芳が俺の言葉に乗ってきた。そうして焼けたパンにバターと苺ジャムを塗っていく。


 納得できない様子の紅夜だったが食欲には勝てなかったようだ。しばらくすると笑顔に戻ってハムエッグにかぶりつく。


 食事中の会話はいつも紅夜中心なのでどうにか乗り切れた。しかし、自宅で家事をしている限り基本的にどちらも逃げられない。


「ごちそうさまにゃ! お菓子~!」


「あんた少しは間を置きなさいよ!」


「お菓子がにゃーを呼んでるにゃ!」


 最初に食べ終わるのはいつも紅夜だ。自分の食器を流し台に置くとすぐさま棚に向かう。


「ご飯前には食べなくなったんだけどな」


「食べた後にあれだけ食べてたら、あんまり意味ないわよ」


 居間でお菓子を食べ始めた紅夜に俺と白芳は呆れた。お互いに自然と顔を向ける。その所作に気付いた俺達は気付いた瞬間、目を逸らした。


 今までなら何でもなかったはずの行為で血圧が上がるのがわかる。実にやりにくい。


 気を取り直して食事を再開したものの気が散って仕方なかった。自分達の食器の音と紅夜のお菓子を食べる音がやけに耳に付く。


 どうにもいづらいと感じた俺は少し食べる速度を速めた。そして、最後の一口を飲み込まないまま立ち上がる。


「ごちそうさま」


 白芳を見ようとするのを我慢して俺は自分の食器を持って流しへと向いた。紅夜の使った食器の隣に置いて洗い始める。


 洗剤をひたしたスポンジで食器を洗い始めた。とりあえず何かしていると落ち着く。ただ、その間にもぼんやりと考え事が頭に浮かんできた。


 一番気になるのはこの状態がいつまで続くのかだ。明日には元通りになるのならまだ我慢できる。けれど、ずっとこのままというのは身が持たない。


 誰かに相談できれば気は楽になるが残念ながらそんな相手はいなかった。本来は白芳がこういうときの相談相手なんだけど、まさか本人に当人の話はできない。


 解決せずにぐるぐると頭の中で巡る考えに気を取られていると背後で席を立つ音がした。これだって普段なら気にもしないことなのに意識してしまう。


 俺の左隣に白芳がやって来た。そのまま手を差し出して食器を流し台に置こうとする。


「これお願い。あ」


「わかった。あ」


 自分の食器を流し台に置いたときの白芳の手と次の皿を取ろうとした俺の手が軽くぶつかった。いつもより大げさな動作で手を離す。


 軽く触れる程度だったのでお互いの邪魔にはならなかったけど問題はそこじゃない。


 心拍数が上がった俺は思わず白芳をに顔を向けた。俺を見ている白芳の頬が赤い。


 何か言わないといけないと俺は焦って何も考えずに口走る。


「そ、それ洗っておくよ」


「ありがとう」


 短く返事をすると白芳が踵を返して居間へと向かった。


 少しその姿を追ってから俺は流し台へと視線を戻す。顔が赤い自覚はあった。


 もっとましな受け答えはできなかったのかと悩む。けれど、今はあれ以上は無理だとも思う。そもそも、いつもああいう簡単なやり取りだったような気がする。


 考えが全然まとまらなかった。途中で手が止まっていることに気がついて食器洗いを再開する。


「これはまずいなぁ」


 微妙に調子が狂って妙に疲れた。意識が少し変化するだけでこんなに白芳との接するのが大変になるとは思ってもみなかった。


 それからしばらく間を置いて室内の掃除と洗濯物を干す作業を始める。俺が掃除をしている間に白芳が二階の物干し場に洗濯物を干しに行った。


 一部屋ずつ上から下にはたきではたいて布で拭いて掃除機で仕上げた。台所から始めて、居間で紅夜に他の場所に移ってもらい、応接間を整えていく。


 気楽な一人作業だったけど洗面所で一時中断した。洗濯機に俺の靴下が一つ残っているのに気付く。


「お、珍しいな」


 二度手間は面倒だろうと俺はそれを掴むと二階へと上がった。


 物干し場への大窓は開けっぱなしで、白芳はこちらに背を向けて立っているのが見える。手に何か持っているようだ。特に気にすることなく声をかける。


「白芳、靴下が」


「うわぁぁ!?」


 言い切る前に悲鳴を上げた白芳の声に俺は驚いた。


 手にしていた洗濯物を後ろ手に隠してこちらへと振り向いた白芳の顔は真っ赤だ。明らかに焦っている。


「なによいきなり!?」


「いきなり? いや、洗濯機に残っていた靴下を届けに来ただけなんだけど」


「靴下?」


 俺が差し出した靴下を白芳は呆然と眺めていた。そして、我に返るとひったくるようにして取ると俺を睨む。


「い、いつからそこにいたのよ?」


「今来たところだけど」


「そう。ならいいのよ。あ、ありがとう」


 挙動不審の白芳が赤らんだ顔のまま大きく息を吐き出した。どうやら大事に至らなかったことがあるらしい。


 誰にでも知られたくないことがあるのは理解しているので追求はしない。ただ、背中に隠す瞬間に見えたあの洗濯物は俺の下着だったような気がするんだけど。


 けれども、下着の件以上に白芳の挙動の方が気になった。呼んだだけであんなに驚くなんて明らかにおかしい。どうしたんだろう。


 首をかしげながらも直接尋ねるわけにもいかない。若干不審に思いつつも俺はそのまま階下に降りた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る