第二十五章:心に合わない器《からだ》、器に沿わない心――美生子十九歳の視点(五)
「手術……」
こちらを見据える相手の目に張り詰めた光が宿った。
ピシリと凍り付いた空気が自分の背筋まで震わせる。
「やっぱりやるんだ」
強いて笑った風な幼馴染の目には変わらず追い詰められた動物じみた光が点じている。
「俺もネットでちょっと見たことあるけど、胸や子宮を取って代わりに性器を男の形に作ったりホルモン注射して髭を生やしたりするやつだよね」
語りながらも相手の蒼白い顔は更に紙じみた生気のない色に変じていく。
どうやらハルは俺が認識している以上に性別適合手術に恐怖や危機感を抱いているのだ。
「確かに金もかかるし、何も手術しない場合よりも健康的な害は間違いなくあるだろうね」
改めて口に出してみると、自分の体には乳房を切除した術痕が今までネットで目にしたどの他の被施術者より痛々しく残り、性行為どころか排尿にも困難を覚えるような失敗したミニペニス形成の例になるだろうという気がした。
ちょうど美容整形に失敗して見た目もおぞましく、生活にも支障を来すような傷を抱えた人のように。
美容整形に失敗して生来の容姿より醜く日常的に苦痛を抱える体になってしまった人の話は「外見の美に囚われた愚かな人の末路」といった教訓を込めてメディアでもしばしば取り上げられる。
一方、性別適合手術に失敗して生来の容姿より醜く日常的に苦痛を抱える体になってしまった人の話は今の日本では目立っては出てこない。
自分がネットで目にした手術を悔いる「デトランス」もいずれも海外のケースだった。
だからといって、これはこの国の性別適合手術の失敗率が低い保証には決してならないだろう。
容姿コンプレックスから美容整形を受ける人、検討する人より性別違和から適合手術を受ける人、検討する人がそもそも数として圧倒的に少ないから、その中で失敗して悔やむ人の存在も透明化されているに過ぎない。
「お前みたいな本当に生まれついての男の体になるわけじゃないしな」
こちらを見詰めるハルの面が笑顔のまま目だけが虚ろになる。
何故そんな、自分の方が異常と言い渡された側のような顔をするのだ。
世間で変態扱いされるセクシュアリティを抱えているのも、それ故にわざわざ危険な手術を受けようとしているのも俺なのに。
そこに淡い苛立ちを覚えつつ、自分も当事者として相手より知識と理解があることを示すべく続けた。
「ミニペニスといったって結局、それで子供は作れないし。そういう点では生まれつきの女としての機能を無くすだけの去勢手術だ」
去勢、と改めて口にすると、自分が罪人か出来損ないの家畜に思えた。
ふっと向かいの相手は溜息を吐くというより、窒息からやっと逃れるように苦しい息を吐き出した。
「ミオがずっと苦しんできたのは分かるよ」
唇まで乾いた感じに白く血の気の引いたハルは重たい声で続ける。
「でも、俺は生まれつき男だけど、正直、それで良かったと感じたことはない」
真っ直ぐな固い黒髪の頭をゆっくりだがはっきりと横に振った。
「ハル」
叫び出したくなるのをグッと堪えて常より低い声でゆっくり言葉を紡ぐ。
「俺は女でいるより男でいる方が得とか楽とか思って手術するわけじゃないんだ」
否定も肯定もなく表情の消えた相手に向かって後は心の穴にずっと溜まっていた言葉が自然に流れ出した。
「物心ついてからずっとこの体が本当の自分と思えなかった」
「胸も尻も大きくなって、初潮が来た時も絶望しかなかった」
「毎月、股から血が出てくる度に何で自分はこうなんだって頭を抱えるんだよ」
「俺はもう今の女の体のまま自分も他人も偽って暮らすのは耐えられない」
「手術して、あちこち体に支障が出ても自分の責任として引き受けるよ」
「痛い目を見ても、それは俺だけの話だから」
レモンとライムの匂いが微かに通り過ぎる中、こちらを見詰める幼馴染の瞳に虚ろなまま潤んだ光が宿った。
「そうか」
今度は噛み締めるようにゆっくり首を縦に振る。
「いつかはそう言うだろうと思ってた」
どこか乾いた声で語ると、太い頸に広い肩の幼馴染は彼より一回りは小さくしたように薄く貧弱なこちらの肩の辺りを見据える。
「で、いつ手術を受ける予定?」
「いや、まだその前の段階だよ」
こちらは思わず苦笑いが漏れた。
「精神科と婦人科で別々にGIDの診断書が必要になるから」
日本語の長たらしい「
「その精神科でも診断が出るまでに三か月から一年くらい掛かるみたいだからここ何か月かでバイトしてクリニックに継続的に通う初期費用を貯めてから来週に初診の予約入れたよ」
三ヶ月後か、一年後か。
自分と通おうとしているクリニック、担当となる医師の場合はどう転ぶか分からない。
取り敢えず定期的に通う金が続かないことで手術前に挫けないように一年間の通院を想定して貯めた。
通院しながらもアルバイトは継続してやるつもりだから手術前に手持ちが無くなることは恐らくないだろう。
「うちの親にも診断書が二通手元に揃ってから話そうと思うんだ」
前々から心に決めていたことなのに改めて口にすると、胸がキューッと塞がって早打つのを感じた。
「性同一性障害」と言おうが“GID”と横文字にしようが、田舎に暮らす父母にとっては我が子が世間的に見て異常、異端だという診断に他ならないのだ。
――あれ、実際もホモだったんだよね。
子供の頃に「覇王別姫」のレスリーを観て語った父親の声が蘇る。
両親にとってセクマイやLGBTとはテレビに出て来る芸能人、とりわけ海外スターのようなそもそもが特殊な世界の人たちであって、赤子の頃から一つ屋根の下で暮らしてきた我が子のことでは有り得ない。
まして、バレエを習って女子校に通った「娘」が、だ。
「おばさん、まだ知らないの?」
ハルは眉間に微かに皺を刻んだ、むしろ肉体的な痛みを覚えているのに相応しい面持ちで尋ねた。
「うん」
急速に罪悪感に落ち込んでいくのを覚えながら自分の手にまた目を落とす。
「髪を切って男みたいな恰好しているだけで普通に男が好きな娘だと思ってると思う」
どう見直したって、やっぱり全体に小さくて爪の丸っこい、いかにも子供っぽい女の手だ。
不器用で力もないからまともに釘も打てないし、男としては随分ものの役に立たない部類だろう。
*****
「ハル、大丈夫?」
店に入る前よりも雨が勢いを増した夜の路地。
これは俺一人でさしても小さめだとミントグリーンの折り畳み傘を心許なく思いつつ、自分より頭一つ分大きい相手の髪が濡れないように掲げる。
バラバラッと雨がミント色の生地に打ち付ける音が響いて、傘からはみ出たTシャツの肩や背中が濡れて張り付くのを感じた。
帰ったらすぐに脱いでシャワーを浴びなくてはならない。
だが、その前に明日も仕事のあるこいつを家まで無事に送り届けないと。
「飲み過ぎちゃった」
雨の中から聞こえてきた相手の声は寂しい。
手術の話の後はどうということもない世間話をした。
京都の雅希君に新しい彼女が出来た、今度は年上の院生らしい。
貴海伯母さんはこの前、健康診断で癌の疑いが出て再検査になったが、結果は無事で良かった。
大河先輩――俺には先輩でなく同級生だが――は今度アメリカに留学するそうだ。
後は空き時間によくやっているゲームやNetflixで観たドラマの話などだ。
むしろ、自分よりハルの方がよく喋ったのだけれど、青ざめた顔のまま明らかに飲むペースが上がったというか、料理はたまに摘む程度で酒をひたすら流し込んでいる感じだった。
「何か欲しい物あるか?」
濡れたアスファルトと砂の入り混じった匂いが立ち昇る中、自分の鈍さに舌打ちしたくなる。
やっぱりこいつは実の父親が死んでショックを受けたのだ。十九で両親とも亡くして心楽しい訳がない。だからわざわざ一緒に飲もうと呼び出したのだ。
それなのに俺がまともに受け止めようとせず、うかつに口を滑らせて自分の性別適合手術の話なんかしたからすっかり気分が悪くなったんだろう。
臓器を取り出すだの、性器の形を変えて作るだの、ホルモンの注射をするだの、特に自分の性別に違和感のない普通の人が聞けば、というよりこれから受けようとしている俺自身にとってすらグロテスクだ。
「大丈夫」
ミントグリーンの傘の下でいっそう顔の蒼白く浮かび上がって見える相手は憐れむ風に笑ってこちらを見下ろしている。
「でも、明日ちゃんと起きられるかな」
仕事帰りの黒の立襟ポロシャツを纏った幼馴染は自らの赤茶色の革靴の足に目を落とした。
これは通勤用に買った、恐らく安くはない物だろう。
こちらの気楽なゴムサンダルが後ろめたくなった。
と、濡れて貼り付いたターコイズブルーのTシャツの上から二の腕を掴まれた。
「ミオが起こしてくれよ」
冗談めいた調子だが、二の腕を掴む手は食い込むように強い。
“溺れる者は藁をもつかむ”
そんな言葉がふと頭を
こいつにとって会社に遅刻するのは俺が大学やバイトに遅刻する比ではない死活問題なのだろう。
「明日、俺が七時くらいに電話……」
言い掛けた所で相手は制するようにきっぱりと告げた。
「俺んちの方が近いから今日は泊まってけ」
――シャーッ、バシャバシャ……。
紙を切り裂くのに似た音を立てながら卵色のヘッドライトを点けた自動車がすぐ脇の車道を通り過ぎていく。
「もう遅いし、雨も凄いから」
ハルの顔は影になっていたが、濡れた服の上からこちらの二の腕を掴んだ手は微かに爪を立てながら熱を帯び始めていた。
「いや、だって着替えとかないだろ」
傘をはみ出た背中はTシャツの下のブラトップまですっかり濡れて肌に貼り付いている。
今すぐ脱いで体を湯で流したい。
「俺の貸すよ」
顔を影にしたままの相手はカラカラと笑った。
「大は小を兼ねるから大丈夫」
返事を待たずにこちらの肩を引き寄せて車道に向かって手を上げる。
「タクシーで帰ろう」
こちらが返事をする前に申し合わせたように走ってきたタクシーが速度を落として近付いてきた。
やっぱりこいつは具合が悪いのだ。駅まで歩いて電車を乗り継ぐのもきついんだろうな。
青ざめて幽かに目の下に隈の浮き出た横顔から察しつつ答える。
「料金は俺が出すよ」
相手はこちらの背中を押しながら押し殺した声で返した。
「大丈夫だ」
*****
「ハル、階段上がるよ」
貸した肩にズシリと重たい物が伸し掛かるのを感じながらどこか虚ろな目でふらついた足を進める幼馴染に声を掛ける。
こいつの部屋は二階だが、こちらのアパートにはエレベーターがないのが呪わしくなる。
「七夕なのに散々だなあ」
こちらの肩に凭れ掛かりつつ雨に濡れた革靴で煤けたモスグリーンのリノリウムの内階段を昇りながらハルは微かな酒の臭いと共に乾いた笑いを漏らした。
「お星様キラキラどころかゲリラ豪雨とか爆弾低気圧って天気じゃん」
サーサーと幾分遠のいた雨音が入り口から濡れたコンクリートの匂いと共に聞こえてくる。
「梅雨時だからね」
本来の旧暦基準の七夕は一月ほど先の真夏の夜だが、今の暦だと夜となく昼となく雨の降り続く間の悪い時季に設定されてしまう。
「昔っから七夕、嫌いなんだよな」
血の気の引いたままの唇をした相手は雨音に紛らすように小さな声で呟いた。
「どっかから切ってきた笹に色紙で飾り付けして、短冊に願い事なんか書いても何一つ手に入らない」
どう答えれば良いのだろう。
それとも、返事など期待されていないのだろうか。
相手はそれきり口を噤むとこちらに凭れ掛かっているのか引っ張っているのか判然としない体勢のまま階段を上がっていく。
*****
「じゃ、お邪魔します」
鍵を開けてドアを開いた相手に無言で促されるようにして入る。
きっと今昇ってきた階段よりも蒸し暑いだろうという予測に反してひやりとした空気が脛の辺りを通り過ぎた。
――パツリ。
後ろで埋込スイッチを入れる音がして視野が明るくなると、三ヶ月前の引っ越しで手伝った時と比べていっそう片付いたというよりむしろ黄緑色の枕とシーツを施されたベッドと必要最低限の物しか置いていないような、妙にガランとした室内の風景が広がっている。
同時にこの部屋というかこのアパート特有の漆喰の匂いを含んだ冷気がより強まるようにしてさっと押し寄せた。
濡れたTシャツの半袖から抜き出た腕が粟立つ。
「ハル、冷房つけっぱ……」
言い掛けたところで背後から岩でも落ちてきてぶつかったような衝撃が走る。
え……?
「体を変えるな」
後ろからこちらを抱きすくめた相手はまるで外から聞き付けられるのを憚るかのように押し殺した声で囁いた。
「ハル?」
返事の代わりに雨に濡れて張り付いたTシャツの上からブラトップで平らに
ゾワッと全身の毛が逆立つような震えが走った。
「やめろ」
もがいても相手の腕は堅牢な格子のように一回りは小さなこちらの体を捉えて離さない。
視野の中で一つしかない枕の置かれたベッドが大きくなる。
“矯正レイプ”
“強制性交”
切れ切れにそんな言葉が頭に浮かんだ所でドサリと視野が反転してベッドに体を投げ出された。
「何してんだよ、お前」
上から伸し掛かってくる相手を両手で押し戻しながら
ハルはきっと悪酔いしていて、自分が何をしているか分かっていないのだ。
「もう知ってるだろ」
黒い服を着て蛍光灯を背にして顔を影にしているために姿そのものが黒い影にしか見えない相手は嗤っているのか微かに震えた声で答える。
「ハルとは無理だよ」
言わなくてももう知ってるだろ?
「何が無理なんだ」
頬に鈍く重い衝撃が走る。
ハルが俺を叩いた。
「他の男とは付き合ったくせに」
もう片方の頬により強く重みを増した衝撃が来た。
一足遅れてカーッと熱い痛みが滲んでくる。
「女だから平手にしてやってる」
真っ黒な影になった相手から掠れた、しかし、奥底にゾッとするような憎しみを潜めた声が降ってくる。
「まだ男のフリするなら今度は拳でぶん殴るからな」
Tシャツの襟首を締め上げんばかりに捕まれて揺さぶられた。
じわりと両目が熱くなって体から力が抜ける。
そうすると、黒の影に飲み込まれるようにして覆い被さられた。
もう逃げられない。
殺されたくなければ、おぞましくても受け入れるしかないのだ。
よりにもよって、一番近くで理解してくれていたはずの相手がそんな牙を剥いてくる。
「今までもよくも……」
目を閉じても、こちらの切り揃えた髪をグシャグシャにしてくる手の感触と呟く声に含まれる恨みに組み敷かれた体が震え上がった。
「優しくして」
何て媚びた、弱々しい声だろう。
胸の奥にパチパチと屈辱が燃え始めたが、目を開けて相手の耳許でもう一度囁く。
「全部初めてだから」
すると、上から押さえ付けていた力が幾分和らいだ。
「
これは俺の自我や意思が生じる前に周りが張り付けた名だ。
と、思った瞬間、苦しい息を吐いていた唇を相手の唇で塞がれた。
酒臭い匂いと共に相手の舌が侵入して絡んでくる。
吐き気が喉の奥までせり上げるが、こちらは受け入れるしかない。
今しがた打たれたばかりの頬から項にかけて、まるで確かめるように撫でられる。
「ずっと好きだった」
それは、自分が消し去りたい女としての部分だろう。
ぞわぞわと悪寒で震える体をまた抱きすくめられる。
「昔から」
自分もそうだったらいいのに。
屈辱が燻る胸の奥に寒い風が吹いた。
器に沿わない心ならもう要らない。心に合わない器ならもう捨てたい。
どちらも叶わないのだろうか。
*****
アフターピルか。
締め切ったカーテンが白々とした朝の光を幽かに透かす自分の部屋でパソコンの画面を眺める顔が失敗したピエロの笑いを浮かべるのを感じた。
「心は男」と主張したところで、いざ本物の男から襲われれば「婦人科」から緊急避妊薬を買わざるを得ない。
それが自分の現実なのだ。
とにかく七十二時間以内に飲まなければならないので画面上で購入の手続きを急ぐ。
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