シリル①
何の因果か、俺は一昨年末から貴族省へ席を置くことになった。
領地の管理もあるから役職は迷惑だと言ったのに、
「公爵閣下が辞退されれば他の役職をお持ちになっておられる貴族様も遠慮しますから、どうか形だけでもお願いいたします」
と懇願されて仕方なく受けてやった。
それなのにだ……
重要書類にどうしても長官である俺のサインがいるとか言いやがって、月に二度、定期的に貴族省から呼び出しが掛かるようになった。
公爵の俺に足を運ばせるとはいい度胸だが、持ち出し禁止の書類などもあるからか、貴族省の役人どもに悪意は無く、こちらの毒気はすっかり抜かれる。
馬車の停留所から、王宮自慢の庭だとほざく無駄に長い道を通り貴族省へ。
木々に囲まれた殺風景な長いだけの道を歩き、役所に行ってみれば、今日はサインの要る書類はございませんだと?
ふざけるな、だったら俺が来る前に屋敷に報告して置け!
とんだ無駄足だ。
ああイラつく。
イラつきからやや急ぎ足で役所からの道を逆に戻っていると、曲がり角でこつんと軽い衝撃があった。どうやら何かにぶつかったらしい。
「キャッ」
可愛らしい声が聞こえてどうやら女に当たったのだなと気づく。
「ああ失礼」
社交辞令にそう言いつつ、一歩引くのは自然と身についた自己防衛の為だ。
女と二人きりで悲鳴の一つでも上げられればこちらの立場は途端に悪くなるからな。
まぁ今は護衛も居るから問題は無かろうが……
また小煩い令嬢に当たったのかと視線を落として見てみれば、いたたと立ち上がりもせずお尻を擦っている庶民の女が一人。その服装から確実に王宮仕えの身なりではない。
この先には貴族省しかないはずだが……。
なんだこいつは?
「おい使用人がこんな所で何をしている?」
すると女は俺をキッと睨みつけてきて、「わたしはまだ貴族です」と威勢よく吠えた。
上から下までを二度、すすっと視線を素早く送った。
どこからどう見ても平民だ。
何言ってんだこいつは……
「貴族? お前がか」
「ええ。わたしはバウムガルテン子爵家の長女クリスタです」
バウムガルテン子爵家……、知らん。
しかしこの娘が平民ではない事は、確かにその立ち振る舞いを見れば解る。
よほど良い教育を受けたのだろう、その毅然とした態度は俺に纏わりついて媚を売る、あのハエの様な令嬢らよりもよっぽど好感が持てた。
俺は彼女がみせる凛とした態度に少しばかりの興味が湧いた。
「お前年齢は?」
「クリスタです」
それはさっき聞いた。やれやれとため息を吐く。
「十九歳です」
ふむ、こいつでいいか……
服装は兎も角、毅然とした態度は一端の貴族だし、何よりも名を知らぬ貴族と言うのが気に入った。
「よし少し付き合え」
俺は女が落とした荷物を拾って城門を目指した。道を歩いていると時々後ろに突っ張る様な感覚がある。
どうやら女が抵抗している様だ。
それが何回か続き、
「痛いです!」
悲鳴のような甲高い声が聞こえて止まる。
チラッと見れば俺が掴んでいた手首には、くっきり赤い痕が浮かんでいた。急ぐあまりに扱いが雑になっていたらしい。
悪かったなと謝罪して再び手を取り歩き始めた。
「離してください、えーと」
今度はなんだと耳を澄ますが、その先はいつまで経っても聞こえてこない。
なんだこいつは?
立ち止まりなんだと聞けば、「離してください」と言いやがる。誰がいまそっちの都合を聞きたいと言った?
普通そう聞いたら「えーと」の続きに決まってるだろうが!
すると女は丁寧だが、しかし怒りを含んだ声で俺の名前を聞いていないから呼べないと言った。
はぁ? 貴族なのに俺の名前を知らないだと?
一瞬耳を疑ったが、しかし俺もこいつの家名は知らなかったなと思い出す。どうやらこいつは田舎の貴族にありがちな王都の大貴族を知らないパターンらしい。
なんだますます都合が良いじゃないか。
誰も知らぬ子爵の娘、こいつを偽の婚約者にでっち上げれば小煩いあの令嬢共も諦めるだろう。
そしてあいつらが居なくなった頃にこの娘を王都から追い返せば一件落着だ。
しかし下手に家名を名乗り、田舎娘に興味を持たれるのは気に入らん。
俺は家名を名乗らずに名だけを告げた。
細かな抵抗にあったからか普段よりも時間が掛かり、やっと停留所にたどり着いた。
「お前馬車は?」
「クリスタです」
しつこいな、今はそんな話はしていないだろうが。これだから令嬢どもはと、再び小さくハァとため息を吐いた。
「馬車はあるのかと聞いている」
「ありません」
ふん最初からそう言え。
「では乗れ」
「令嬢たるものが成人男性と二人きりで馬車に乗る訳には参りません」
言うまでもない、そんな事は俺だってお断りだ。
下手に二人きりで乗れば、悲鳴を上げられて傷物にされたからと婚姻を迫るに決まっている。護衛が乗るからと言えば、今度は男性だったら拒否すると言う。
ますます面白い。
王都に居る令嬢は地位と金にしか興味を示さないが、このクリスタと言う令嬢は全く違うタイプらしい。
俺はどこまでこいつが我を通すのか見てみたくなった。
しかしすぐにチッと舌打ちを漏らした。何を馬鹿な事を考えているのかと、今さっきの自分の考えに飽きれたのだ。
護衛に指示して王宮から侍女を借りるように言う。
いや待てと護衛を再び呼びとめる。後々侍女から偽装婚約の話が漏れると面倒だ、我が家に興味のある奴を雇うから一人買い取ってこいと命令し直した。
不機嫌そうなクリスタと共に待つ。
護衛は数分で若い侍女を連れて戻って来た。
「おい、これでいいか?」
「いいえ良くないです」
そして彼女は離せと、再び騒ぎ始めた。
「大声で叫びますよ?」
ほぉまだ言うのかと自分の口元に意地の悪い笑みが浮かんだのが分かった。
こんな交渉は貴族がよく使う手だ。今さら俺が引っ掛かる訳がないだろうが。
叫びたければ勝手にしろと馬鹿にしてやれば、クリスタは、すぅと息を大きく吸うと声の限りに「キャァー!」と叫んだ。
流石にこれには驚き、手を離してクリスタの口を覆う。
「馬鹿! 本当に叫ぶ奴があるか!」
一瞬の悲鳴だったが、停留所ゆえに人の往来が多く一気に注目を集めてしまった。
バッと体を振りほどくクリスタ。
瞬間に頬に熱が走った。
しばし経ち、俺は自分が頬を打たれたのだとやっと気付いた。
俺は初めて、ここまで自分の矜持を貫いた者を見て戦慄を覚えた。最初は都合が良いだけの相手だったから、偽の婚約者として適当な所で捨てるつもりだった。
しかしこの矜持の高さこそ将来の公爵夫人には相応しい。
よし決めた。
俺はクリスタを本気で迎え入れよう。
決意を新たに、俺は今さらながらにクリスタの顔を見つめた。
なるほど思いの外に整った顔をしているじゃないかとクスリと笑った。俺は相手の顔さえも知らずに偽の婚約者をやらせようとしていたのだなと。
こういう出会いも悪くは無いか。
「実は少々強引な手を使ってくる令嬢らが居て困っている。
クリスタ嬢には俺の婚約者のフリをして
嘘偽りなく、ずっと考えていたことを話していく。そして今は違うこともちゃんと告げておく。
「今日から俺の婚約者に
「えーと……」
「またえーとか」
この娘の〝えーと〟は今度は何を聞かせてくれるのだろうか?
俺の口元に自然と笑みが浮かんだ。
クリスタを連れて屋敷に帰って来た。
我が家の出来た執事は、急な来客、それが年頃の令嬢だと知っても表情一つ変えなかった。少しは驚くくらいしても良さそうな物だがな。
「おい婚約届けと資金の譲渡書類を準備しろ」
「畏まりました」
やはり驚くことは無い。
「理由は聞かないのか?」
「主人の命令は絶対でございますゆえ」
「面白くない奴だな」
「申し訳ございませんが道楽は道化師か、お連れになったご令嬢にお求めください」
「おい、バウムガル~何とかと言う子爵を知っているか?」
「バウムガルテン子爵家でございましょうか?」
「ああ確かそうだ」
「バウムガルテン子爵家はご当主が数年前より病で伏せっておられます。
確か一人娘のお名前はクリスタ様だったかと記憶しております」
「あれがそのクリスタだ」
「畏まりました。確かご令嬢は十九歳だったはずですので、バウムガルテン子爵閣下宛への書類も準備いたします」
「頼んだ。あとすまんがクリスタへの説明は少々ぼかしてくれ」
「畏まりました」
返って来たのは理由を聞かない返事のみ。結局この執事は最後まで驚くことは無かった。
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