第二十五章:心に合わない器《からだ》、器に沿わない心――美生子十九歳の視点(四)
「ま、俺なんてまだ随分恵まれてる方だよね」
何故こちらに念を押すような言い方なのか。
「世の中には母子家庭でそれこそもっと貧乏で放置餓死させられたとか母親が新しく作った男に虐待されたなんて人もいる訳だし。お母さんはさすがにそういう方向に酷くはなかったから」
ハルは今度は実際的な、他人についての書類でも読み上げる風な調子だったが、“そういう方向”と語るところで声が妙に上擦って響いた。
やっぱり、清海おばさんはハルにとって温かく思い出せる母親ではないのだ。前々から知っていたことではあるが、やはり寒々しさを覚えた。
「バレエみたいなハイソな習い事も一応はやらせてくれたしね。お祖母ちゃんや陽子おばさんが続けられるように言ってくれてたのもあるけど」
「そうなんだ」
うちのお母さんも清海おばさんにハルが習い事を続けられるように何くれと働きかけていたのだろうか。
確かにそうしていても不思議はないけど。
自分も一緒に習っていたのに今はすっかり髪を短く切り揃えてバレリーナとは程遠い風情でいるのがいかにも呑気でいい気に過ごしている表れに思えて少し後ろめたくなる。
「母子家庭の息子がバレエなんて変だって蔭ではかなり言われてたみたいだな」
相手はいじけるというより呆れて笑う顔つきだ。
「普通はお金持ちのお嬢さんがやるもんだから」
苦笑気味に語る“お嬢さん”に自分も含まれている気がした。
「いや」
思わず口から飛び出した声が甲高く耳の中に響く。
グッと抑えた声で続けた。
「俺も長いこと習いはしたけどさっぱり素質がある方じゃなかったし、小学校高学年に入る辺りから胸や尻が大きくなって全っ然バレエ体型じゃなかったから裏では嗤われてたんじゃないかな」
――すっごく変わりましたね?
――おしゃれというより何か別な人に見せる変装みたい。
勝ち気そうな年下の少女の眼差しと声が蘇る。
――元はバレエ教室でもパッとしない、男みたいに垢抜けないなりをしていたくせに。
あれは言外にそう伝えていたのだ。
「まあ、どんな子でも何かしらは言われるんだろうけど」
相手は苦さに醒めた感じを加えた笑顔を静かに横に振って乾いた声で続けた。
「サーシャみたいに目立って巧くてプロにでもなれるとかいう息子だったら両親ももっと目を掛けてくれたのかなって」
「そんなこと思う必要ないよ」
そういえばロシアに帰ったターシャさんはどうしているのだろう、あの姉弟は果たして祖国に居を定めたのだろうかと頭の片隅で思いつつ、真っ直ぐ幼馴染を見据えて告げる。
「家族ってそういうもんじゃないよ」
口に出してから、これはハルの両親への侮辱になりはしないかと思い当って背中にひやりとしたものが走った。
唐揚げの特有の油の匂いとそこに掛けたレモンともサワーのライムともつかない柑橘系の酸っぱい匂いが沈黙した二人の間にどこか白々しく浮かび上がる。
「そうだね」
相手は思いの外あっさり頷いた。
「二人とももういないしな」
穏やかな、安堵すら感じられる声だ。
そこにこちらが少し寒々しくなるのを覚えた。
「俺ももう前を向いて、やっぱり大学行きたいな」
今度は希望より懐かしい思い出を語る調子で黒の立襟から蒼白い太く長い頸を抜き出した幼馴染は語る。
「外国語の勉強とかしたい。中国語とかロシア語とか、今はベトナムのITが伸びてるからベトナム語とか」
「そうか」
ロシア語とベトナム語は専門の外語大に行かなければ履修が難しいのではないかと思ったが、遮らずに頷く。
「サークル入ったりして同世代の気の合う仲間とワイワイやりたいよ」
「そうだね」
自分と同じ十九歳になったばかりのハルには年上の大人に揉まれて働く環境はやはり辛いのだろう。
「カノジョ作って、一緒にどっかに出掛けたりしたいよ」
カノジョ、とそこだけ上擦った声から恋人という意味での特定の女性が相手にとってずっと切望されている存在なのだと感じ取れた。
「そうだねえ」
それは自分にとっても同じことだ。
リカちゃんも、ターシャさんも、紗奈ちゃんも、そして美咲もついぞ俺のカノジョにはなってくれなかった。
「俺も今度手術して、本当にカノジョ作りたいよ」
改めて話そうと考えていたことが自然に口をついて出た。
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