第二十六章:置き去りの夏――陽希十九歳の視点(一)

 どこかくぐもった波の押し寄せる音を模したアラームで目を覚ますと、ベッドには自分一人だった。

 痛む頭で狭いワンルームを見渡しても誰もいない。

 床に落ちているズボンのポケットからスマートフォンを取り出して画面をタップする。

 電子が模す波の音はピタリと止まった。

 液晶画面の右上端に表示されているバッテリーの残量は細く赤い線になっている。

「起こせって言ったのに」

 エアコンの作動する音が微かに響く冷え切った部屋の中にぽつりと掠れた声がこぼれるのを感じた。

“酔っていたので記憶がない”

 そう言えれば自分には都合が良いのだが、全部覚えている。

 俺は騙し討ちのようなやり方で家に連れ込んだ挙句、何も悪くないミオを殴った。

 そして、無理やりセックスした。

 いや、はっきり言えば、世間でいうところのレイプだ。

――ハルとは無理だよ。

――優しくして。

――全部初めてだから。

 眼の前が薄暗くなるような、それでいて体の芯がまたカッと熱くなるような感じを覚える。

 あれから相手は拒絶や抵抗、嫌悪を示すことはなかった。 

 自分としてはそれから持てる気持ちの全てを捧げたつもりだ。

 それに対して受け入れる相手はしばしば苦痛とも快楽ともつかない呻き声を漏らした。

――痛い。

 涙の混ざった消え入りそうな声で告げられるとこちらもどうにも切なくなった。

 自分は避妊と呼べる手段は何も取らなかった。

 そもそもその用意もなかった。

 今までそんな相手がいたこともなければ、昨日の朝、この部屋を出る時は自分が避妊の必要な行為をすることになると思ってもいなかったから。

 十九歳の自分たちが何の手立てもなしにそうした行為をすれば妊娠の可能性が高いとは知っている。

 それでも、むしろ美生子に自分という男を受け入れた女の体と思い知らせてやりたい気持ちで繰り返した。

 彼女は咎めも抗いもしなかった。

 だが、いざ目が醒めると隣にはもういない。

 手の中の液晶画面が新たな操作を加えられないままパッと暗くなった。バッテリーの残量はまた一パーセント擦り減った数値を示している。

 あれはやっぱりミオには受け入れられないことだったのだろうか。

 ただ、俺にあれ以上殴られるのが怖かったから、拳でぶん殴られるよりは肉体的な苦痛がまだ軽いから従っただけなのだろうか。

 平手打ちした時の柔らかな頬と細い骨の感触、自分を見上げてたちまち潤んだ円らな目が蘇る。

 その時も傷付きやすい桃が手の中にあるように感じた。

 性別も体型も覆い隠す風な黒い上下も胸を平たく見せる仕様らしい肌着も全て脱がせてみると、元から薄紅の勝った肌のふくよかな乳房も丸い尻も全てが桃じみて見えた。

 触れれば滑らかなゴムまりじみた張りがありながらも柔らかだ。

 雨に濡れた服の張り付いていた肌はほのかに汗ばんでいたが、項の辺りからは微かにレモンじみた匂いがした。

 ミオが男だというのは本人だけの思い込みだ。

 子供の頃から苦しんでいるのは確かに本人にも周囲――というより俺だ――にも不幸なことではあるが、客観的には錯覚でしかない。

 自分が夕べこの目で見て手で触れて確かめた体は紛れもなく女のそれだ。男の自分の体よりずっと柔らかで豊かな。

 あの美しい体のどこにメスを入れたりホルモンだの訳の分からない薬を加えて自分のような男に似せた形に変える必要があるのだろう。

 それのどこが一体、自然なのだろうか。

 生まれつきの顔が気に入らないから整形するとかいうのと何が違うのか。

 答えの代わりに、固く目を閉じた美生子の顔と目尻からこめかみに引かれた涙の跡、そして濡れて絡み合った長い睫毛が蘇った。

 思考が再び沼に落ち込む前に取り敢えず家を出る前の数分だけでもスマホを充電しようとベッドのヘッドボードのコンセントに挿したまま垂れているコードに手を伸ばす。

 ズキリと頭に痛みが走った。

 とにかく仕事に行かなければならない。

 今日は恐らく仕事にならないと今から察しはつくが、兎にも角にもこの部屋を出てオフィスに向かわなくてはならない。

 今の自分にとって確かなことはそれだけだ。

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