第二十一章:偽りを断つ時――美生子十八歳の視点(四)
*****
「さっきの彼、イケメンだね」
美術館から出て湿気とアスファルトの匂いをたっぷり含んだ空気が押し寄せる中、テディはカラカラと笑った。
この人の笑いには日本人にありがちな妙な照れや意地悪さがない。
「そうですか?」
大河は決して不細工ではないが、テディやハルの方が切れ長い涼しい目をしていて一般にはより端正ではないかと思う。
「元カレかと思った」
眩しい陽光を浴びた銀縁眼鏡のレンズには長い天然パーマの髪を降ろして胸の線の際立つフリルブラウスを着た自分の影が反射して映っていた。
「そんなんじゃないですよ」
あはは、と気の抜けた笑いが口から溢れる。
「あの人は私の友達のカレだったんです」
紗奈ちゃんは地元の大学に行ったから、今はもう別れたのかな?
それとも、遠距離恋愛なのかな?
変わらずに蘇るのはあの二人が付き合っていると知った時の胸の痛みだけだ。
「私はどちらかと言うとあの彼は苦手だったし、向こうも私のことは多分好きじゃないと思う」
少なくともこれは嘘ではない。
いちいち自分に向かって確かめる自分が後ろめたい。
「そんな風に思うことはないよ」
首を横に振ってカラカラ笑う銀縁眼鏡の奥の目はおおらかに細まっていた。
「君はとてもいい子なんだから」
目尻に微かに刻まれた皺を含めてこの人は自分たちよりずっと大人なのだと今更ながら感じる。
「じゃ、どこかの店でお茶にしようか」
青葉の匂いと共に白シャツから抜き出たキャラメル色の腕が伸びてきて自分の手を取った。
え……?
いや、いわゆる指と指を絡める「恋人繋ぎ」ではない。ただ、軽く片手を片手で取られただけだ。
頭の中でそう自分に言い聞かせても、どっと嫌な汗が吹き出て、フリルブラウスの背中とブラジャーの裏地が体にじっとり貼り付き、繋いだ手と手の間がぬめるのを感じた。
「今日は暑いね」
キャラメル色の滑らかに小さな顔が優しく微笑む。
繋いでいない方の手がそっと伸びてこちらの汗ばんだ頬に貼り付いた髪を剥がすと、それを払う格好で顎から
さりげない所作だが、そこに微かに込められた纏い付く気配に背筋がゾクリとする。
ヒールを履いた自分よりなお頭半分背丈の高い、白いシャツを纏った肩は角張った形に広い、抜き出た頸は太く根を張った相手は不安定な足元から小刻みに震えているこちらを察して引き摺り込むように汗でぬめっている指と指をゆっくり絡ませてきた。
「君の好きな所で休もう」
銀縁眼鏡を掛けた顔は優しく微笑んだまま、しかし、自分の手指より一回りは太く長い指が静かに締め付けてくる。
――嫌とは言わせない。
そんな無言の圧力が纏い付くように降りてくるのを感じた。
罠に嵌められた。
そんな気がした。
自分はこのまま本物の男であるこの人と恋愛の名目でキスして、女の形をした体を晒して、男の姿をした体と触れ合って、こちらは妊娠するかもしれないという恐怖と共に受け入れるのだろうか。
「疲れたよね?」
囁く声と共にテディの大きな掌が今度ははっきりと確かめる風に頬を撫でる。
もう逃げられない。
死刑宣告じみた確信と同時にゾワッと尻から背筋に電流じみた震えが走って全身の肌が粟立つのを覚えた。
「ミオコ?」
この声は……。
不意に斜め前から飛んできた柔らかな呼び掛けに強張っていた顔がふっと綻ぶのを覚えながら見やる。
あ……。
そこには真っ直ぐな漆黒の髪をハーフアップに結ってシンプルな黒のワンピースを着た、それ故に彫り深い華やかな顔立ちとすらりとした肢体が際立って洗練されて見える美咲と初めて目にする男が立っていた。
これは美咲の彼氏だ。
何だか地味な、今、自分と指を絡ませているテディと比べても全く美男子ではない人だが、美咲のすぐ横にさりげなく、しかし、臆することなく寄り添っている姿に直感で察する。
と、その目立たない、特徴らしい特徴もない顔にふっと柔らかな笑いが浮かんだ。
――君が美咲の友達だね。僕も知ってるよ。
そんな心の声が聞こえてきそうな、ごく好意的な、嫌らしさや意地の悪さ、見下しなど全く見えない表情だ。
こいつは初見の自分にもそつのない応対が自然に出来る男なんだ。
だから美咲とも付き合えるのだ。
引きつった笑顔を返しながら、胸の中で墨を含んだ筆を水に浸したように敗北感が濃さを増しながら広がるのを覚えた。
「そっちも彼氏さんと一緒なんだ?」
指と指を絡ませた自分とテディに向かって美咲はこぼれるような笑顔で問い掛けた。
彼女の立つ場所から風に混ざって薔薇の匂いがほのかに漂ってくる。
「ああ……」
違う。
言葉が喉の奥でつかえたまま、ただ、目の前にいる彼女の笑顔を壊したくなくて作り笑いを浮かべた顔を戻せない。
唐突に現れた美咲も、その彼氏も飽くまで温かに笑っている。
テディもどこか寂しいものを含んだ笑顔でこちらを見詰めていた。
自分が一番、嘘に
梅雨時の湿り気を含んだ風に吹かれて、汗に崩れたファンデーションで微かに肌が突っ張り、唇に塗ったグロスも半ば剥げたであろう顔で思う。
テディだってこちらが恋愛を装いさえしなければこうした振る舞いに出ることはなかっただろう。
俺が煽って恥をかかせたんだ。
水色のエナメルのヒールを履いた爪先が狭く硬い型に締め付けられたままぐっと地面に押し付けられて痛むのを感じた。
どうしてこんな靴を履いてきちゃったんだろう。
バレエやってる時もトゥシューズなんか嫌いだったのに、「女」を演じるためにわざわざ歩きづらい飾り物に逆戻りして。
ふと、美咲の足元を見やると、きらびやかなゴールドの革製だが形としてはフラットなサンダルを履いていた。
本当にお洒落な女の子は自ずと無理のない服や履き物を選べるのだ。
そう思うと自分が余計に偽物じみた、何か悪いことをやらかして逃走するために
「ミオコ、最近凄く綺麗になったと思ったら、こんな素敵な彼氏さんがいたんだね!」
「そうなんだ」
やめてくれ。
格好だけは指を絡ませたままどちらも相手を繋ぎ止めようとする力の失った自分たちを前に、薔薇の匂いを漂わせながら本物の恋人同士が無邪気に笑い合う。
この二人は自分たちが幸せで余裕があるから他人を冷笑したり侮辱したりする必要がないのだ。
すぐ近くにいて彼女がいつも香りまでするのにまるで透明な
「じゃ、また学校で」
赤ちゃん猫じみた笑顔で告げると、美咲は自分にとっては名前も知らない男と寄り添って去っていく。
俺は明後日にはまた大学で他の男と付き合う美咲と顔を合わせるのだろうか。
自分も彼氏持ちの女の子みたいなフリして。
視野の中で黒ワンピースに真っ直ぐな漆黒の髪をハーフアップに結って垂らした後ろ姿が小さくなる。
影のように連れ立って歩く男と共に。
――ゴーッ……。
ビルとビルとの間を吹き抜ける風と共に電車の通り過ぎる音が響いてきた。
まるでピエロだ。
こんなフリフリの服着て、顔に色々塗ったくって、足痛くなりながらヒール履いて、それで、本当に好きな人からは端から視野にも入れられてない。
「ミオコ」
風に紛れるほど密かな声だったが、確かに耳に届いた。
振り向くと、テディが寂しい面持ちでこちらを見詰めている。
形だけ指を絡ませていた二人の手がどちらからともなくはらりと離れた。
次の瞬間、銀縁眼鏡を掛けたキャラメル色の顔がジワリと熱く滲む。
「ごめんなさい」
俺なんかピエロ以下だ。
ピエロなら観た人から笑ってもらえる。
それなのに、今、すぐ隣りで手まで繋いでいたこの人は悲しそうだ。自分がそうさせたんだ。
両の目を潰したい気持ちで目の下から額までを押さえつける。
「あなたは本当にいい人だけど」
閉じた熱い瞼の裏は真っ暗だが、ブラジャーの上にフリルブラウスを着た背を静かに撫でられるのを感じた。
「いいんだよ」
穏やかな声が続ける。
「君の気持ちは君のものなんだから」
自分なんか可哀想でも何でもない。「普通になりたい」なんてエゴのために何も悪くないこの人を騙した加害者だ。
今だって、こんな道の真ん中で急に泣き出して甘ったれてる。事情を知らない他人が見れば、テディの方が年下の恋人を泣かせている悪い外国人の男と誤解するかもしれない。
どんだけ迷惑な人間なんだろう。
いっそ、テディも
「実は自分の心は女で君に恋愛感情は持ってない。偽装のために付き合った」
と言い出してくれないかな。
そうしたらいい友達になれる。
何なら偽装結婚して
あなたが死んだら秘密を共有する仲間として心から涙を流したい。
しかし、隣からは静かに背中を擦る温かい手の感触しかしてこなかった。
それにはもうゾワゾワするような違和感を覚えなかったが、だからこそ悲しかった。
*****
洗面台の鏡には涙に崩れた化粧を洗い落としてもなお目と鼻はうっすら赤い、顔周りの髪の毛は濡れて貼り付いた素顔が映っている。
これが今まで「女」として自分を偽ってきた自分の姿だ。
鏡を見ながら、耳のすぐ上の髪を一房掴んで
――ザク。
長く伸ばしてきた髪は造作なく切れて足の甲の上に落ちた。
――ザク、ザク、シャキリ。
鏡の中の「女」がどんどん髪を切り落とされていく。
*****
鏡の中には殆ど刈り上げに近いベリーショートになった自分が映っている。
首を回すと、後頭部などは不揃いで中途半端に長い所も残っているが、そんな不格好さも含めて自分なのだと思った。
他人の目で見れば、「セルフカットで男みたいな野暮臭い刈り上げ頭になった女の子」でしかないだろう。中身が普通に女の子でも髪を短くしている人はいるし。
しかし、もう自分は「女」を装うことはしない。
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