20:わからない感情
翌朝、わたしはパンの焼ける匂いで目が覚めた。
その香りからバイルシュミット公爵邸かと思ったが、目に入って来たのは長年見慣れた天井で昨夜に泊まったのは実家のバウムガルテン子爵邸だと言う事を思い出した。
わたしが
昨日は晩餐だと言われた後、礼服を着るシリルに合わせる為にドレスを着た。
しかし今朝はどうだろう。
実家だし朝だし、楽なワンピースでも構わないのではと頭を過る。
「あっ!」
そうだよここは実家じゃないか!
「どうかされましたか」
「忘れてたわ、畑にお水をやらないと!」
王都へ行っていた間は仕方がないとしても、帰ってきたのだから朝の水やり当番はわたしの分担だよ。
「それでしたら先ほど侍女長のハンナさんから、不要だとクリスタ様にお伝えするように申し付かっております」
「えっそうなの?」
「はい確かに」
長旅の帰りだからか、
そして昨夜の母の言を思えば、シリルが居る間は公私の〝公〟の側だろうから、
「マルティナ、今朝はドレスをお願いするわ」
「畏まりました」
決意を持ってドレスに着替え、ここはわたしの実家ゆえに昨晩同様、シリルと一緒に行く方が良かろうと考えて彼の部屋に立ち寄った。
ノックをすればすぐに返事があり、客室からシリルが現れた。
「おはようございますシリル様」
「ああ、おはようクリスタ」
そう言いながらシリルが腕を少し持ち上げた。これは特に意識した訳ではなく紳士として自然に出た行動だろう。その行動になんの下心も無いと知っているから、わたしもその腕に自分の手を絡めて食堂に入った。
食堂に入ると、すでにお母様がドレス姿で座っていた。
晩餐の時もうちにまだドレスがあった事に驚いたが、今朝はまた違うドレス姿で再び驚かされる。
やはり〝公〟か、ドレスを選んで正解だったわね。
ワンピースで来てたらきっと叩かれたはずよ。
「おはようございますお義母上」
「おはようございますお母様」
「ええおはよう。朝から仲が良いのね」
「ふぇっ!?」
これはただのエスコートで~とわたしが続けるよりも前に、「ええもちろんです」とシリルがニッコリ笑顔でそう返してしまう。
それを否定するのはなんだか違う気がしてわたしは自分の言葉を飲み込んだ。
朝食は、焼きたてのパンにハムやサラダなどで、普通の軽食と言った風ではあるが騙されてはいけない。
我が家のいつもの食事は、パンは売れ残りの随分と硬い奴か、値段の安い黒パンのどちらかだし、そもそもサラダの上にハムなんて乗っていない。
だってお肉は畑に咲かないもん……
おまけに食事の前に、執事が小さなカートを引いてきて飲み物を聞いてくる。
まずは客人のシリルから。
カートの上には、どこから出て来たのかワインに、アルコール無しのジュース。そしてお茶用の小奇麗なティーカップなどが載っていた。
普段ならカートなんてなく、テーブルの中央に井戸水の入った水差しが置いてあるだけなのに……
飲み物を聞かれたシリルはカートの上をチラリと見てクスッと笑う。どうやらわたしが失態を演じた井戸水が無い事に気付いたらしい。
朝食を食べた後はお医者様がもう一度お父様の診察をして下さった。
新薬の情報は、お抱えの老医に伝えておくらしく、今後は問題ないだろうと言う話を頂いている。
残った問題は、そのお薬の費用の出所だけ。
シリルが払ったのを返すか返さないのか、つまりわたしが嫁ぐか嫁がないかだ。
お母様とは十分に話したつもりなので、わたしは今度はお父様の寝室を訪れていた。
「わたしの体が治ればきっと家の中は上手く回るはずだ。
だからお母さんが言った通り、クリスタがひとりで無理をする必要はないよ」
「仮にシリル様のお話をお断りしたとして、その後はどうなさいます?」
「貴族のままでいるのだから、クリスタ。お前には新たな婿が必要だろうね。
正直な話をすれば、バイルシュミット公爵閣下を越えるような良縁は辺境の子爵ではまず望めまい」
「でも……」
「まぁ待ちなさい。それがお前を苦しめていることも分かっている。
いいかね、お前はどうも人の事を先に考える癖があるようだね。もっと単純な事を考えて見てはどうだろうか?」
「単純といいますと?」
「お前がバイルシュミット公爵をどう思っているかだよ」
「えっ?」
「ふぅやはり考えたことが無かったようだね。
うちの娘は少々抜けているとは思っていたが、勘違いしていた様だ。どうやら想像以上に抜けていたようだなぁ」
「お父様。それは失礼な物言いですわ」
わたしがシリルの事をどう思っているかなんて簡単よ。
まず公爵閣下でしょ。銀髪碧眼で顔が良いわよね。公爵閣下だしお金もあるわ。ついでに公爵閣下だからお屋敷も大きくて……
うん、ちょっと公爵閣下から離れてみましょうか。
えーと顔が良いのは言ったわよね。きっと万人が振り向くわ。
好みかと言えば、あらそう言えばわたしってどういう人が好きなのかしら?
しばしの長考の末、
「大変ですお父様」
「答えは出たかい?」
「わたしって誰でもいいみたい」
「は?」
予想外の答えだったらしくお父様が口をぽかんと開けて驚いていた。
いやわたしもさ、ここでシリルが良いですって言えれば良かったと思うよ?
でもねぇ……
「そもそも満足に結婚できると思っていなかったので、貰ってくれれば誰でも良かったみたいですわ」
「えーとそれは、う~ん例えば老医でもかね?」
「いいえ、それは流石に。
子が産めないとわたしの老後が困りますので……」
「つまり若い以外に希望が無いと?」
「はいその様ですわ」
「それはとてもバイルシュミット公爵閣下には言えないね」
「はい……」
「ではいまは兎も角として、昔はどうだろう?」
お父様はいったい何を言っているのだろうと、わたしは首を傾げた。
「貴族令嬢に自由恋愛をする権利はありませんよ」
これは昏々とお母様から聞かされたことだ。
「ハァ……そんな所はきっちり教育されているのだね。あいつにも困ったもんだな。
ふむ。逆に言えば、若さと言う唯一の希望は叶っているから、バイルシュミット公爵閣下は適任と言う事ではないだろうか?」
「あっ確かに!」
ん、なんか言いくるめられてる?
突然ガチャッとドアが開いた。
入って来たのはお母様で、
「いつまで話しているの!
いくら加減が良いからと! 体力が落ちたら治るものも治りません!」
と、叱られて部屋から追い出された。
自室に向かって歩いていると、廊下でシリルと出会った。
「ここに居たかクリスタ」
「失礼しました、もしやお探しでしたか?」
そう言いつつわたしはシリルの顔をじっと見る。
銀髪碧眼の美丈夫で身なりの良い男性、感想はそれだけで好きとか嫌いはやっぱり出てこなかった。
「どうかしたか?」
「いえ何も」
「そうか……
なあクリスタ、俺が言う事ではないが、いや違うな」
そう言うとシリルは視線を外しながら唇を噛んで顔を顰める。
ほんの一瞬でその表情は消え、今度はわたしをじっと見つめてきた。
「あの日、俺はお前をどうしても手に入れたくて騙すような事をした。
それを今は悪かったとは思っているが、しかし悔いてはいない」
「……悔いていない?」
「ああ」
呟きの様な言葉に力強い即答が返って来た。
どうやらいま、とても貴重な意見を貰ったらしい。何の価値もないと思っていたわたしに、シリルは何かしらの価値を見出していると言う事だ。
「シリル様、申し訳ございませんがなぜ悔いていないのかを教えて頂けませんか?」
「チッ」
ええっ舌打ち?
「いまのは流石に判れよ。鈍いにもほどがあるぞ」
続いて言われたその悪態は正に答えでもあった。
「つまりシリル様はわたしの事を特別だと思っていらっしゃるのですか」
「まあそうだな」
「それはありがとうございます」
「クリスタ、お前は?」
「わたしは……、どうにもそう言ったことに疎いと言う事が解りました」
「つまり何とも思っていないと?」
「いいえ。それさえも解りません」
「ならばどうすれば俺と共に来てくれる?」
うん? なんでわたしが残る前提なのだろうか。
「一緒に帰るつもりでいましたが、もしやわたしは置いて行かれるのでしょうか?」
それを聞いたシリルは顔を顰めながら首を傾げた。
う~ん何か変な事を言ったかしら?
「悪い。今の流れでどうして結論がそうなったのか俺には分からん」
「今シーズンはお隣にいて、ボンヘッファー侯爵家のご令嬢にけん制するお役目があると思っていましたが、もしやそれさえも不要でしたか?」
「いや居てくれれば助かるが、いいのか?」
「お約束ですからもちろん構いませんわ」
「その後は、と聞いても?」
「シリル様がわたしを必要とされるのでしたら残ります」
「そこに感情は?」
「今は判らないとしか……、申し訳ございません」
「金で買えない女か、やはりお前は面白いよ」
シリルは満足げに口角を上げてニィと嗤いながら去って行った。しかし今度は残された方のわたしが首を傾げた。
わたしが金で買えない女?
そもそも最初から、借金の肩代わりをして貰っている時点で、普通にお金で買えてると思うのだけど、う~ん。どういう事かしらね?
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