16:葛藤
シリルはわたしの実家へ帰る日を二日後にすると決めた。
暇人なわたしと違い、シリルはとても忙しいので彼の予定に従うのは当たり前。現にそう宣言した後は、彼は執務室に籠りっきりで、食事の時くらいしか顔を見かけることも無くなった。
わたしに出来る事は、肩を揉んであげるくらいかしら?
ノックをし執務室に入って行く。
シリルは顔も上げずに「どうかしたか?」と聞いてくる。
やはり相当忙しいらしいわ。
「お疲れの様ですから肩でもお揉みしようかと思って参りました」
「ハァ!?」
なんともすっきょんとうな裏返った声が執務室に響く。
そんなに変な事を言ったかしら?
もしやわたしの腕前を疑っているのかも~と考えて、
「ご安心ください。小さい頃にお父様に、とても上手だなと褒められましたから肩もみは自信がありますわ」
ちょっと誇らしげに告げた。
しばしの沈黙。
執務室で同じく作業をしていた執事さんも、まるで時間を忘れたかのように手を止めていた。
なんだか執事さんは奥歯に何か詰まった様な不思議な表情を見せているわね。
かなり待った後、シリルは怒りからか顔を真っ赤にして「不要だ」と短い言葉で拒絶した。わたしは忙しいのに無駄な時間を取らせたことを謝罪して執務室を後にした。
こうして拒絶されれば他に出来ることは無く、大人しくシリルが仕事を終えるのを待つ以外になかった。
二日後、昼食を待たずしてシリルは出立の準備を終えていた。
あれほど忙しく働いていたから本当に領地のお仕事など大丈夫なのかを聞くが、二日掛けて準備をしたので数日の話であれば執事に任せても構わないと答えが返ってくる。
かなり無理してくれたのが分かり、「ありがとうございます」とお礼を伝えた。
玄関の前にやって来た馬車は、普段使いの馬車と違った大きな奴。
轢く馬も二頭ではなくて四頭で、旅の間の荷物も積まなければならないから大きな馬車を用立てたという。
肩掛け鞄と小さなスーツケース一つでやって来たわたしからすれば、こんなに何を積む物があるのって話だ。
ちなみに真っ先に積まれたのは数々のドレスの入った衣装のケース。
それを見て開口一番、
「それはいりません」
「うん? クリスタはドレスを着ないのか」
「あれは移動に向いた服装ではございません」
「しかしベルティルデはドレスで領地に行っていたぞ」
ぐっ……
「移動中は何かと生地が傷みます。
大貴族のご令嬢ならその様に雑に扱ってよいドレスもございましょう。しかしわたしの家では移動の時に着てよいドレスなんてございませんでした」
そもそもドレス自体が無いのだが、それはこの際どうでもよかろう。
「しかしいま買ってあるのは十把一絡げの吊るしのドレスばかりだろう。ならば気にする必要はあるまい」
しまった~、この人も大貴族じゃん!
「えーと、ワンピースではダメですか?」
言い訳の種も尽きたのでわたしは諦めて直接交渉に踏み切った。
「その恰好の方が楽なのは理解しよう。
しかし公爵家の馬車を使うのだから、それ相応の恰好は必要だ」
ただの我がままと、
ズクンと胃が痛む。
「判りました」
応える口調はなるべく平静に。
何事もないかのように振る舞わなければ……
馬車に乗るのは、わたしとシリル、そしてすっかりお馴染みのマルティナに、あと一人、見知らぬ中年の男性?
王都に来て一週間ほど。出会った男性の数はごくわずかだ。
この男性とは確実に初対面なので、どちら様でしょうかとシリルに訪ねる。
「彼は医者だ」
「ああなるほど、お医者様ですか。
確かに旅先で具合が悪くなった場合にいらっしゃると助かりますね」
流石は大貴族だ、旅行に連れまわすことのできる医者がいるなんて驚きだわ。
「クリスタはたぶん勘違いをしていると思うが、さすがの俺でも旅に医者を連れたりはしないぞ」
おや大貴族でもそれは無いとハッキリ否定されたぞ。
だったらこの人は一体?
「医者はお義父上にだ」
「お父様にですか?
ですが領地には主治医がおりますよ」
わたしが生まれる前から懇意にしている医者だそうで、物心ついたころから見た目が変わらないほどの老医だ。
あのおじいちゃんの出すお薬は天然の薬草を煎じた奴で、苦くて苦くて~と頭を過れば、条件反射で顎のあたりから唾液がじわぁ~と……うう嫌な思い出が。
「先日聞いたお義父上の病状に思うことがあってな」
「そうなんですか?」
しかしシリルは結局それ以上語ることなく、口を閉ざした。
馬車はバウムガルテン子爵領へ向けて走り出す。
乗り合い馬車と違い自由の利く自前の馬車。すべての街に立ち寄る必要もなければ、真っすぐ引いた線から外れた街に寄るための無駄な大回りの必要もない。
来るときは一週間掛かったはずの旅路だが、今回はそれほど急ぎもせず、しかし四日ほどの予定で辿り着くのだそうだ。貧乏人はお金を節約するが、お金持ちはこうやって時間を節約するんだね~
ここ二日。この旅の日程を得る為に執務室に籠っていたシリル。
馬車の中で、
「あの日、のんびりと二人で語ろうと言う約束をしたのに、満足と時間が取れなくて済まなかった」と謝罪を受けた。
「わたしの為に無理に時間を作って下さった為でしょう。謝罪なんて不要ですわ」
「それは、うん。悪かった」
「ですから……
そうですわ、折角ですから今お話ししませんか?」
わたしの提案に対してシリルは、同じく馬車に乗る二人に視線を這わせる。
マルティナは目が爛々としているので聞く気満々。
その態度はいっそ潔いわね。
そしてお医者様は素知らぬ風を装い窓の外を眺めているから、きっとあれは聞かない振りをするぞと言うアピールだろう。
悩んだ末にシリルは「じゃあ」と話し始めた。あの日の宣言通り、本当にたわいもない話だったが、お互いを知るには良い時間だったと思った。
ずっと話していたし、乗り合い馬車よりも高価な馬車なので当然揺れは少ない。クッションもお高いしお陰様で疲労もそれほどでもない。事あるごとに街に立ち寄った乗合馬車の方が休憩の回数が多いのになんと理不尽なことだろうか。
でも窮屈なドレスとお花摘みの不便さを加えると……
あら。どっちもどっちね。
馬車は夕刻になる頃に最寄りの街に立ち寄る。
わたしたちは婚約者同士の関係であるが、シリルはその線引きはしっかりするタイプの様で、言うまでもなく宿屋は別室だった。
借りて貰った部屋は、わたしが泊まって良いのかってくらい広く、もっと狭い方が色々な意味で落ち着くのにな~と乾いた笑いが漏れた。
そう、色々な意味でね。
最近やたらと自分の思考がマイナスの方向へ陥ることに気付いていた。
契約による婚約者のフリだと思っていた頃、わたしは夜会に出席して、しつこいと言う相手の令嬢をやり込めれば役に立てると楽観的に思っていた。
そう言う契約だったし、二人でそう取り決めもしたから、それが対等な事であると
しかし自分が本物の婚約者だと判ったいま、わたしにその価値があるのかと、自問することが多くなった。
いつも出る答えは同じで〝ない〟だ。
とっくに貴族としての生活を捨たわたしが持っている価値は、すでに平民としての物である。貴族としてはきっと皆無だ。
往きの乗合馬車では、所持金に不安があり食事を抜いたこともしばしばあった。一回の食事を二回に分けて食べる事に気付いたときは、わたしって天才かもと歓喜した。
立ち寄った街で一緒に乗車していた他の平民らが、休憩を取る為に入った軽食店。それを眠ったフリをして何度やり過ごしたことか……
どれもこれも公爵夫人にはまったく縁のない経験だろう。
そんなわたしが将来は公爵夫人になる?
なにを馬鹿な事を……、わたしは貴族としてのわたしを信じない。
ああ嫌だ。
馬車に始まり、移動中の飲食に宿屋まで。すべてが別世界の事かと思うほどの贅沢ぶりで、まさに至れり尽くせりの旅だ。
これほど過剰に頂いてもわたしには何も返せる物が無いと言うのに。シリルもシリルだ、わたしのどこにこれほどの価値があると言うのだろうか。
いったい、わたしはどこでシリルを
ズクンズクンと胃が痛み、今日も思考が暗くなっていく。
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