第二十五章:心に合わない器《からだ》、器に沿わない心――美生子十九歳の視点(三)
「俺の好きなもんばかり頼んじゃったけどいいの?」
ハルは特にアレルギーや好き嫌いはないものの、唐揚げもシーザーサラダもまだ来ていない料理も自分の選んだものばかりだ。
「いいんだよ、俺から急に誘ったし、飲めない人は食べる方で元を取らないと」
そう言いつつ、相手はシーザーサラダのトングを掴んでこちらの皿にまで取り分け始める。
何だかハルの方が女みたいだ。“取り分け女”とか世間で揶揄されるような。
今は俺しかいないから気の利くアピールする必要なんかないけど。
「ありがとう」
自分の取り皿に盛られた分が相手のそれより多くなった所で声を掛ける。
「悪いね」
それとも、自分が何もしないことでハルに世話を焼かせてしまっているのだろうか。
こちらの思いをよそに相手はどこか強いられた風に微笑んだ。
「いっぱい食べなよ」
これはうちのお母さんが昔、自分たちにおやつを出した時の口調だ。
違うとすれば、お母さんが一緒に食べたりして本人も楽しむのに対して、ハルは自分は何かを我慢してこちらに与えようとしている風に見えることだ。
とにかく食べよう。
ハルはわざわざ俺の好きなクルトンや粉チーズをたくさん入れるようにして取り分けてくれたのだから。
箸を取ったところでまたも向かいから声が飛ぶ。
「唐揚げ、レモン掛けていい?」
相手は既に白い手にくし形にカットされた黄色い果実の欠片を手にしている。
「ああ」
正直、自分一人で食べる時だと唐揚げにレモンの汁は掛けない。
「お願い」
でも、掛けたのが決して嫌いというわけではないから、ハルの好みに合わせよう。
相手は黙ってどこか人工的に均一に黄色いレモンの皮を指先で折り曲げて汁を絞り出しながら、皿の揚げ物をさっと一巡する風に掛けた。
ハルはこういう所は器用だ。子供の頃から台所に立つ機会が多かったせいだろう。
そんなことを思いながら眺めるこちらに相手は眼差しを向けた。
「父親が死んだ」
さりげない笑いを浮かべた顔のままぽつりと相手は告げる。
レモンと香ばしい料理の混ざった匂いの漂うテーブルの空気が一瞬、凍り付いた。
「昨日の夜にお祖母ちゃんから電話が来てさ」
レモンを掛けたばかりの唐揚げを箸で一つ摘まみながら淡々と語るが、長い睫毛を伏せると、目の下にうっすら生じた隈が際立った。
「そうなんだ」
どういう言葉を掛ければいいのだろう。
自分にはひたすら嫌な感じの爺さんだったけれど、ハルには一応は実の父親だし、貶されたら辛いだろう。
「正直、悲しくないよ」
こちらの腹まで見透かしたように相手は吹き出した。
「生まれた時から一緒に暮らしてないし」
乾いた声で語ってサワーにまた口を着けて今度は大きく飲んだ。
「葬式ももう向こうで済ませたらしいから俺もお祖母ちゃんも出てないし」
十九歳でもう産みの父母を亡くした幼馴染は今度は皮肉な色の混ざった笑いになる。
「ジジイ、再婚しててさ」
ジジイ、と吐き捨てたところでハルの皮肉な笑顔に一瞬、引き攣れた風な痛みが走った。
「一応、そっちの奥さんと分割する形だけど俺にも遺産が入るみたい」
今度はまるで他人について語るように淡々と続ける。
「ま、遺産なんて言うほど大金じゃないだろうけど」
そこまで語ると、今は自活している相手はふっと嘆息とも安堵とも取れる息を吐いた。
「良かったね」
そう答えるのが適切かは自信が持てないまま返事をする。
「ちょっと金が入ったのはいいけど、タイミング悪いよなあ」
今度はシーザーサラダを口に運びながらハルは苦笑いした。
「もうちょっと早ければその金で大学行けたかもしれないのに」
そう
固く真っ直ぐな黒髪には白髪の一本も、滑らかに蒼白い顔には皺も弛みもないのに。
「今からでも遅くはないと思うけど」
来春にでも受験して大学に入れば一浪生と変わらないし、世間にそんな人は珍しくない。
「うちの学校にも社会人になってから入り直した人は普通にいるよ」
これがハルには励ましになるだろうかと自信は持てないまま続ける。
「大教室で講義を受けているとうちのお母さんくらいの人もいるし、それこそ教授より年上のお爺さんみたいな人もいる」
テディだって三十歳で留学してきた。
大学には教える側にはもちろん学ぶ側にもそんな多様性があるのだ。そこからすればハルが来年どこかしらの大学に入っても現役で入学した自分と誤差の範囲内に過ぎないだろう。
「それはもう十分稼いで余裕のある人だろ」
向かいに座す相手は穏やかだが重い声で答えて首を横に振った。
「俺は受験料と入学費、四年間の学費を払った上でそこで暮らせるかをまず検討しなきゃいけないから」
“四年間の学費”と挙げた声の厳しさで、ハルが実際にはずっと前からこの件で何度も検討して諦めた現実が窺い知れた気がした。
やはり親に基本の金を全て出してもらってせいぜいが小遣い稼ぎのアルバイトしかしたことのない自分が甘いのだろう。
「お祖母ちゃんにもう負担は掛けられないしね」
相手は今度は憐れむ風な、しかし、底に暖かさのある笑いで続ける。
「お祖母ちゃんこそ一番割を食った人だよ。娘が離婚して戻ってきて、孫育てしてさ。お祖父ちゃんもお母さんも先に死んで、自分は今もパートしてるし」
「ハルのお祖母ちゃん若いし、元気じゃん」
そういう問題ではないとは知りつつ言わずにいられない。
「自分を余計者みたいに思わなくていいんだよ」
お祖母ちゃんだってたった一人の孫息子をそんな風に思ってはいないだろう。
だが、相手はどこか虚ろな、こちらの肩から後ろに広がる壁までも見透かす風な眼差しに変わった。
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