☆海水浴も遠泳訓練も大きく括ればどちらもアバンチュール

 海開きの日。

 待ちに待った日に浮かれるエスに引っ張られて、嫌々いやいやエムも城からほど近い海に連れてこられた。

 海に着いたやいなや、エムに思いきり頭を叩かれたエス。

 不機嫌度MAXのエム、頭を押さえながら抗議の目を向けるエス。

 この光景も風物詩の如く、毎年飽きることなく、例年変わることない二人のやりとりだ。


「毎年毎年、代わり映えのしない海なんぞに連れてきて……暑いだけで時間の無駄だ!」


「だって海で遊ぶの楽しいじゃん!海近くには屋台も出てて美味しいご飯もあるし、海に入って遊べば暑さも吹っ飛ぶよ!」


 満面の笑みでニカッと笑うエスの笑顔を見たエムの額には太い血管が浮かぶ。

 そしてその後すぐに、ドゴッ!!という音とともにエスが砂浜に少しだけ埋まった。

 辺りの鳥たちが音に驚いて飛び立つほど大きな音をたてた張本人は、先ほどの満面の笑みから一変、悲しげな表情で自身を見るエスを一瞥してから、涼しい顔をして、その場を立ち去る。


「エムぅ!砂浜に大きな穴開けちゃダメじゃん!誰かが落ちる前に後で魔法で塞いでおいてよ?」


「お前が私を怒らせるからだろ?責任持って、お前が対処しろ。お前がずっと埋まっておくか、お前が土で埋めておけ」


「それ、答え一つしかない選択肢せんたくしじゃん!せっかく涼むために海に来たのにエムのせいで、めっちゃ汗かくぅ!」


 そう大声で文句を訴えながらも、エスの強い力によって砂は、みるみる間に穴の近くに寄せられ、あっという間に穴は塞がれた。


「お前、ほぼ化け物だな……」


「え?なんで?」


「私の場合、魔術を学び、魔法によって力を振るうゆえ、私自身に筋肉や人間離れした怪力はない。それに対してお前は生身で人間離れの怪力を振るう。これが化け物ではないなら、何を化け物というのか。魔物に間違えられるなよ、怪力ゴリラ」


「えぇ?俺ってそんなに強いかなぁ?っていうか、珍しく褒めてくれてる?」


 エムが自身の言葉を思い返してみても、エスを褒めてる要素などどこにもなかった。

 しかし、不本意ではあるが、ものすごく喜んでいるエスを一瞥してから、肌に刺すような陽射しと暑さに負けて、肯定するようにエムは雑に頷いた。


「……まぁ、ここで褒めてないと言うとゴリラに申し訳ないからな。褒めてる褒めてる」


「わぁーい!……ゴリラに申し訳ないって何?」


 エスの問いかけを聞こえないフリで無視して、エムは話をすり替えるように砂浜の一角に置かれた自身たちの荷物を指しながら言った。


「ほら、私は疲れた。早くパラソルを開け。私の座るイスを用意しろ。でないと、帰るぞ」


「あ、ごめんね、ちょっと待っててぇ!すぐ用意しちゃうからぁ!」


 エムの言葉に素直なエスは、自身の問いかけのことなど忘れ、慌てて荷物を取り出して、砂浜の上に用意した。


「それにしても、なんで毎年わざわざこの海に来るんだ?人が多くてわずらわしいし雑多ざった喧騒けんそううるさい。ただ海に来たいだけなら来年から私のプライベートビーチにしろ」


「エムのプライベートビーチ、屋台ないじゃん」


「必要ならそれくらい私の従者に作らせる。が、料理ならお前が弁当作ればいいだろ?」


「お弁当かぁ。作るのは全然いいんだけど、夏場は暑いからいたみやすいんだよなぁ……」


「そんなの、そこらの屋台だって同じだろ。同じ条件なら、信用できない屋台よりお前が作った料理の方がマシだ。弁当が無理ならお前がその場で作れ」


「素人とプロの違いはあると思うけど……えへへ、そう言ってもらえると作り甲斐がいがあるよ。わかった。エムのプライベートビーチに行った時は俺が作るね」


 エスの言葉に満足そうに微笑んだエムは、嘲るように、海に群がる人混みをみつめて鼻で笑った。


「ふん。なら、今日でこの海とはお別れだな」


「なんで?」


 きょとんとした表情と声音で問いかけるエスに、エムは何か嫌な予感がした。


「なんで?って……お前、今、私のプライベートビーチに行くという話してただろ!?」


「うん。だから、エムのプライベートビーチにも行くよ?」


 にこやかに答えるエスの言葉を、エムは恐る恐る復唱してみる。


「プライベートビーチにも……にも?」


「うん!おでかけする場所が増えて嬉しいなぁ!」


 満面の笑みで用意をしているエスをみつめたままのエムは、口をパクパクとするだけで言葉がでてこない。

 自身で自身の首を絞めたような展開に、今更後悔しても時すでに遅し。

 エスが用意してくれたデッキチェアに、エムは項垂うなだれるように腰を下ろした。

 元気に屋台に向かったエスについていく気力すらもなくなったエムは、自身の発言への激しい後悔とわずかに主張し始めた偏頭痛の予兆に襲われながら、頭を押さえてデッキチェアの背もたれに体を預けた。



 ひたいに自身の手の甲を当てて、静かに目を瞑っていたエムに、人影が足音とともに近寄ってきた。

 目を瞑っていただけで眠っているわけでないエムは、閉じられた瞼ごしでもわかる陽射しが遮られ、眉を顰めた。

 瞬間的にエスが帰ってきたのだと思った。

 しかし、そう思ったのは一瞬のことで、すぐに近寄ってきた人物がエスではないと悟った。

 エスならばもっと喧しく、このように項垂れる自身を見たら、こちらを気遣ってあれやこれや言ってくるだろう。

 そしてなにより、足音が違う。

 いくらエスのことを毎日のように、品の欠片さえない庶民生まれの怪力ゴリラと小馬鹿にしていても、このように乱雑で野蛮な足音をたてるような足運びではないとエムは知っている。

 これはエスではない。

 そしてこちらに対して、何か悪意をはらんで近づいてきている。

 それすらわかってはいたエムだったが、動こうとはしなかった。

 暑さと陽射し、そして偏頭痛の予兆がエムが動くことを躊躇ちゅうちょさせていた。

 今、動いたらその予兆は完全に形になる。

 強めの痛みを引き連れた偏頭痛になってしまうことを恐れたエムは、相手がこちらに対して行動しなければ見逃すことにした。


――何者かは知らんが、こっちに歯向かってきてくれるなよ……?


 しかし、エムのその願いむなしく、相手の腕がぐったりとしているエムに向かって伸ばされた。

 その瞬間、エムは目を開き、その手を払おうと勢いよく手を振りかぶった。

 しかし、エムの手は一切の衝撃も感じることもなく、空を切る。

 その一瞬、全ての音が遠ざかり、目の前の光景に全ての機能を奪われたような感覚に陥った。

 詠唱のために薄く開かれた口は開いたまま動きを失い、まばたきすら忘れて開かれたままの瞳孔。

 まるで束縛の魔法でもかけられたかのように動けず、思考すらもままならない。

 エムには、ただ目の前の光景をみつめていることしかできなかった。


「ねぇ、エムに何か用?君は誰?エムに近づいて何しようとしてた?エムに触れようとしてた?」


 エムの目の前にはエスの大きな背中。

 そのエスの腕は軽く上に上げられていて、その腕の先には彼の片手に鷲掴みにされた男の首がひねり上げられ、苦しげに身をよじっていた。

 そんな男のことなど意にも介さず、エスはただ淡々と問いかける。


「ねぇ、質問に答えてくれない?死にたいの?あ、それとも、もうエムに触れた?なら、まず、その手を切り落とさなくちゃね」


 男は、自身を軽々と持ち上げるエスの手からなんとか逃れようと身を捩らせるが、力の差は圧倒的。なすがままにされるしかない男は、怯えた声を漏らしながら否定の意味を込めて体ごと横に揺らす。

 けれど、その姿すら、エスには命乞いからくる偽りに思えて、彼の冷え切った心には響かない。

 今のエスには何一つ届かない。

 エスはいつもと変わらない人の良さそうな微笑みのまま、たった今屋台から買ってきた料理についてきたナイフを掴むと男の腕を目がけて振り落とす。


「エスっ!!」


 今のエスには何一つ届かない。

 ただ一つ、狂気が孕むほどに愛してやまない愛おしい男の声一つ以外は。

 エスの動きがピタリと止まる。

 エスがナイフを振り落とす直前、魔法にかけられたような束縛から自身を解いたエムは、エスに向かってその名を叫んだ。

 そのことにより、男の腕にナイフの切っ先が触れるほど近い場所で止められたエスの腕はそれ以上、先に進むことも、後ろに退くこともなく、石のように動かない。

 動かないエスをみつめて、エムはもう一度、彼の名を呼び、飼い犬に指示を出す飼い主のように、静かに、しかし凛とした声で彼の動きを制御した。


「エス……やめろ」


「……」


「それを離せ」


 何も言わず動かないエスに向かって、言葉を変えてもう一度命令したエムはじっとエスをみつめた。

 エムの命令に、エスは首を横に振る。

 乾いていたことにすら気づかなかった喉がひっかかりながら、エスは悲痛な声を静かに漏らす。


「……ぃやだ。これはエムに触れようとした。何か危害を加えようとしたかもしれない」


 エスの意識が自身に向いたことを察したエムはもう一度、同じ命令を告げる。

 苦しげに首を横に振るエスを安心させるように、自身が置かれた現状を添えて。


「それを離せ。私は、触れられてもいない。お前が来たから無傷だ」


「無傷かどうかだけじゃないよ。エムに触れようとした。それだけで俺はこれを許せない。エムを穢そうとしたっ!!」


 安心させるために告げた言葉を跳ね返されて、エムは少々顔をしかめてから、ため息を吐く。

 そして、違う理由も添えて、もう一度エスを言葉で呼び寄せようと試みる。


「私は頭が痛いんだ。心配する気があるなら、こちらに来て、私の看病をしろ。その時に無傷であること、私が穢れていないことを確認してみろ」


「……っでも!それでもっ!これを壊さないと気がすまない。また来るかもしれない!」


 自身に向けられたエムの言葉と自身を埋め尽くす憤り、自身から湧き上がるエムへの心配で、次の行動の選択に惑うエスにエムは短く言葉を告げた。

 それは助け舟であり、追い打ちであり、鶴の一声であり、とどめを刺した言葉だった。


「……その時にはお前がまた守れ。二度は言わん。こちらに来い、エス」


 顔だけをエムに向けたエスの目元には薄く涙が滲んでいて、逡巡しゅんじゅんすることもなく、男を投げ捨てるように手から放し、自身の飼い主のもとに駆け寄った。

 そして、大型犬さながらにエムの体に飛びつき、彼に覆いかぶさる。

 自身より逞しいエスに抱きつかれたエムは、バランスを崩し、起こしていた上体は押し倒されるようにデッキチェアの背もたれに戻された。


「痛い……だろうがっ!!」


「頭?頭痛い?また頭悪いの?」


「言い方を正せと言っているだろうっ!その言い方だと誤解を生むんだっ!」


「えっと、言い方……大丈夫?頭悪い?」


「そっちを残すなっ!」


 投げ捨てられた男のことなど忘れたかのように、繰り広げられる二人のいつものやりとり。

 男は恐れから喉をか細く鳴らしながら、腰が抜けて力の入らない膝や腕にむちを打ち、その場から命からがら逃げ出した。

 男のいた場所、コロリと小瓶がわずかに転がる。

 それは、エスに投げ捨てられた時に男のポケットから落ちた液体が入った一つの小さな小瓶だった。

 そのとても小さい小瓶の中身が、卑劣ひれつ賤劣せんれつきわみの如く違法な薬物であったことは、持ち主であったその男しか知る由もないことだった。

 犬の如き忠誠心と警戒心が強く、目敏いエスの目に留まるまでは。


――こんな薬一つ使わないと何もできない雑魚野郎が、エムに近づいたことすら腹立つ。やっぱり、許せないなぁ。ここで逃がしてまた来られてもまた嫌な気分になっちゃうし。それに、そう、他の人まで被害に遭うかもしれないもんね!やっぱり……


「殺しておこう」


 エスの小さな呟きは誰の耳にも届かず、人良さそうに柔らかく微笑むその表情からも察する者はいなかった。

 違法な薬物を使い、エムに良からぬことをしようとしていた男はその場から命からがら逃げ出した。

 その後、その者を見たものはいない。





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