第二十二章:心は変えられない――陽希十八歳の視点

「ミオコちゃん、凄く変わったねえ」

 七人乗り満員のミニバンが動き出したところで前の席の雅希君が見計らったように面食らった声で切り出した。

「いや、中学生以来だから同じままじゃなくて当たり前だけど」

 母が事故で逝って四年目の命日。

 うちと貴海伯母さんと雅希君、詩乃ちゃん、そして陽子おばさんとミオの七人でお墓参りすることにした。

「ばっさり髪切ったから」

 すぐ隣に座るダボッとした真っ黒なTシャツにハーフパンツ姿――これが墓参り用のカジュアルな喪服のつもりででもいるのだろうか――の幼なじみは相手の驚きを端から想定していた風にあっさり笑って、両手をチョキの形にして自分のうなじの辺りで切る真似をする。

 そうすると、椿じみた甘い香りがさっとこちらまで匂った。

 髪は削いでも使うシャンプーは昔と変わらない。

 そこに妙な安堵と可笑おかしさを覚えて苦笑いする。

 むろん、実家の風呂場で使うシャンプーは陽子おばさんが買い揃えているのだろうが、東京でも多分ミオは同じ物を使っているだろうという気がした。

「不器用だから明治のザンギリ頭みたいになっちゃったけど」

「自分で切ったんだ?」

「行きたい美容室が予約いっぱいで、カット代浮かそうと思って自分で切ったんですけど、ガチャガチャで変ですよね」

「いや、普通におしゃれだと思うよ」

 自分にとってはそれぞれ近しい間柄のミオと雅希君はどこか手探りめいた遠慮の漂うやり取りをする。

 どうしてそんな頭にした。

 不揃いに切った髪が不揃いにまた伸びつつある幼馴染を眺めながら、口にしたくても出せない問いが胸の中で渦を巻く。

 黒いTシャツの襟から抜き出た細いくびの横顔は、何だかヨーロッパの歴史物に出てくるギロチンにかけられる前に髪を刈られた女囚めいて見えた。

「雅希、あんたもうちにいる間に髪切りに行きなさいよ」

 運転席の貴海伯母さんが嗜める風に声を掛ける。

「四月からずっと切ってないでしょ」

「分かった」

 面倒そうに答える再従兄の髪は襟足が肩にギリギリ届くくらいで全体としては幼馴染と大差ない。

 何となく自分も気になって窓ガラスに映った姿を確かめるが、半月前に床屋で切ったばかりの髪は襟足もきっちり短く頸が全て露わな状態である。

 奥に映るミオと比べても明らかに頸が太くカーキ色のTシャツを着た肩も広く角張った自分の姿にまた苦笑いが過ぎる。

 俺らのような本物の男だと襟足が肩に届くか届かないかのレベルでも「長い」「だらしない」と暗にもっと短くするように要請されるのだ。

 流行はやりのアイドルや俳優に長髪で持て囃される人がいたとしても、それはそもそも彼らが仕事として特殊な装いをすることが求められる立場だからで、いわば職業的な特権だ。

 更に言えば、そうした人たちでも真似をする一般人を含めて

「男の癖に髪を伸ばして気色悪い」

と世間の少なくはない人たちから冷笑されるのだ。

 そもそも男だと女でいうところの「セミロング」「おかっぱ頭」でも「長髪」の括りに入れられるし、男でいわゆる「長髪」にする少数派の中ですら背中にまで垂れるような女の「ロングヘア」に相当する長さにまで伸ばした人は稀である。

 もし、俺や雅希君が腰まで届くようなロングヘアにしたら今のミオよりもっと奇異の目で見られるだろう。

 男みたいな女より女みたいな男の方がよりグロテスクで変態的な人間として扱われる。

 好むと好まざるとに関わらず、本物の男にはそんな縛りが付き纏うのだ。

 そう隣の幼馴染に告げたい思いで振り返ったところでまた前の座席からあどけない声が飛んだ。

「マサくんも髪伸ばして結べばいいのに」

 小学三年生の詩乃ちゃんは楽しげな笑いを含んだ声で続ける。

「うちのクラスのミチル君は私と同じくらい髪長くしてポニーテルにしてるよ。ランドセルもおんなじピンクだし」

 いや、それは名前からして親が「本当は娘が欲しかったから」とかいう理由でそういう格好をさせられている、一種の虐待に遭っている子ではないのか。

 そう思ったところで無邪気な声が自分と幼馴染が並んで腰掛けた後ろのシートにまで響いた。

「男の子なのに変」

 すぐ隣の薄桃色の肌をしたか細い項の辺りに微かな震えが走るのが見て取れた。

「変じゃないよ」

 口にしてから八歳のまだ幼い再従妹に聞かせるには怖い声になったと気付いて極力何でもない風に言い直す。

「男の子が髪を伸ばして、ピンクが好きだっていいんだよ」

 俺はやらないけど。

 胸の内で付け加えてから、そういう自分を酷く醜く感じた。

 俺なんか偽善者だ。

 隣からの目線に振り向くと、ザンギリ頭のミオが安堵したような、寂しいような笑いを浮かべていた。

「そういう子もいるんだよ」

 黒服の幼馴染がごく穏やかに言い添える。

「そうなんだ」

 再従妹のいとけない声があっさり答えた。

「ミチル君ってピアノ上手うまい子じゃなかったっけ?」

 雅希君はさりげない調子で幼い妹に確かめる。

「うん」

 詩乃ちゃんは“男の子なのに変”と発言した時と同じように面白そうに笑った声で続ける。

「二年生までは私がクラスで一番ピアノ上手かったんだけど、三年でミチル君と同じクラスになったら向こうの方がずっと凄くて二番になっちゃった」

 額面に反して、まるで一番になったのが我がことのようにはしゃいだ声だ。

「モーツァルトやショパンも弾けるんだよ!」

「凄い子だねえ」

 この子は他人の美点を僻まずに認められるのだ。

 むしろその真っ直ぐさを褒めたい気持ちで相槌を打つ。

「小学三、四年生でショパン弾ける子なんて滅多にいないよ」

 ミオもまるで見えないピアノでも弾くように右手の指をひらひら折り曲げながら応えた。

 本当に小さな、丸っこい桜色の爪も含めて子供みたいな手だ。

 握り締めたくなる衝動をぐっと堪えたところで前の座席から一つ上の、自分のそれと良く似た再従兄の苦笑い混じりの声がした。

「俺も小四まで天狗だったけど、転校してきた女の子からサッカーでボロ負けした」

 いつか見せてもらった写真の、ガッツリ切り揃えたショートカットで色の黒い、男の子じみた少女の顔が浮かんだ。

「カヨちゃんでしょ」

 詩乃ちゃんが代わりのように名前を挙げる。

「マサくんのカノジョ」

 ウフフ、と笑う声に車内の皆が何となくつられて顔を綻ばせる空気になる。

 しかし、次の瞬間、大学生の再従兄は穏やかだが決然とした声で応えた。

「今はカノジョじゃなくて友達に戻ったよ」

 一つ上の雅希君は耳にしたこちらが驚くほどカラリとした声で続ける。

「医者になったら診てもらおうかな」

 雅希君、カヨちゃんと別れたのか。

 一度も会ったこともなく、正直「カヨちゃん」と親しげに呼んでいいのかも分からない相手だが、それでも、再従兄が初めて付き合った恋人と別れた、自分の身近で起きていた一つの恋愛が終わったと思うと寂しかった。

 同時に、一つ違いで自分と顔かたちも似通った雅希が最初の恋愛を穏便に卒業して恐らくは次の恋愛にも難なく進んでいく近い未来を想像して置き去りにされたような感じに襲われる。

 俺らの何がそんなに違うのだろうか。

 車がトンネルに入って、車内はオレンジ色の暗がりに染まる。

 そうだ、今日はお母さんの命日の墓参りだった。

 このトンネルを抜けて、もう少し行った所の山の墓地にお母さんとお祖父ちゃんは葬られているのだ。

――ゴーッ……。

 車窓からは水に潜るのに似た音が響いてきた。

 正直、お祖父ちゃんはともかくお母さんは「お母さん」と近しい風に呼ぶべきなのか今となっては疑問だし、何より相手も望んではいなかったのではないかという気がする。

 暗いオレンジ色のトンネルを隔てた窓ガラスに映った蒼白い面が見詰め返してくる。

 何て恨めしげで陰鬱な目付きだろう。

――お前なんか死ね! 地獄に堕ちろ!

 そう言い残して四年前の夏休みの終わり近い、お盆とお彼岸の合間の季節に自分が事故で逝ってしまったあの人の目にそっくりだ。

――こっちはある日突然置いてけぼりですよ。

 目以外の顔立ちや固い髪、背格好は葬式で会ったきり顔を合わせていない産みの父親譲りだ(もっとも、向こうの髪はもう真っ白だったが)。

 見れば見るほど、自分の容姿が産みの父母の厭わしい部分の寄せ集めに思えた。

 むろん、世間には一般的な基準に照らし合わせて自分より不細工、不格好な人もいる。

 しかし、俺の姿かたちにはAIが描いた絵のような、一見すると普通なようで産みの両親の暗部を抽出して融合させたグロテスクさが纏い付いている気がするのだ。

――ゴーッ……。

 車内特有のゴム臭い匂いに混ざって椿に似た甘い香りが仄かにする。 

 そういう自分が嫌だと思いつつ、体の奥が燻るのを感じた。

「前に付き合ってた女の子が地元の国立の医学部に行ったんですよ」

 こちらの思いをよそにサイドミラーの中で運転席の貴海伯母さんの顔が苦笑いすると、助手席の陽子おばさんも笑いを含んだ声で答えた。

「凄いですねえ」

 次の瞬間、パッと視界がオレンジ色の闇から白白と眩しい光で溢れる。

「こっちも病院や人手が少ないですから、わざわざ医療を選んで勉強してくれる人はありがたいですよ」

 どこか安堵して礼を告げる風な調子で幼馴染の母親は付け加えた。

 感嘆より穏やかな感謝の言葉に響く声だ。

 この人はやっぱり死んだ母とは違う。

 視野で尾を引く紫と緑の残像に目をしばたかせつつトンネルを出て元の色彩を取り戻した夏の風景を眺めながら思う。

――文武両道で男の子とも付き合って医学部に入るような子もいるのに、あんたはバレエも大して上手くもならなければ頭も悪いんだから。

 亡くなった母ならそんな風に貶す材料にしただろう。

 突き放した調子の棘棘とげとげしい声が耳の中に聞こえてくるようだ。

 だが、陽子おばさんは他所の子供の優秀さを無邪気に褒めはしても、ミオやその場にいる別な子を比べて貶したりいじけさせたりする方には行かないのだ。

 この人が近くにいてくれたから、俺にしても亡くなった母にしても十四年間、表面的にでも親子として暮らせたのではないだろうか。

 誰も自分の良い可能性を信じてくれる人の前で醜くはなりたくないのだ。

――お母さんは最初から俺のことなんか要らなかった。俺も一緒にいて苦痛しかなかった。死んで正直、ホッとした。今、振り返っても嫌な思い出しかない。

 亡き母の親友の肩を掴んでそう叫びたい衝動に駆られる一方で、あの雨の中、顔をグシャグシャにして泣いた、今も月命日には必ず母の墓参りするこの人にそれは絶対に言ってはならないことだと自分に言い聞かせる。

 膝の上で知らず知らず握り締めた拳が震えた。

 お母さんだって陽子おばさんに血を分けた実の息子が邪魔だという話はしなかっただろう。むしろ、出来なかっただろう。

 自分たち親子はそんな風にして無邪気なこの人の信頼を保ったのだ。騙しおおせたのだ。今も欺き続けているのだ。

 そう考えると、憎み合っていた母親と自分が信頼してくれる人を踏み躙る点では不潔な仲間のように思えていっそう厭わしくなった。

「陽希は都内の方に就職の希望を出すことにしたんですよ」

 それまで前のシートで黙っていたお祖母ちゃんがポツリと声を出した。

「IT系の会社に志望を出すことにしました」

 お祖母ちゃんは俺が上京することに同意して休み前の三者面談でもその方向で決めたのに、やっぱり寂しそうだ。

 お祖父ちゃんもお母さんももういない家に一人だけになるのが辛いのだ。

 お母さんが生きていれば四十七歳だし、お祖母ちゃんももう七十二歳だ。

 夕飯の後に肩を揉むと、肉が薄くなったというより皮一枚被った骨がゴロゴロ掌にぶつかってくる感触が強くなった。

 そんなことを思いながら、運転席の貴海伯母さんと助手席の陽子おばさんに聞こえるように極力覇気のある口調で続ける。

「明日は朝早くから新幹線に乗って職場見学に行きます」

 ミオはまだ休みで実家にいるのに、俺とお祖母ちゃんはわざわざ泊まりがけで東京に出るのだ。

「俺が見学している間、お祖母ちゃん、ゆっくり買い物やお茶でもしてるといいよ」

 お祖父ちゃんの遺産(そんなに大金ではないにせよ)、お祖母ちゃんの年金とパート、俺のバイトと父親からの養育費で暮らす家計でもたまにそのくらいの贅沢なら出来るはずだ。

「自分もまだ住んで三ヶ月ちょっとですけど、あっちはスタバとかこっちでは見掛けないようなチェーン店のカフェも多いから、ちょっとお茶するには便利ですよ」

 隣のザンギリ頭に緩い黒の上下で体の線を覆ったミオが上擦った声で告げる。

 振り向くと、どこか強いられた風な笑顔だ。

「じゃ、明日はちょっとこっちでは行けないお店でも探して見てこようかな」

 前の席のお祖母ちゃんも合わせたように楽しげな声で答えた。

 それでいいんだと思いつつ、隣に座る相手にそれとなく尋ねる。

「スタバとかよく行くの?」

 一人で?

 それとも誰かと?

 それは男?

 それとも女?

 互いにどんな位置付けの相手?

 こんなザンギリ頭にして色気の欠片もない、むしろ「女」と見られそうな要素を削ぎ落とした今のミオに男がいるわけはない。

 これはむしろ男避けの装いだ。

 そうは察しつつも頭の中に出せない問いが渦を巻く。

 斬首刑前の女囚めいた姿になった幼馴染は白桃じみた薄桃色の頬に苦い笑いを浮かべた。

「サークルの友達と帰りにちょっと寄って話したりとか試験前にちょっとテキスト読み直したりする時にね」

 “友達”ってどんな人?

 “ちょっと”と繰り返されると、逆にしょっちゅう行って長居しているように思える。

 相手は前に向き直ってこちらには華奢な横顔と不揃いに伸びた髪の微かに掛かった項を見せて言い放った。

「家で人目がないとだらけちゃうから」

 自分より先に前のシートから再従兄が笑って応じる。

「俺も試験前はファミレスのドリンクバーで粘るよ」

 違う。

 そんなことを聞きたかったんじゃない。

 ミオは何かを隠してはぐらかしている気がした。

 それとも、普段は離れて暮らす自分が疑心暗鬼になっているだけななのだろうか。

 車内がさっと深緑に翳って、車は母の葬られた墓地のある山道を登っていく。

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