☆疑念も不安も大きく括ればどちらも骨折り損のくたびれ儲け

 夜も更け、食事も明日の準備も終えたエスは、もうそろそろ眠ろうかと思っていた頃。


――コンコンッ……。


 こんな夜分に、少々躊躇いがちに叩かれた部屋のノックの音に、少し訝しそうに小首を傾げながらドアを開ける。

 そして開けた扉の先にいた人物に驚き、エスは素っ頓狂な声を上げてその人物の名を呼んだ。


「はーい……ってエムっ!?びっくりしたー、来てくれるなんて思ってなかったから……嬉しい!けどこんな時間にどうしたの!?」


「いや、たいした用じゃないのだが……」


「そう?でもほら、入って入って!」


 気まずそうに呟くエムに、エスは殊更に明るい声で自室に招き入れる。

 その時、触れたエムの手が思ったよりも冷たくてエスは、肌が冷えるほどのそう短くない時間、自身の部屋の前でノックをしようか否か迷っていたことを悟った。

 エムを招き入れ椅子に座らせると、エスは温かい紅茶を、珍しく所在無げに座る彼の前に置いた。


「この紅茶ねぇ、最近流行りのものなんだって!この間初めて買ってね、エムと一緒に飲みたいと思ってたんだぁ!」


「……」


「あとね、このお茶に合うって話題のクッキーも買ってお……」


「悪かった……」


 エスの言葉を遮るように、意を決したように小さく呟かれたエムの謝罪。

 エスは、少しだけ目を見開いた後、困ったように優しく微笑んでから、大仰に驚いた素振りで言葉を返した。


「どうしたの急に!?エムが謝ってくるなんて、熱でもあるの!?また頭悪いの!?」


「喧しいっ!!本当にお前は物覚えが悪い男だなっ!その誤解を生むような言い方はやめろと言っているだろう!」


「だってぇ、急にエムがらしくないことするからびっくりしちゃって……」


「黙れ。お前の愚かさを私のせいにするな……ちがう、このようなことを言いに来たのではない。私がここに来たのは……ただ、あんなろくでなしどもの思い通りに、お前と私が仲違いするなど、くだらないことこの上ないし、気に食わなかっただけだ」


「……本当だ!本当にそうだねっ!俺もそう思う!俺もごめんね……意地張っちゃって」


「あぁ、お前の性格を考慮すれば、お前が意固地になることくらい、容易に見当がついたというのに。私も少し、平静ではなかったからな……では、用件は済んだからな。私は部屋に戻る」


 ティーカップをソーサーの上に置いたエムが、ゆっくりと立ち上がり、自室に戻ろうとした。


――パシッ……!


 部屋から立ち去ろうとするエムの手を、何も言わないままエスは掴んだ。

 エムはその手を振り払うことはなく、俯いたままのエスを、ただじっとみつめた。


「待って……えっと、ほら、もう少しおしゃべりしようよ!」


「出向いた私が言うことではないが、今何時だと思っているんだ?明日の訓練に差し支えるだろう」


「明日の朝もちゃんと起きるから!訓練も頑張るし、迷惑もかけないから!」


「……私の用件は済んだと言っただろう。こんな時間に、ここにいる理由はない。朝きちんと起きて訓練に励むのは当然のことだし、お前が私に迷惑をかけないということもありえないからな?」


「……俺、今日、エムに言われた言葉……すっごい傷ついた……」


 突然のエスが発した言葉に、エムは胸を突かれた心地になる。


「うっ……いや、だから、それは……互いに謝罪をしただろ……」


 罪悪感のせいか、途切れがちになる言葉でなんとか言い返す。

 その言葉が言い切る前に、エスが首を横に振りながら、言葉を返す。


「謝ったから、喧嘩については仲直りしたし、いいんだけど、それで言葉で傷ついた所が治るかは違うでしょ?」


「……」


 再びエスにしては的を得た言葉に、エムはぐうの音もでず、押し黙る。


「エム、ここに座って?」


 エスの紡いだ言葉に、エムは一瞬の逡巡を見せた。

 その後、何か言い返そうと言葉を探すが、それは一向にみつからず、エムの薄く開いた唇は声もなく僅かに揺れただけだった。

 そして、負けたと言わんばかりに、大仰にため息を吐いて、一言だけ返す。


「……わかった」


 そうして結果、椅子に座りなおしただけのエムをみつめて、エスは満足そうに微笑んだ。

 その笑みは妖艶に、恍惚に震えて見えた。


「紅茶はもう飽きちゃったよね。そうだ!美味しいお酒を手に入れたんだ!呑もう!」


「酒っ!?……あのなぁ、お前、本当に明日起きれなくなるぞ?」


「俺は起きれるよ!あさよわいのはエムの方じゃん!」


「……バカ言うな。私が朝弱いのは、低血圧のせいで目が覚めてはいる。頭痛持ちだから、起き上がるまでに時間を要するだけだ」


「つまり、弱いってことじゃない?あれ?エムってお酒も弱かったっけ?」


 ピキッとエムのこめかみに血管が浮かび上がる。

 エムは口角を上げて、エスに言った。


「……よし、いいだろう。酒を持ってこい。酔い潰して、お前のその言葉、後悔させてやるからな」


 唇は弧を描いているが、目が座っているところを見ると、エムはかなりご立腹のようだ。

 エスはそれに気づいているのか、いないのか、エムの言葉に嬉しそうに、酒を取りに行く。

 お酒をグラスに注ぎながら、エスは静かな口調で言った。


「エム。よく覚えておいて。俺はいついかなる時、何があっても、どんな不利な状況でも、エムの敵にだけはならない。エムのことを本当に大事に想っているのは俺だよ?これだけは覚えておいてほしい」


「……そうか。そうだな。お前は、私を出し抜こうとすることも、引きずり落とそうすることも、できやしない男だったな……。あんな人間の言葉を安易に信じてしまうなどと、私もどうかしていた」


 エムが誰のことを言っているのか、エスにはわからなかった。

 ただエムのその口ぶりから、誰かに嘘偽うそいつわりをそそのかされたのは明白だった。

 エスがエムにグラスを差し出す。

 エムがそのグラスを持った瞬間、彼の手の上から、エスの大きな手が添えられる。

 そして、エムの目をまっすぐ見据えたエスは、柔らかな口調に反して、氷のように冷たく固い声音で言葉を放つ。


「俺にはエムだけ。エムのことだけを想ってる。だから……他者の言葉を俺の言葉より優先させたり、他者の口車のせいで、俺の言葉を疑ったりしたら」


 エスの形の良い瞳にエムが映る。

 その瞳が強くまっすぐにエムを射る。


「ダメだよ……?」


 いつもと同じように穏やかな口調だが、心を意識ごと貫かれそうなほどに強いエスのまっすぐな言葉に、エムは返す言葉を持たない。

 ただ、エスの自身をみつめるその鋭い眼差しに、エムの胸は抗う間もなく、熱く鼓動を早める。

 何も言えないまま、静かにエムは頷いた。



 酒を酌み交わして、どれほど経っただろう。

 エスの部屋の大きな窓は、まだ深い夜を映しているから、そこまでの時間は経過していないだろう。


――頃合いかな……。


 エスは、少し顔を赤らめたエムの酔い加減を見計らって、徐ろに尋ねてみる。


「ねぇー?エムゥ?ほらぁ……あの日記にぃ、書いてたさぁ、俺がエムにイジワルしてるってぇ、何で思ったのぉ?」


 酒に酔っているように振る舞ったみせた。

 正直、エスはこの程度では全く酔わない。

 それでもエスが酔ったフリをしたのは、そうすれば高貴で気高く弱みを見せたがらないエムが答えやすいと知っているからだった。


「……あぁ、今回の人事で私の下に、あの田舎の貴族が来たことに不信感があってな。調べている途中で大臣に、お前から聞いたとその話をされた。お前が、私を引きずり落とそうとしているとか、踏み台にしようとしているとか、私より……あの田舎の貴族の方が……良いとか……あぁ、くだらんな」


 先ほどエムが言っていたあんな人間とは大臣のことだったのか、とエスは先日の緊急で開かれた会議を思い出しながら、心の内だけで舌打ちをする。

 そして、そんな事を考えていることなどおくびにも出さずに、自嘲気味に薄く微笑んだエムを、エスは包み込むように抱きしめた。


「この俺がぁ、そんな事を思うわけ……ヒック、ないだろぉ!!俺にはエムだけぇ!だよぉー!」


「あぁ、もうわかった。わかったから、絡むな」


 ツタのように絡みつくエスに、エムは少し柔らかい声音でそう言いながら、抱きつく彼の髪を撫でる。

 普段は少し硬い髪質なのに、洗ってあまり時間が経っていないせいなのか、いつもより柔らかく感じるその髪の心地が良くて、何度も撫でる。

 擽ったそうに頬を擦り付けるエスに、エムは柔らかく微笑んで、まだ波々と酒が揺れるグラスに口をつけた。


「でも、珍しいねぇ?エムがぁ、そんな奴のこと信じちゃうなんてぇ……何か悩みでもぉ、あった?」


「……あぁ。あった……でも、それは……言いたくないな」


 そう言ったまま、口を噤んでしまったエムに、エスは満面の笑みで言った。


「そっかぁ。じゃあ、聞かないっ!」


「あぁ。悪いな……」


 そう言ったエムは、手に持ったグラスで揺れる酒を一気に呷って、呑み干した。

 それが効いたのか、エムはすぐに酔い潰れてしまった。

 この飲み比べは本来ならエムの負けだが、エムはすでにエスが酔い潰れていると思っているため、エムは自身の勝ちを疑わないだろう。

 エスもそれで良いと思った。

 飲み比べの勝ち負けなんて、どうでもいい。

 エムともっと一緒いたかっただけ。

 エムに話を聞きたかっただけ。

 エムのことを傷つけた人間を知りたかっただけ。

 その大半は叶えられた。

 本来なら、エムが何に悩んでいたのかも洗いざらい聞きたかったが、それは今でなくてもいい。

 また追々でいいだろう、とエスは酔い潰れてしまったエムを自分のベッドに寝かせる。


「まったく……無防備なんだから……」


 気持ちよさそうに眠るエムの頬をツンっとつつきながら、蕩けそうなほど甘く微笑んだ。

 エムに布団をかけようとした時、寝返りを打った彼の懐から、カサリ……と何かが落ちた。

 エスがそれを拾い上げてみると、それは城からの通達が書かれた紙だった。


「これで悩んでたのか……」


 そう誰にも聞こえないほど小さく呟いたエスは、エムの懐に差し入れて、見なかったフリをする。


――あの方も馬鹿じゃないから、こんなことにはならないだろうけど……不安になっちゃったんだね。あの大臣たちのせいで、エムが不安になるのは良くないね。でも……エムを陥れようとしたのはどれかなぁ?エム、あいつら全員に嫌われてるから、どれかわかんないなぁ。全員、殺せばいいかなぁ……?


「うぅんっ……エスゥ?」


 寝ぼけたエムがエスの腕に手を伸ばす。

 そのエムを愛おしそうにみつめて、エスはその唇にゆっくりと甘いくちづけをした。


「俺のつがいはエムだけ……エムだけだよ……」


 エスの指先が、深い眠りの中に沈むエムの胸元を掴むように触れる。

 そのエスの指先によって、エムは弾かれたように身体を浮かせる。

 エスの指先とエムの動きによって、エムの懐で音がした。

 エムの降格やエムの称号の剥奪の恐れがある、と雑な言葉で書かれたエムを苛む紙が、グシャリと悲鳴を上げた。




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