意識しすぎて

 自宅にいるだけで緊張するなんて初めての経験だ。我が家は安心という常識が通用しないことにかなり戸惑っている。


 大学の講義が終わって帰宅するときの足取りは少し重い。それでものろのろと歩いていると自宅に着いた。


 玄関の扉を開けていつもの癖で声を上げる。


「ただいまー」


「おかえりにゃー!」


 すぐに反応したのは紅夜くやだった。尻尾をピンと立ててやって来る。


 一方、白芳しらよしの方は反応がない。今までもそういうときはあったけど普通は何もなければ紅夜と一緒に出迎えてくれた。何かあるんだろうか。


 靴を脱いで式台に上がる。


「白芳は?」


「今晩ご飯の準備をしてるにゃ!」


 姿を見せない理由がわかって俺は安心した。一瞬避けられているのかと思ったがそうではないらしい。


 とりあえず鞄を置きに自室へと向かってから洗面所で手洗いを済ませた。それから台所へと入る。


「ただいま」


「あ、おかえり」


 俺の方へと顔を向けた白芳はすぐに視線をそらせて挨拶を返してきた。


 自分もあまり長く目を合わせられないので黙って夕飯の手伝いを始める。今晩はオムレツだ。


 手が触れるだけで心拍数が跳ね上がるから夕飯の手伝いではあまり近づかないようにした。料理の段取りがわかるのが救いで夕飯の準備に支障はない。


 支度ができると三人で食事だ。このときばかりは紅夜がいてくれて助かる。


「オムレツおいしいにゃ! ご主人さまはあんまりケチャップかけないにゃ?」


「かけ過ぎると辛くなるからな。それにしても、俺が作ったやつはちょっと玉子が硬いや。失敗したかな」


「にゃーのは柔らかいにゃ!」


「白芳が作ったやつだな。料理を始めてまだ二ヵ月くらいしか経ってないのにうまくなったよなぁ」


「ご主人さまより上手にゃ?」


「母さんから色々と教えてもらったからレパートリーは広いけど、腕の方はたぶん白芳の方が上なんじゃないかな」


 元々都市部の大学へ進学するつもりだった俺はそのための準備を早くから考えていた。高校に入学してから家事を手伝い始めたのもその一環で、期間だけ見たら料理歴は三年だ。


 一方、白芳は今年の四月に家事全般を教わり始めた。手先が器用なのは前から知っていたけど、ここまで上達が早いとは正直なところ思っていなかった。


 話を聞いていた紅夜が目を輝かせる。


「すごいにゃ! にゃーはご主人さまのご飯も好きだけど、白ちゃんのご飯好きにゃ!」


「白芳にはいずれはお菓子作りも教えるから、そのときにおいしいクッキーとかが食べられるぞ、紅夜」


「お菓子! クッキー! 楽しみにゃ! しらちゃん、早く作ってにゃ! 白ちゃん、どうしたにゃ?」


 興奮して叫んでいた紅夜が白芳に目を向けて首をかしげた。


 つられて俺も白芳を見ると白い猫耳と二つの尻尾をピンと立てて顔を真っ赤にしている。心ここにあらずといった様子だ。更に何やらつぶやいている。


善賢よしかたが料理上手って褒めてくれた。善賢が料理上手って褒めてくれた。善賢が料理上手って褒めてくれた。善賢が料理上手って褒めてくれた」


「白ちゃん?」


「おい、白芳?」


「ひっ!? よ、善賢!? な、なに?」


 あまりの驚きように俺と紅夜も驚いた。


 そんな俺達二人を見た白芳が慌ててオムレツを口にする。けれどすぐにむせた。


 いつもとあまりにも違う様子に紅夜が心配する。


「白ちゃん、どこか具合でも悪いのかにゃ? お顔は赤いし咳もしてるにゃ」


「そんなことない! 全然平気よ! これはちょっと、そう、暑いだけだから! ほら、さっきまで料理してて体を動かしていたでしょ!?」


「そうなのかにゃ? でも、ご主人さまはあんまり赤くないにゃ」


「え!? そ、そんなことないでしょ! 善賢だって、あれ? どうしたのよあんた、早く顔を赤くしなさいよ!」


「いやそんな無茶な」


 あまりの無茶ぶりに俺は呆れた。何をそんなに慌てているのか言動が支離滅裂だ。


 ただ、つぶやきの内容は聞き取れなかったけど俺が料理の腕を褒めたから喜んでいるんだろうな。そう思うとかわいらしく思えてくる。


「ご主人さまのお顔も赤くなってきたにゃ!」


「ほら、そうでしょ! だから私の顔が赤いのも料理をしていたせいなのよ!」


「そうだったのかにゃー」


 違うと否定したいところだったが今の俺にはできなかった。そんなことをしたら俺まで理由を追及されかねないからだ。ここは白芳の方便に乗るしかない。


 波乱のあった夕飯を何とか乗り越えた俺は居間でぐったりとしていた。最後まで顔が赤かった白芳は食器を片付けた後に風呂へと入っている。


 畳の上で寝転がっていると紅夜がかまってほしいとせがんでくる。


「ご主人さま、遊んでにゃ~」


「白芳が風呂に入ってるんだから、紅夜も入らないとダメだろう」


「お風呂って気分じゃないにゃー」


「上がったら遊んであげるから、入っておいで」


「しょうがないにゃー」


 何度かの問答の末に風呂が好きじゃない紅夜は立ち上がった。人間と化け猫の差異はよくわからない。けれど、これから夏を迎えるので入浴の習慣はつけさせるべきだろう。


 とぼとぼと風呂へと向かって行った紅夜の後ろ姿を見送ると改めて脱力した。本当の意味で一息付ける時間である。


「これってどのくらい続くんだろう」


 気になる女の子と一緒にいることがこんなに疲れることなんだと俺は初めて知った。もっと楽しいものだと想像していたけど現実は違う。


「いや、本当はこういうのが楽しいっていうのかもしれないんだよな」


 人によってはこの状態が楽しいというのかもしれない。女の子と付き合ったことなんてないからその辺が全然わからないんだよな。


 そうは言っても今の俺にとって今の状況はかなり疲れる。決して嫌ではないが楽じゃないというわけだ。


「どうしてこんなことになってるんだろう?」


 きっかけは蛇の事件だけどそれがいつまでも尾を引いているのは俺と白芳の問題だ。お互い意識しているからいつまでもこの状態が続くわけである。


「いや待て、お互いに意識している? え、それって」


 自分の考えに驚いた俺は半身を起こした。呆然としつつも更に考える。


 白芳のあの反応を見ていると俺を意識しているのは間違いない。それじゃ、一体どのくらい意識してるんだろう。もしかして、いやでも、まさか?


「でも、その可能性は高いよな」


 単なる友達としてしか思っていないのならはあそこまでの反応は見せないはずだ。そうなるとやっぱり俺の想像通りなのだろうか。でも、自意識過剰な気もする。


 顔がどんどん赤くなっていく。一体どっちなんだろうか。毎日顔を付き合わせているのによくわからない。ああくそ、俺だって全然余裕ないしな!


 で、問題なのは俺の方だ。どう思っているかって? いやもちろん白芳を女の子として意識している。


「うわぁ」


 改めて意識するとものすごく恥ずかしかった。人を好きになると心が温かくなるって聞くけどそれどころじゃないぞ。無茶苦茶暑い。


 再び俺は畳の上に寝転がる。考えるほど余裕がなくなっていった。


 ごろごろしながら気持ちを落ち着かせていく。とりあえずもう大丈夫かなと思ったところで体を止めた。俺はとあることに気付いてしまったのだ。


「俺、どういう意味で意識してるんだ?」


 白芳自身かそれとも白芳の体を気になっているのか、それがはっきりとわからなかった。


 もちろん美少女しらよしの体を気にしなかったなんて自分に嘘はつけない。正直に白状すると例え無意識にでもその体を目で追いかけていたことはある。


 そうなると、この気持ちは一体何なんだろう。


「一体どっちなんだろう」


「何がよ?」


「うわぁぁ!?」


 つぶやいた瞬間に声をかけられた俺は悲鳴を上げた。振り返ると目を全開にして体を引いている白芳がいる。白い猫耳の毛を逆立てていた。


 俺の考えなど知らない白芳が叫ぶ。


「なによいきなり!?」


「い、いやすまん、考え事をしていていきなり呼ばれたから」


「もう、本当に驚いたんだから」


 白芳が俺を睨んだ。まるで不審者を見るような目つきである。


「お風呂上がったわよ。善賢、入りなさいよ」


「わかった。ありがとう」


「な、何よ。そんなジロジロ見ないでよ」


「見てねぇって」


 さっきまで変なことを考えていたせいで挙動が不審になっていた。まずいと思って目を逸らす。湯上がり姿が妙に艶めかしく見えるからどうしても見てしまうんだよな。


「ご主人さま、お風呂入ったから遊んでにゃ!」


 気まずく思っていたところに紅夜が居間に入って来た。部屋の雰囲気が一気に変わる。


「俺が上がってからな」


「早く入ってくるにゃ」


 笑顔で急かされた俺は立ち上がった。尚も白芳が俺に目を向けてくるが合わさないようにする。


 とりあえずこの場を逃れることができて安心した。こういうときは紅夜の無邪気さがありがたい。


 居間から廊下に出た俺はそのまま風呂へと向かった。

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