第二十六章:置き去りの夏――陽希十九歳の視点(四)
*****
あの四階だ。
次の瞬間、足が固まったように動かなくなる。
セルリアンブルーのカーテンが引かれているはずの四階のガラス戸は裸のままガランとした中を見せていた。
「ミオ」
掠れた自分の声が耳の中に響く。
*****
やっぱりもぬけの殻か。
鍵の閉められたドアの動かないノブを握り締めたまま息を吐く。
引っ越しでこれから出る所なら会えるかもしれない。
そう思い直してここまで走ってきたのだが、甘かった。
エレベーター付きのまだ新しいアパートの漆喰とコンクリートの混ざった匂いを吸い込んでは吐き出しながら、すっかり汗だくになって緩めの半袖Tシャツが肩や背中に貼り付き、最初はひんやりとしていた金属が掌に固く食い込むのを感じた。
「馬鹿だな」
自分はもう美生子に関わってはいけない人間なのだ。彼女から拒否されたのだ。そんなことはこの一週間でも明らかだったではないか。
ただ、俺が馬鹿だから端から有り得ない所に虚しい望みを繋げていただけなのだ。
――美生子。
――ずっと好きだった。
――昔から。
こちらは持てる気持ちの全てを捧げたのに。
カーッと屈辱と怒りで顔が熱くなり、胸には引き裂かれるような痛みがまた走った。先ほど直に彼女と顔を合わせて拒絶される想像をした時よりも重さを伴って。
とにかく終わったんだ。全部もう終わってしまった。
十九年も隣にいてずっと友達でいたのに、これで全てが消えてしまった。
今の所、警察が来たりしていないから、ミオが訴え出なかっただけでも感謝すべきなんだろう。
それとも、あいつは今頃警察に訴え出ていて俺はこれから逮捕されるとかいう未来が待ち受けているのだろうか。
――笹川陽希さんですか? ちょっと署までご同行をお願いします。
テレビのドラマで見るように警官がそこから出てきてパトカーに乗せられるのだろうか。
たった今上ってきた階段を振り返っても人影の一つも差さなければ足音も聞こえない。
すぐ隣のエレベーターのドアも棺さながら固く閉じられたままだ。
シンとして蒸し暑さだけが纏わりつく廊下で締め付けられるような胸の痛みと息苦しさが浮かび上がってきた。
俺はこれからどうすべきなのだろう。ミオの中での自分を少しでも許すべき人間にするには何が最善なのか。
自分のしたことは客観的には犯罪なのだから、逮捕される前に自分から警察に出向こうか。
殺人や強盗ならともかく強姦――今は強制性交とかいうみたいだが――の自首など警察では受け付けているのだろうか。
仮に受け付けられたとして、ミオは俺を自分を傷付けた加害者として訴え出るだろうか。
――その人は知りません。
新たに髪を切り揃えて胸を平らに均した装いで冷ややかに言い放つ美生子の姿と声が浮かんだ。
振り払うように微かに頭を横に振って歩き出す。
とにかくここにいる必要はもうないのだ。
ミオはもうここを去って戻ることはないのだから。
――こっちはある日突然置いてけぼりですよ。
髪をすっかり白くして銀縁の眼鏡を掛けた男がせせら笑う風にして告げる姿が唐突に浮かんだ。
どうしてこんな時に思い出すのだろう。
元は夫婦だった両親と自分たちとでは全然違うのに。
少なくとも両親は結婚はしていたのだから、一時期でも好き合って互いをパートナーにしていたのだ。
俺ときたら、あのジジイ以下だ。
どこに向かうべきかと迷いながら、今しがた駆け上がってきた階段をのろのろと一段ずつ降りていく。
そういえば、エレベーターがあったなと今更ながら思い当たったが、もうどうでも良かった。
*****
外に出るとカッと最も高くなった陽射しが照り付けた。
――ジージージージ―……。
姿は見えないが蝉の鳴く声も斜め上から降ってくる。
東京って何で野菜も果物もろくに採れないのにこんなに暑いんだろう?
何をするにも金がかかるし、ミオがいなければ、こんな空気の悪い所にわざわざ出て来ることもなかったのに。
そう思うと、転んだら火傷しそうなアスファルトの路地も、漂白されたように小綺麗なアパートやファミリーレストラン、コンビニエンスストアの立ち並ぶ街並みも、これから向かうべき駅も、全てがよそよそしく映った。
これからあの駅に行ってどうしよう?
取り敢えず、家に帰っても何もすることがないし、今、一人でこもると本当に狂う気がするから、ミオの通っている大学の辺りにでも行ってみようか。
今日は土曜日だから授業はないだろうけど、もしかしたら、ここよりもっと学校に近い場所に越したのかもしれないし。
この肩に掛けているカバンにもその大学の赤本が入っているのだ。
そう思い出すと、それまで体の一部のように意識もしなかった左肩にカバンの紐の微かに食い込む感覚が急に重たく圧し掛かってきた。
俺、何でこれから受けるかどうかも分からない、受かるかも怪しい大学の過去問なんか持ち歩いてるんだろう。ここなんか難しいので有名なのに。
ミオは頭がいいから地元でもトップ校に行ってここに入れたのであって、自分は端から違うのに。
――ジージージージー……。
耳の中で蝉の鳴き声のボリュームが急激に上がると同時に視野全体が歪んで揺れる感じに襲われて、カバンから飲みかけのスポーツドリンクのペットボトルを取り出して蓋を開ける。
軽く口に含むつもりが、一気にボトルの残りは九割から四半分以下にまで減った。
家の冷蔵庫に置いていた時の冷たさをまだ残した飲料が痛む胸の辺りをサッと鎮火するように通り過ぎる。
それとも、もうミオは自分から逃れるべく地元の家に戻ったのだろうか。
俺から襲われたとおばさんにも話すのだろうか。
もう打ち明けてしまっただろうか。
だとしたら、もう
そう思い至ると、故郷の半分以上が失われて、七十過ぎた祖母の一人待つ家だけが残された孤島のように思われた。
――ジージージー……ガタン、ガタン……。
蝉の必死に鳴く声を断ち切るように電車の走り去る音が遠く響いてきた。
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