36:罠
そろそろ夕刻に入る頃、マイヤーリング侯爵家に来客があった。
本日は夜会の日。準備で忙しいと言うのに先触れもなく訪ねてくるとは~とちょっと憤っていた所に、来客の名前を聞いて笑顔に変わる。
早く早くとマルティナを急かして準備をして貰い、わたしは玄関へ走った。
「クリスタ!」
「シリル様!」
ほんのちょっとだけぴょんと飛び掛かったけどシリルはちゃんと受け止めてくれた。わたしたちはそのままお互い名前を叫びあって抱き合った。
衣服から懐かしいシリルの匂いがする。シリル成分を補充だとばかりに、胸一杯に吸いこんでいると体がひょいと離されて、わたしは不満げに口を尖らせた。
成分補充はまだ足りてない!
するとシリルの顔が降りてきて、頬に軽い口づけが。
お返しにわたしもちょいと背伸びをして頬に口づけを返した。
そして見つめ合う。
「随分と仲が良いのだね」
横からの声に驚いて振り返ると、所在なさげに「ははは」と笑うお義父様がいらっしゃった。
「邪魔をするつもりは無かったのだけどね。そろそろ出発の時間だよ」
ええっもう!?
だってあんなに急いで来たのに~
玄関を出た所でシリルがわたしの手を取り馬車に誘ってくれた。
「クリスタは俺の馬車に乗れよ」
「駄目ですよシリル、クリスタはうちの馬車に乗せます。
あなたの方にはお父様が乗るわ。男同士語り合っていなさい」
「久しぶりに会ったんだから良いだろう?」
そうだそうだ~シリル頑張れ~もっと言え~
「クリスタも何か言いたそうね」
「どうしても駄目でしょうか?」
「駄目です」
頑なに許して貰えなくて、わたしはお義母様の馬車で向かったよ。
※
ちなみに後からマルティナから聞かされたことだが、わたしとシリルは十分近く抱き合っていたそうだ。その間お義父様はずっと見て見ぬふりをしてくれていたらしくて……
「十分!?」
「ええ完全に二人だけの世界でした。奥様も飽きれておいででしたよ」
ひぃぃ! もうっ耳まで真っ赤な自覚有りだわ!!
二週間ぶりに会ったから止まらなかった自覚はあるけど。
一瞬だと思っていたのに十分か~
なるほど。確かにあのままあっちの馬車に乗っていたら流されていたかもしれない。つまりそれを察してお義母様は止めてくれたのだろう。
※
本日の夜会の会場ボンヘッファー侯爵邸についた。
普通は男性が手を引き馬車を降りるのだけど、生憎この馬車に乗っているのは女性のみ。逆に前の馬車は男性のみなのだが、お義父様がシリルをエスコートして降りるのか、それとも逆か? これって賭けになるかしら。
まぁこちらは若いわたしがお義母様をエスコートすべきよね?
馬車が停まりさっさと降りようとすると、勝手に馬車のドアが開いた。
ひょいと顔を覗かせてきたのはお義父様だ。お義父様は当然の様に手を差し出してきて、同じく当然の様にその手をお義母様が取って馬車を降りて行った。
と言う事は!?
えっと……、期待していいのかしら?
途端にわたしの心臓がドキドキし始める。そして馬車のドアから銀髪碧眼の美丈夫が顔を覗かせた。
「美しいお嬢様、どうやらお困りのご様子。
よろしければお手をお貸しいたしましょうか?」
「ええとても困っていたのよ。ぜひお願いするわ」
そして手を取り合って二人でクスクスと笑った。
馬車を降りるとお義父様とお義母様が待っていた。今のおふざけを見られたと思えばちょっぴり顔の熱が増したが、その熱は夜風がすぐに冷ましてくれた。
入場してしばらくすると夜会が始まった。
見知った貴族に挨拶をするそうでシリルはお義父様と共に消えていく。
「残念そうな顔をしない。後でまた会えますよ。
さあわたくしたちも挨拶です。クリスタも一緒に来なさい」
お義母様に連れられてこちらも名のあるご夫人方に挨拶だ。
会う夫人、会う夫人、皆がお義母様を見つけると、ギリギリ優雅に見えるほどの急ぎ足でやってくる。
王妃様の姉で、貴族夫人らのご意見番らしいマイヤーリング侯爵夫人と言えば、誰からも一目置かれる存在だ。その方に連れられて、息子の婚約者よと紹介されれば、誰もが好印象を持ってくれる。
中身のない張りぼてにしか見えないが、今はそれでいいとお義母様から言われた。
一ヶ月半後。その頃のわたしはもう少しマシになっているだろうか?
お義母様は先ほどから、休憩用のソファを陣取ってご夫人たちと話し込んでいる。座っているのは上級貴族ばかりだ。ちなみにお義母様に近い順から力が有る人が座るらしくて、これはお茶会も同じなのだってさ。
本来なら子爵令嬢のわたしは末席どころか居場所がないのだけど、虎の威を借る状態なので、お義母様の隣だ。
えーと、わたしと逆隣りでお義母様の真横の人が最強、次がわたしの隣で、その次は逆側~って感じかな?
それにしてもわたしの場違い感半端ないよね~
この席は夜会そっちのけで話が弾んでいる。どうやらお義母様はしばらくここから動くつもりはないらしい。
「クリスタ悪いのだけど飲み物をお願い」
夜会が始まるや挨拶もそこそこにここを陣取るや、しゃべりっぱなので喉が渇くのも当たり前だ。
「はい行って参ります」
会話にも入れない下っ端は素直に従うべしだよ!
一言声を掛けて、わたしは席を立った。
ドリンクを配っているブースへ向かい、テーブルに飲み物を運ぶように伝えた。役目が終わり席に戻ろうとすると、この屋敷の使用人を名乗る男性が声を掛けてきた。
「失礼ですが、バウムガルテン子爵家のご令嬢クリスタ様でいらっしゃいますか?」
「ええそうよ」
「バイルシュミット公爵閣下が気分を悪くされて客室で休まれておられます」
「ええっシリル様が!?」
屋敷で会った時も馬車を降りる時もそんな風に見えなかったのに!
「はい。公爵閣下がバウムガルテン子爵家のご令嬢の名前を仰られましたので探しておりました。ご案内いたしますのでご足労頂けますか?」
「分かりました。よろしく頼むわ」
「こちらです」
使用人に案内されるままわたしは客室の方へ繋がるドアを潜った。
「一番奥の右手にいらっしゃいます。
本当はお部屋までご案内したいのですが、仕事がありますのでここで失礼させて頂きます」
「ええ分かったわ、ありがとう」
使用人と別れるとわたしはシリルが居ると言うドアに向かって小走りで急いだ。
本当はヒールを脱いで走りたいのだけど……
やっとドアの前にたどり着きノックをする。
返事は無い。
もしやそれほどまでに具合が悪いのか!?
「シリル様、開けますよ」
一言断りを入れてドアを開けた。
しかし部屋の中は空っぽ。
「誰もいないじゃないの」
確かに一番奥の右手だと言ったはずなのに?
後ろのドアがガチャっと開いた音が聞こえる。
左手だったかしらとクルリと振り向くと、平民の服を着た見知らぬ男がドアから出てきた所。男はニィと口元を歪めると、手を前に出してわたしに触れようとした。
「きゃあ! イヤッ!!」
わたしは触れられる前に男の顔に扇を投げつけて距離を取った。しかし残念ながら立ち位置が悪かった。
後ろの部屋から男が現れた所為で、わたしが逃げる方向は自らがドアを開けた、無人の部屋以外になかったのだ。
部屋に押し入ろうとする男、部屋に入れまいとする女。ドアを完全に閉め切る前に足を挟まれてしまったから、そんな無意味な力比べはすぐに決着がついた。
ドアをパッと離して部屋の中央に向かって走る。
突然に支えを失った男は部屋の中に転がり込むように入って来た。
男が体制を立て直している間に椅子を手にした。部屋の中で椅子を持ち上げてけん制しているわたしに、男は下卑た嗤いを見せながらゆっくりと近づいてくる。
やっと自分が嵌められたのだと理解した。
ここは一番奥の部屋、夜会の会場は遠くそして賑やかだ。ここから悲鳴を上げてもきっと届かないだろう。
辱められればわたしは終わりだ。
シリルには相応しくないとして捨てられる。
いいえ辱められるくらいなら……、リアナの言う通りだ。わたしは自決する!
そう決意を固めた瞬間。
ガシャン!
窓ガラスが割れて黒い影が飛び込んできた。
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