☆水平線も夢うつつも大きく括ればどちらも朧なもの

 かなり本格的に痛みだした偏頭痛に顔を歪めるエムと彼の傍らに寄り添うエス。

 心配そうな表情を浮かべながらも、冷たく濡らしたタオルをエムの額にあてる。


「ごめんね。俺が嫌がるエムを無理矢理に連れてきちゃったから……」


 尻尾を垂らした犬のように、しょんぼりと肩を落とすエスを、薄く開かれたエムの瞳が捉える。


「……海開きの日に海に来るのは、毎年恒例のことで、お前が私を無理矢理引っ張り回すのも毎度のことだろう。今更何をしおらしいことを言っているんだ。お前はそんな殊勝な性格ではないだろう。それより、海に来てまで、勝手に体調を崩した私を責めても、誰にも罰は当てられんと思うぞ」


「エムは何も悪くないでしょう?体調を崩すのは責められることじゃないし、一番辛いのは体調を崩している本人なんだから。俺がわがまま言ったせいでごめんね」


「……言葉を返すなら、体調を崩すことを予知することは本人にも困難な場合がほとんどだ。体調を崩すことなど知らず、恒例行事を誘うことは責められることではないし、一番辛いのは自身のわがままのせいで相手が体調を崩したと嘆くお前だろう。お前にそんなふうにしおらしくされると、調子が狂う」


「ふふふ、エムは優しいね」


「……甘やかし過ぎたか?犬を調教するなら飴と鞭が肝要だな。あとでしっかり体に教え込んでやる」


「ずっと優しくていいんだよ!?もう!エムのいじわるぅ!」


 頬を膨らませたエスの顔を見たエムは、いつものアホ面だ、と喉を鳴らして小さく笑った。



 数十分ほど経って、エムの偏頭痛も痛み止めが効いたのか、だいぶ落ち着いた。

 体を起こせるようになったので、エムも、もう冷めてしまった屋台の料理をエスと食べ始めた。


「……おい。私は自分で食べれる」


「ダメ。まだ具合悪いでしょ?はい、あーん」


 訂正しよう。

 体を起こせるようになったので、エムは、もう冷めてしまった屋台の料理をエスに食べさせてもらっている。

 エムは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて拒んだが、それをエスは受け入れない。

 ぴしゃりと言い返されてエムはさらに眉を顰めたが、問答無用とばかりに小さく切り分けられた料理を口元に近づけてくるので、口元を汚すことを良しとしないエムは致し方なく口を開く。

 まるで親鳥に食事をもらう雛鳥になったかのようで、エムは居心地が悪かったが、対照的にエスは楽しげだ。


「美味しい?冷めちゃったよね。新しく買ってこようか?」


「いい。熱すぎても食べるのに手間になる。ここにいろ」


 愛想などまるでなく、ただ簡潔に紡がれた自身の言葉に、蕩けるように嬉しそうに甘く微笑むエスをみつめて、エムは心の内だけでため息を吐く。


 本来なら、温かい料理は温かい状態で食べたいエムであったが、今、この状態のエスを野放しにすることは、いいことにならない気がした。

 この状態のエス、と言っても、人の良さそうな微笑みも、自身に向ける優しい言葉も、情けないアホ面も、いつもとは何一つ変わらないのだけれど。

 それでも、エムには今のエスは、なぜか少々危うげに感じた。

 今、きちんと手綱を掴んで置かないと、後でのちのち、面倒なことになる予感がしていた。

 そしてその予感は半分正しく、半分は不正解だった。

 おそらくエスの手綱を掴んでおけるのはエムだけであり、今掴んで置かなければならないのは正解。

 そして、今のエスを野放しにしてはいけないことは大正解。

 しかし、少々危うげだと及第点。

 なぜなら、今のエスは少々どころか災害級の危うさだからだ。

 そして、後でのちのち、面倒なことになる、は不正解。

 危ういエスが、のちのち災害級の被害をもたらしたところで、それはエムの耳に入るような下手へたは踏まない。

 そして、エムの思うエスの危うさはまったく種類が違う、完全に不正解。

 エムは、エスがエス自身を傷つけるような危うさを心配をしているが、先ほどエム自身で言葉にしたようにエスはそんな殊勝な男ではない。

 エムのためなら、エムを想う自身の感情のためなら、たしかに自身を傷つけることもいとわないだろうが、それ以上に、他者を殺めることすら何とも思わない。

 しかし、高貴な貴族の生まれで、品格と礼節、何よりも家の名の誇りを重んじるエムには、庶民育ちで金もなく、たいした教育を受けられずがくも知識もなく、脆弱ぜいじゃくで無力であるエスがそのような男であるなど到底思わない。

 このことばかりはエスのことを悪意を持って卑下しているわけでも、貶しているわけでもなく、本当にそう思っている。

 庶民である国民は脆弱で無力であるゆえに守られる存在、高貴な貴族は知識と力を振るい、国をまとめ、その庶民の見本でなければならない。

 だから守られるべき庶民育ちのエスは何も知らず、無力で、何もできないため、自身がきちんと引っ張っていかなくてはならない存在。

 飼い主がきちんとしていないため、自身がリーダーにならなくてはいけないと考えてしまう飼い犬のようだが、エムは本気でそう思っている。

 だからエスが狂気に満ちていて、災害級の被害をもたらす人間なのだという考えにも至らない。

 しかしエムは、エスのことを見誤りながらも、導き出した答えである、エスの手綱をしっかり掴むという正しい選択を選んだ。

 結果、エムの予感は不正解ながらに正しい平和的な未来に誘導したと言える。


――面倒事は御免だからな。


 にこにこと楽しげに口元に寄せてくるエスのフォークから、料理を齧り取りながら、エムは吐き捨てるようにそう思った。


 エムが食べやすいように料理を小さく切り分けながらエスが徐ろに口を開いた。


「そういえば、さっき、なんでこの海じゃなきゃダメなんだって話になったじゃない?」


「あぁ、屋台の有無の他に何か理由があるのか?……おい、その串に刺さっているパプリカは切らんでいい」


 何気なくエスの手元を見ながら話を聞いていたエムが、忌々しそうに自身があまり好まない野菜を睨めつけながら訴える。


「わかってるよ。このパプリカは後で俺が食べるから大丈夫」


 それなりに長い付き合いの二人は、それなりに相手の好みは把握している。

 エスは器用に串からまずパプリカだけを外し、横にずらして置いた。

 そして、他の食材はエムが食べやすいように小さく切っていく。

 そのまま、先ほどの話の続きをエスが語る。


「この海……思い出の場所なんだよね」


「思い出?」


「そう。大切な人との出逢いの場所なんだ」


 少し面映そうに語るエスの表情を見て、途端にエムの表情は忌々しそうに歪み、眉を顰め目を細くして、嘲笑うように鼻を鳴らしてから言った。


「……なるほどな。城から近いだけで、こんな何の変哲もない、辺鄙な海に来たがるのには何か理由があると思っていたが、そういうことか。大切な人との出逢いなどと……そんなお前の勝手な都合に私は巻き込まれていたわけだな」


 感情の読めない冷たい言葉をぶつけられたエスは切り分ける手を止めた。

 エムの冷たい言葉に胸を引き絞られる心地で、悲哀の表情を浮かべながら、顔をあげる。

 その時、はじめてエスはこんな表情のエムを見た。

 こんなにも忌々しげに目を細め、悔しげに唇を噛み、苦しげに眉を寄せているエムの顔を。

 瞬間的にエスは目を見開き、それから少し戸惑うように目をそらし、深く考え込む仕草の後、何かを察したかのように息を呑んだ。

 そしてもう一度しっかりとエムをみつめる。

 忌々しそうに顔を歪める不機嫌になったエムの表情を、しっかりと目に焼き付けるように。

 そしてその表情の真意がわかった。

 その瞬間、エスは悲哀の表情から一変、甘い香りが漂ってきそうなほどに、花が綻ぶような笑みを浮かべた。

 エスはエムの顔を見た瞬間、悟ったのだ。

 気高く美しいエムの高潔で清らかな心が、自身への想いにより乱れていることを。

 そして自身の行動や存在が、気高いエムの心を掻き乱し、美しい表情を曇らせ、高潔な魂を堕落させることができるのだと。

 エムに傷ついてほしくないのも、エムが笑っていてほしいのも、エスの嘘偽りのない本心だ。

 けれど、自身によって掻き乱されるエムの姿があまりに哀れで愛らしい、そして、それ以上に狂おしいほどに愛おしい。

 エスの本性と性癖が捻じ曲がりながら、混ざり合い、隠しきれない快楽と恍惚が彼の胸を震わせる。

 狂気を孕んだ執着を抱くエスから惜しみないほどの愛を与えられて、彼に溺愛されたエムは自身でも気づかぬほどに心を縛られて、高潔な心は嫉妬と独占欲に身を焦がした。

 そのことを悟ったエスは花が綻ぶ笑顔を浮かべるその心の内で、歪に微笑む。

 

――エムが忘れちゃっていたのは悲しかったけど、許してあげる。だって……今の俺を必要としてくれているから。こんなにも俺を求めてくれている。俺が言った大切な人との出逢いの場所のこと、エム以外の他者のことだと思っているんだよね?エムは頭いいのにバカだね。俺の大切な人がエム以外であるわけないのに。それを教えてあげれば、エムは安心するよね。でもね、エムが不機嫌でも、そのヤキモチと俺を独り占めしたがるその表情が、俺、すごく好きだな。だから……


「ごめんね」


「……何がだ?」


「えっと……エムが不機嫌そうだったから、気分悪くさせちゃったと思って」


「お前は不愉快なほどヘラヘラしているな。腹立たしい限りだ。見ていると不愉快になるっ……」


 エムはまるで苦虫を噛み潰したような、そんな忌々しそうな表情で、吐き捨てるように言い放つ。


「なら、この顔を潰す?」


 事も無げにそう返したエスの言葉に、エムは思考が一瞬止まり、聞き返すことしかできなかった。


「……は?」


「いいよ。焼きごてでも持ってきて、ぐちゃぐちゃにしちゃっても。目のところさえ残しておいてくれたら、戦いにも支障ないし。エムのためなら喜んで!でも、その代わり、この顔を壊すのはエム自身でやってね?自分でやるのは怖いし、他の人には絶対やらせないから」


 にこにこと楽しげな声音で一人、勝手に話を進めていくエスについていけず、エムは小さく言葉を返すだけ。


「おい……」


「俺の顔も躰も未来もエムのためにあるんだ。俺の全てはエムの物なんだよ?」


 止まらないエスの不可解な発言に、エムは、なんとか自身の中で言葉をまとめて訴える。


「お前さっきからおかしいぞ……?」


 エムの絞り出した言葉に、エスは、にこやかに答える。


「だって、俺は馬鹿で世間知らずでエムがいないと何もできないから、せめて俺の全部はエムの物でいようと思って」


「それは、殊勝な心がけだとは思うが……」


「そうでしょう?……そうだ!エム!もし、俺の顔がぐちゃぐちゃのズタズタのボロボロになっちゃっても、エムは一緒にいてね?きっと、俺の顔が壊れちゃったら、もう誰も俺の傍には近づいてきてくれないと思うんだ。でも、独りは寂しいから、エムだけは責任持って傍にいてね?」


 その言葉はエムにとってなぜか、とても魅力的に思えた。

 それはまるで疲れ果てた蝶が、甘く香る蜜に誘われ、その羽を休め、その蜜を吸うことができる花を見つけた瞬間のように。

 花笑みを浮かべ、軽やかな声音で耳をくすぐるエスのその囁きは、エムの耳と心には、とても甘く柔らかく耐え難いほどの睦言むつごとのように感じた。


「……エスに誰も近づかない……?私だけがお前の傍に……いる?」


 魔導師であるエムに、抵抗しない相手の顔を焼くなど造作ぞうさないことだ。

 エムが短く詠唱すれば、簡単に火の魔法を繰り出され、エムの手元で小さな火がゆらゆらと揺れる。

 そして腹立たしいほどに恍惚に微笑むエスにゆっくり近づき、彼の頰にその手を伸ばす。

 エスが火に目が焼かれないようにゆっくり目を瞑った時、その熱気はパタリと消えた。

 自身を焼く火の感触を感じないエスは不思議に思い目を開くと、目の前には、エムの顔があった。

 眉を寄せて、目を細めて、固く結ばれた唇。

 その表情は困ったような、悲しげなような、苦しげなような、泣き出してしまいそうな、そんな顔。

 火が消えてしまったエムの手は、そのままエスの頰に触れる。

 先ほどまで火が揺らめいていたとは思えないほどに冷たくて心地よい。

 エスは、犬が懐いてくるように、その手に頬をこすりつけた。


「私の隣に立っているのが顔が壊れたお前では、見栄えと心象が悪い」


「そっかぁ。エムのためにならないならダメだね」


「顔なんぞ焼かずとも、お前が私の傍から離れることはないだろうしな」


「それはもちろん!俺はエムのものだからね!」


「こんなバカ犬はいらんがな。まったく勝手に押しつけられていい迷惑だ。こんな重苦しい男」


「ひどいよ!言い方がひどすぎるぅ!あんまりイジメがひどいと、このパプリカ口移しで食べさせちゃうからっ!」


「おい、絶対やめろよ!?」 


 二人のいつもと変わらないやりとりが戻ってきたと同時に、周りの人たちが歓声をあげる。

 その声に誘われるように見れば、遠い海の先、水平線に割れた夕日が、水面に映り、揺らめきながらも美しい円を作っていた。

 思いもしなかった美しい光景に、エスは嬉しそうにエムの手を握り、エムは顔をしかめたが、その手を振り払うことはなかった。


 砂を浚う波が砂浜と海の境目を掻き消すように、遠くに伸びる水平線が海と空の境目を描くように、善と悪、友情と恋情、正義と偽善、普通と異常、聖人と狂人、何もかも正反対で、はっきり分かれているようで、そのじつ、混じり合って境目などわからない。







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