02:かりそめの契約
ぐいぐいと容赦なく腕を引かれて痛みを覚える。
「痛いです!」
文句を言えば男は立ち止まり自分の手をじっと見る。男が掴んでいるわたしの手首は痛々しく赤色に染まっていた。
「ああ悪かった、これならいいか」
腕を離して今度は手と手を結んで歩き始めた。親が子にするような、手と手を結んで~という奴だ。
確かに痛みは無くなったけどそうではなくてね?
「離してください、
「今度はなんだ」
「離してください」
そして荷物を返して欲しい。
「そっちではなく『
わたしにとってはむしろ
「わたしは貴方様のお名前を聞いておりませんので、満足にお呼びすることが出来ずに言葉を濁しました」
「ああそれは悪かった。俺はシリルだ」
それは姓ではなくて名の方だろう。
最底辺だろうがわたしはまだ令嬢、名前で呼んでいいのは親しい男性のみとちゃんと教育を受けているっての!
しかし今はそれはどうでもいい。
その辺りは丸めてポイと投げ捨てて、わたしは本題をいま一度告げた。
「では離してください」
「断る」
聞いてくれなかった……
シリルは自分勝手にずんずん歩き、
ここで、ああこの人は外に出るつもりなんだな~と理解した。
門の側にあった馬車の停留所にたどり着き、
「お前馬車は?」
「クリスタです」
「馬車はあるのかと聞いている」
また無視だよ……
「ありません」
「では乗れ」
さすがにそれは断固拒否だ。
「令嬢たるものが成人男性と二人きりで馬車に乗る訳には参りません」
「護衛が一緒に乗るから大丈夫だ」
「護衛が男性でしたらお断りいたします」
「チッ面倒臭いな」
舌打ちといい、ここまでの態度といい、身分の良さそうな格好を見れば、我がまま放題に育ったんだろうなーと容易に想像できる態度だった。
おいと護衛に呼びかけて王宮の方へ走らせた。
手を掴まれたまましばし待たされると、驚くことにその護衛の騎士は、城から若い侍女を一人借りて帰って来た。
お城に勤める侍女ってそんな簡単に借りれるのかな~とやや疑問を覚える。
でも護衛の騎士さんはすぐに帰って来たので、わたしが知らないだけで実は簡単に借りれるのかもしれないわね。
「これでいいか?」
「いいえ良くないです」
「またか……、今度はなんだ!?」
ため息交じりにシリルが苛立った声を上げた。
ため息を吐きたいのはこっちの方だ! と言いたいがぐっと我慢。
「離してください」
果たして何度目の台詞だろう?
わたしは同じ台詞をまた告げた。
「断ると言った」
「事情も聞かずに連れて行くのは誘拐と同じです。
大声で叫びますよ?」
「ふん、叫んでみても良いぞ」
意地悪そうに口元を歪めるシリル。
「では遠慮なく、キャむぐぅ」
「馬鹿! 本当に叫ぶ奴があるか!」
慌てた様子でわたしの口を塞ぐシリル。
慌てる顔を見せたのでしてやったりと思ったのは束の間の事。
誰にも許したことのない唇に触れられて、一瞬でカッと頭に血が上り、わたしはその手を振り払って彼の頬を打った。
パシン!
シリルは驚き、目をパシパシと何度も瞬きさせていた。
頬を打たれたシリルも護衛の騎士も、借りてきた侍女も、誰もが声や動作を止めてしまいその場がシンとしている。
あーやっちゃった~と一瞬で冷静になったわたしも同様だ。
最初に硬直が解けたのはシリルだった。
「悪かった、だが俺にも事情があるんだ。
クリスタ嬢、申し訳ないが一緒に着いて来て欲しい」
「その事情をお聞きしてから考えます」
「ここではな……
悪いが馬車の中で良いだろうか? もちろん侍女も一緒だ」
キョロキョロと見回すシリル。なんだろうとわたしも視線を彷徨わせる。
人の出入りが多い馬車の停留所で、女性が男性を頬打ちすればそりゃあ衆目を集めるよねーってくらい周りから興味本位な視線がバシバシと飛んでいる。
今度は怒りではなく恥ずかしさから赤面し、か細く「はい」と応じたよ。
馬車は走らせないと確約を貰ってから、わたしと侍女、そしてシリルが馬車に乗った。
「今さらだがクリスタ嬢、君には婚約者がいるだろうか?」
「いいえ居ませんわ」
お父様が健在なら婚約者の一人くらいは居たかもだが、病気になってからは社交界からすっかり遠のき、さらに借金も増えた。
ぶっちゃけ三年前はデビュタントの夜会に出る事さえもできないほどの貧乏っぷり。
こんな悪条件で婿に来てくれる令息がいる訳がない。
「ならば良かった」
そう言ってシリルが笑みを見せた。
勿論
「実は少々強引な手を使ってくる令嬢らが居て困っている。
クリスタ嬢には俺の
「困ります」
「もちろんお礼はするぞ」
「いえそう言う意味ではありません。
実はわたしは本日貴族省に用がありまして、恥ずかしながら爵位を返還しに参りました。
ですから明日からは平民です。平民ではきっとお役にたてないでしょう」
「なぜ爵位を、と聞いて良いか」
「八年前より父が病に伏せっており領地の管理もままなりません。せめて兄か弟がいればよかったのですが、子供は女のわたし一人で爵位を継げる男子もおりません」
開けっぴろげに借金が~とは流石に言えず言葉を濁した。
「なるほどな。
幸いなことに俺は優秀な事務官に伝手がある、それを貸そうじゃないか。その代わりクリスタ嬢は今日から俺の
「えーと……」
「また
何度も言った台詞ゆえに呆れたようにクスリと笑われた。
あーもぅ!
こんな思いをするならさっき一気に言っておくべきだったと後悔する。しかしここで言わない訳にはいかず、視線を反らしつつ、
「実はかなりの借金がありまして~」と呟く様に告げた。
「分かった、それも払おう」
「は?」
金額も聞かずに即答って、『大丈夫かしらとこの人?』と、真面目に頭を疑うわ。
「えーと、かなりの額がありますよ?」
おずおずと金額を伝えれば、まったく問題ないと軽く頷かれた。
まったくですか、そーですか……
まぁ我がまま放題で身なりも良い事だし、それなりの爵位の人なのだろうけどさっ。
わたしが不満げにぶぅと唇を尖らせていると、彼は首を傾げて、
「逆に聞くが、その多額の借金はどうするつもりだったのだ」
「父の話では爵位と領地を返還すれば国が肩代わりしてくれると聞いております」
「領地の維持費などで発生した借金ならば確かに肩代わりするだろうが、今の話だと借金の原因は父君の治療費の様に聞こえたが?」
「ええその通りです」
「ならば個人の借金ゆえに国は何もしないぞ」
「ええっ!? じゃあこの借金は……」
シリルは、
「これで決まりだな」
と、言ってニヤッと嗤った。
領地の支援に家の借金、さらに父の医療費まで負担すると言われれば答えは一つ。
「喜んで了承いたします……」
こうしてわたしは婚約者のフリをすることになった。
とは言えこんな大切なことを口約束で終えるつもりはない。
書面を~と言えば、もちろんだと彼の二つ返事で返してきた。
しかし馬車の中に都合よく書面があるはずはない。
馬車を走らせないという確約はここまで。わたしと、借りてきた侍女さんはシリルの邸宅へ移動した。
シリルの邸宅は王都に並ぶ屋敷の中でもひと際大きい。伊達に即答で借金の肩代わりをしたわけではない事が分かったので、一先ず安堵した。
屋敷の玄関をシリルと二人で潜る。
執事はわたしを見ても眉を潜めることもなく、至極普通に「お帰りなさいませ」と静かに礼を取った。
ド平民の服を着た見知らぬ女性を連れてきたと言うのに眉ひとつ動かさないとは、とてもよく出来た執事だわ。
それとも……
わたしはチラッとシリルを見上げる。あのような強引な手段を取る人だ、こんなことが初めてではないのかもしれないなと、ここまでノコノコとついて来てしまった自分のチョロさを今さらながらに後悔した。
通された応接室で、わたしは王宮でお借りした侍女さんと待っていた。
視線が合うとニコッと笑顔をみせてくる、もちろんわたしも笑顔を返したわ。
わたしと彼女は今日が初対面だが、お互い巻き込まれた数奇な運命を感じて親近感がわいているのだろうか?
応接室で待つこと一〇分ほど。
シリルと執事が現れてテーブルの上に書類を並べ始めた。
なぜかシリルはわたしの隣に座り、執事が正面に座る。
この位置はどうなの? と思ったけれど、執事が書類をこちらに見せながらわたしとシリルにサインする場所を差してくるのでなるほどと納得した。
執事は婚約届けに、資金の譲渡契約書など、色々な書類を淡々と説明してくれた。
説明を終えれば、
「よろしければ了承したと言うことでこちらにサインを頂けますか?」
一枚ずつ指を差しつつ、ここがシリル、こっちはわたしだと教えてくれる。
言われた通り、シリル、わたしの順で何枚かの書類が回りだした。
すべての書類を書き終えてインクが渇くのを確認すると、
「クリスタ様は十九歳ですので、何通かはクリスタ様のご実家であるバウムガルテン子爵家に送り、バウムガルテン子爵閣下から直接サインを頂かないとなりません」
「はいお願いします」
「早馬を向かわせますが戻るには四日ほど掛かるでしょう。
ところでクリスタ様、本日はどこか宿を取っておいででしょうか?」
「いいえすぐに帰るつもりでしたからとっていません」
「畏まりました。
旦那様、クリスタ様にお部屋の準備をいたしますがよろしいでしょうか?」
「ああ頼む」
ええっわたし、泊まっていくの!?
どういう運命なのか、わたしは初対面の男性の家に泊まることになったらしい。
ついでに……、完全に巻き込まれた感のある、王宮でお借りした侍女さんも泊まるらしいよ?
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