第二十一章:偽りを断つ時――美生子十八歳の視点(三)
*****
「香港が本土回帰したのは僕が本当に小さな子供の頃だったよ」
五月も半ばを過ぎてすっかり夏仕様の冷房の利いた喫茶店。
コーヒーの甘い香りの漂う中で、温かな抹茶ラテを啜りながら母語でないからこその正確な日本語で話すテディは三十歳。自分のちょうど一回り上だ。
「周りの友達が次々外国に行っちゃったり大人同士が難しい顔して話し合ったりしていたのは覚えている」
「そうですか」
抹茶クリームフラペチーノ上部の真っ白なクリームをスプーンで掬って――「フラペチーノ」と名前は付いているが、自分にとってはストローで飲むドリンクというよりスプーンで掬って食べるかき氷に近いスイーツだ――口に運びながら頷いてはみるが、こちらにとってはそもそも生まれる前の話だ。
“香港は元はイギリスの植民地で一九九七年に中国に本土回帰したが、結果は言論の自由が弾圧されるなど元からの住民には不幸な状況になっているらしい”程度のことしか分からない。
だが、実際に現地から来た相手の言葉を耳にすると、そんな漠然とした認識しか持てない自分がいかにも
舌の上にふんわりした牛乳の味が生温かさを持って浮かび上がるように広がるのを感じる。
このクリームはいかにも甘そうに見えてそんな
「日本の年取った人たちは皆、中国に戻って香港の良い時代は終わったと言うんだけど、僕が育ったのは本土回帰してからの香港なんだよね」
お決まりのように繰り返し言われて困ったという調子で首を横に振ると、テディの小さな浅黒い面が苦笑いする。
白いシャツを着ているせいか抜き出た首も顔も鮮やかに浅黒いというか、肌全体が濃い蜂蜜を塗ったように見えた。
そういえば高校の頃に好きだった紗奈ちゃんと付き合っていた大河君もこのくらい色黒だったと思い出す。
恐らく彼は生まれつきだろうが、亜熱帯育ちのテディの肌の色も果たして生まれつきなのだろうか。
似通った顔立ちのハルは雪の降る郷里に相応しい蒼白い肌をしている。
「自分の育った所を貶されたら嫌な感じですよね」
安全な日本で生まれ育った自分がこう言うのも相手にはまた別な形で嫌味なのではないか。
そんな懸念を底に抱えつつ言葉を返した。
「日本は平和でいいよ」
テディの顔も声も飽くまで穏やかで、皮肉や当て擦りめいた色など見えない。
そこにホッとすると同時に、結局のところは自分が子供で相手が大人だから安全な振る舞いだけを見せてくれているのではないかとも思う。
「まあ、そこが取り柄ですね」
自分も地方から上京してきてまだ戸惑うことも多いが、街を普通に歩いていて警官に発砲されるとか逮捕拘束されるとかいう不安を覚えたことはない。
ネットに“今のこの国の政府はまるで駄目だ”と書き込んだとしても逮捕投獄はもちろんサイトとして処罰を受けることもないだろう。
「
銀縁眼鏡の奥の切れ長い目が一瞬、天井の微妙に曖昧な境界を見極める風に走った。
つい二ヶ月前まで高校生だった自分にとっては小学生、中学生、高校生の頃の記憶は明確に色分けされているが、この人が中学生だったのはそんな遠いことなのだと改めて思う。
「街で号外が配られてね。テレビもずっとチョン・コーウィン、チョン・コーウィン」
広東語読みの“
もっとも、こちらの思い描く彼は映画で演じた架空のキャラクターたちの融合、延長であり、そもそもの前提が既に虚構なのだが。
「僕のハハも彼のファンだから大騒ぎだったよ」
ハハ?
一瞬、間を置いて「母」と変換される。
え……?
虚をつかれるこちらをよそに一回り年上の相手は抹茶ラテを一口啜って付け加えた。
「チョン・コーウィンは僕の両親とオナイドシだから」
オナイドシ、と耳に届いた音声が頭の中で「同い年」という
「そうですか」
こちらも相手に合わせてスプーンでクリームに切り込む。
シャリッと下の若草色のフラペチーノまで掬い取れた。
何だか新雪の下の根雪みたいだと思いつつ口に運ぶ。
「レスリーも生きていれば、もう子供どころか孫がいてもおかしくない年ですよね」
別に驚くような話ではない。
口の中で生温かい牛乳味のクリームと舌触りは氷そのもののようでうっすら甘苦い抹茶フラペチーノが入り混じるのを感じながら、頭の中で逆算する。
レスリーは存命ならもう六十代。今、三十歳のテディくらいの息子がいても全くおかしくないのだ。
ただ、四十代でも二十代で通るような風貌だったのに加えて四十六歳で亡くなっており、しかも自分が彼を知った時点で死後数年を経ていたので、そうした実年齢に即した想像がしづらかった。
日本の俳優で言えば、真田広之が確かレスリーの三、四歳下だったかな?
むろん、レスリーと真田広之で俳優として出てきた経緯も演じてきた役柄も必ずしも似てはいないけれど。
そんな対応関係を改めて思い巡らしても違和感があった。
「僕の父みたいなおじいちゃんになったチョン・コーウィンはちょっと想像できないな」
固く真っ直ぐな黒髪の頭を傾けてテディは笑った。
――こっちはある日突然、置いてけぼりですよ。
不意に、清海おばさんのお葬式で会った、まだそこまでの年齢ではないらしいのに髪の真っ白だったハルの父親の顔と声が蘇った。
「私も思い浮かびません」
いや、レスリーが仮に年を取ったとしてあんな性根の卑しい爺さんになるわけがない。
テディのお父さんだってもっと品の良い老紳士とかそんな雰囲気の人ではないだろうか。
「でも、案外孫を可愛がる優しいお祖父ちゃんの役なんてやっていたかもしれないですね」
――どうして私を置いていくんだ。
「ルージュ」で
日本では「香港返還」とまるで香港が住む人たちごと品物であるかのように称された本土回帰の十年前に作られた作品だ。
あの映画では、実年齢では三十一歳のレスリーと二十四歳のアニタが――視覚的にはむしろ逆でアニタが姉さん女房じみて見えるが――戦前の香港で結ばれなかった恋人同士を演じていた。二人共もう亡い。
「チョン・コーウィンがお祖父ちゃんだったら子供や孫の役をやる人たちの方が大変だよ」
浅黒い笑顔がいたずらっぽくなった。
そういう表情をすると、いかにも快活そうに見える。
ハルよりこの人の方が大人だし、同じくらいの年の時もきっと明るかったのだろう。
「そうですね」
自分の答えに被せるようにして横から声が飛んできた。
「ここ空いてる」
「良かった」
隣のテーブルに学生風のカップルが腰掛けた。
自分たちは一体、どう見えるんだろう。
向かいのテディは穏やかに微笑んだ目でこちらを眺めている。
何となく目を落としてそろそろ溶けてきたフラペチーノをスプーンで掬う手を速めた。
*****
“GWは貴海おばさんたちと琵琶湖に行った”
LINEに投稿された写真に映る風景は説明されなければ湖というより海だ。
“水が澄んでいてびっくりした”
粒子のやや粗い砂浜に
これもまるで珊瑚礁の海だ。
琵琶湖って確か淡水湖のはずだけど、水の成分は何だったかな?
“一時間半のコースに乗ったらさすがにちょっと船酔いしてきつかったよ”
その後に投稿された写真には、蒼白いハルを真ん中にして似ていてやや浅黒い顔のマサキ君と小学二、三年生になったお下げ髪のシノちゃんの三人が甲板に並んで笑顔で映っていた。
三人ともどこか雛人形じみた切れ長い目の端正な面差しや日本人としては手足の長い体つきが一見して似通っており、事情を知る自分の目にすら、「年の離れた兄妹と再従兄弟」よりも「年子の兄弟と幼い末妹」という雰囲気だ。
マサキ君が清海おばさんのお葬式で会った中学生時代より色黒さが薄まった感じなのは、恐らく元の肌はさほど黒くはなく今は外で長時間スポーツする生活ではないからだろう。
一番小さなシノちゃんは
何だかこの年齢の子にしても却って気恥ずかしくて避けるようなステレオタイプな女の子らしい装いだ。
この子は自分が可愛いと知っていてそれを分かりやすい形でアピールしたいのだろう。
歯を見せない少し澄ました笑顔からもそう察せられた。
でも、それはこの子がきっと素直で健全だからなんだろうな。
生まれつき女であることに違和感がなく、ピンク色やリボンといった女の子らしいとされる物を疑問なく好んで受け入れているからこそ、自意識が出てくる年齢になっても妙な変化球をつけずにストレートな「女の子」になれるのだ。
そこに羨望と清々しさすら覚えた。
自分がこのくらいの時には頭はバレエ向けにハーフアップに結っているのに男の子向けのジャンパーやズボンを穿く中途半端な装いだった。
“しのちゃん可愛いね。大きくなった”
きっとこの子の方では親戚のおばさんのお葬式で一度見掛けたきりのセーラー服の自分のことは覚えてないだろう。
そう思ったところで自分のメッセージの脇に「既読」の表示が付いて新たにハルからのメッセージが来た。
“ミオの話をしたら自分も東京の学校に行きたいって”
“お兄ちゃんは京都に行ったしね”
シノちゃんが東京に行きたがっているのは一度会ったきりの俺がこちらに進学したからではなくお前が就職しようとしているからではないのか。
送られてきた写真の「女の子」の見本のような装いで十歳年上の再従兄に凭れ掛かる姿からは思慕めいた空気が感じられた。
自分も今のシノちゃんくらいの頃はターシャさんが好きだったし、あの頃のターシャさんは今の自分たちくらいだ。
と、見詰める液晶画面の上部に新たな黄色い雨傘アイコンの通知が現れた。
テディだ。
トクン、と胸がざわめくのを感じた。それが罪悪感なのか、高揚感なのかはアイコンの黄色の傘を人差し指で叩く自分でも計り兼ねる。
画面がハルとのやり取りからテディとのそれに切り替わる。
“明日は美術館前に現地集合で大丈夫かな?”
自分も何となく気になっていた展覧会のチケットをテディは二枚買って誘ってくれた。
“没問題”
「問題ない」は北京語でも広東語でも漢字にすれば同じ表記だから楽だと思いつつ、傍らの箱から出して蓋の上に置いた新しい靴を見やる。
今日の講義の帰りにぶらついたショッピングモールの靴屋で偶然見つけた、セール品の水色のエナメルのハイヒール。
明日はこれを履いてテディに会いに行こう。
こういう靴を履いて出掛けるのは初めてだが、一応は試着して自分の足幅にもゆとりがあると確かめたし、「ハイヒール」というほど極端に高く先尖ったヒールではないからきっと大丈夫だろう。
*****
「綺麗だ」
まだ梅雨に入る前の白々と煌めく陽射しを浴びた、肌がどこかキャラメルじみた滑らかな薄褐色に見える相手は銀縁眼鏡の奥の目を細める。
青葉じみた匂いが微かに漂ってくるのは、周りの緑からだろうか。それともこの人からだろうか。
「ありがとう」
降ろした長い天然パーマの髪に、やや緑の勝った濃いセルリアンブルーのフリルブラウス、それより淡い色合いのロング丈のチュールのギャザースカート、そして水色のエナメルのハイヒール。
目尻にうっすらピンクのシャドウを入れ、唇にもパールピンクのグロスを塗った(いつもの判子の朱肉じみた色のルージュだと何だかブラウスの色から浮き上がって派手過ぎる感じがしたので色自体は大人しめにしてツヤを出すことにした)。
「フィニの絵を観るから、あんまりみっともない格好は出来ないなって」
「君は最初から可愛いよ」
そうだ、この人はちょっと前の化粧気もなくダボッとしたTシャツにハーフパンツを穿いていた自分を知っている。
そこに今はむしろ安堵を覚えた。
「じゃ、もうチケットは買ってあるからそのまま行こう」
満員電車で立ち続けて駅からここまで歩いてきたハイヒールの爪先は少しきつかったが、ほんの少しだけ目線が高くなって、背も年も上のこの人に僅かに追い付いた感じも嬉しかった。
そう思うということは、やはり自分はこの人を好きなのだろうか。
中途半端に爪先立ちして足の先に靴を押し当てられた感覚を覚えつつ、新しい靴を引き摺らないように足を進める。
*****
「綺麗な人だよね」
隣のテディがぽつりと呟いた。
レオノール・フィニ。
イタリア人の母とアルゼンチン人の父の間に生まれ、幼い頃に両親は離婚、少女時代は自分を取り戻そうとする父親の手を逃れるために男装していたという。
展示されている写真は中高年以降で一般的な女性の服を纏った写真だが、吊り気味の黒い瞳にほとんど「一」の字に近いアーチ眉の鮮烈な、画家というよりむしろモデルや俳優にこそ相応しい洗練された風貌だ。
自分も頷いて返す。
「絵に似てる」
これは猫の顔だ。
吊り気味の鋭い目だが、狐というほどに他人を陥れる狡猾さや計算高さの見える表情ではない。
フィニの顔は気紛れさも残忍さも隠さない猫にこそ似ている。
むろん、猫にも「猫かぶり」という人の欺瞞を投影したイメージはあるが、フィニは身を守るために強者である人に擦り寄って甘える猫ではなく野性に戻った猫の顔をしていると思う。
実際、画集で見た作品にはどこかこちらを見据えるような不気味さを秘めた猫が良く出てきた。
「近寄ってきた男を殺しそうだ」
テディは銀縁眼鏡の奥の目を細めてカラカラと笑う。
いや、これはこの著名な画家に対しての評だ。
自分は化粧した今の顔でも素顔でもフィニとは似ても似つかないし。
だが、何故か胸の
*****
「これは若い頃みたいだね」
入り口で取った目録を手にしたテディは、しかし、絵と横のタイトルを照合する風に交互に見やる。
そうだ、この人にとって日本語は外国語でその下に記された英語の方が理解が早いのだ。
相手の所作に今更ながら思い当たる。
自分を含めた周りの日本人であろう客の中でただ一人、本来の母語でない言葉に囲まれているのだ。
「初めて観たよ」
「
自然に“私”という一人称が口から出たことに安堵しつつ絵を眺める。
“サソリの自画像”
これは
口を固く結んで横向き加減にこちらに鋭い眼差しを向ける表情からも敢えて女性らしい柔和さを拒絶するような、反抗期の少年めいた印象を受ける。
片手には灰色の手袋を半ば脱ぎかけた格好で嵌めており、その下からは小さな蠍の尻尾がはみ出している。
この肖像画から蠍のような毒を含むアーティストの自我の強さを読み取ることはむしろ容易だろう。
だが、ところどころ破けたトップスから覗く肘や腕からは傷付きやすさやむしろ本人が蠍に毒されているのではないかと思わせる痛々しさも浮かび上がるのだ。
ふわりと青葉じみたテディの匂いが鼻先を通り過ぎる。
我に帰ってまた爪先立ちめいた水色のヒールの足で追った。
*****
「ちっちゃい絵だね」
周りの客にうるさがられないように声を潜めてテディに告げつつ、展示品の中でも一際小さなその絵に見入る。
“守護者スフィンクス”
これは暗雲立ち籠める空の下、上半身はチリチリした長い黒髪に蒼白い肌、ふくよかな乳房を持つ若い女性、下半身は黒っぽく滑っこい毛に覆われた猛獣のスフィンクスが佇む絵だ。
この半人半獣の生き物の背後には昼顔じみた淡いピンク色の大きな布が近くの木の枝に引っ掛かって広がっている。
これはスフィンクスの居場所を示す旗のようでもあり、半身は乳房も露わにした若い女性を背後から護る
ピンクは恐らく海外でも女性の色という扱いだろうし、この枝に引っ掛かった布も前方に佇む半人半獣の乙女のセクシュアリティを示す背景に思える。
これがもし水色だったら、後ろの暗い空の色と相俟って全体が寒々とした印象になってしまうだろう。
そう思うとピンク色の布がスフィンクスを暖かに守るマントじみて見えてくるのだ。
一方で、スフィンクスのうら若い女性の顔は蒼白でまるで眠っているかのように瞳を閉じている。
「このスフィンクスはエロティックだけど、何だか死にかけているみたいにも見えるね」
テディの眼差しもスフィンクスの豊満な乳房より青褪めた瞳を閉じた顔に注がれているようだった。
その様を目にすると、何故かブラジャーのワイヤーが胸の下に食い込む窮屈な感触が思い出したように蘇る。
服に模様や色が響かないように表面がツルツルしたベージュのブラジャーにしたが、表地の色柄がどうだろうと暑い日にはカップの裏地が汗で蒸れて胸の下にワイヤーが食い込むことに変わりはない。
家に帰ったら汗疹が出来ないようにいち早くブラを外してシャワーを浴びなくてはいけないだろうな。
それとも、今日は家でないところでブラジャーを外すことになるのだろうか。
この人の目の前で。
ゾワッと背筋に震えが走って、それでいて全身に嫌な汗が滲み出るのを感じた。
「寒い?」
こちらに向けられた銀縁眼鏡の奥の眼差しは飽くまで穏やかだった。
「あ、大丈夫です」
何だか先走った想像をしていた自分の方が嫌らしくてゲスな人間に思える。
大体、この人からまだちゃんと告白されて付き合い始めたわけでもないし、自分より一回りも上の大人なんだからいきなりそういう関係を迫ってもこないだろう。
こちらの思いをよそに相手はやや急ぎ気味に次の展覧室に足を進める。
「ここのクーチョー、ちょっと強いからね」
耳に飛び込んできた「クーチョー」が一瞬、間を置いて「
日本語を外国語として学んだテディの方が母語として無意識に身に着けてきた自分よりある面では正確だと頭の片隅で妙に感心する。
*****
「やっぱり混んでるね」
小さな顔も長い頸もキャラメル色をしたテディが苦笑いして振り向く。
そうすると、美術館自体のカーペットや漆喰、そして周りの見物客の汗じみた匂いに混ざって青葉めいた香りが浮かび上がった。
「宣伝に使われた絵ですからね」
これ、訊いたことないけど、きっと高いオーデコロンか何かだろうな。
笑顔で返しながら推し量る。
自分もシトラスのデオドラントスプレーを点けているけれど、所詮はドラッグストアやコンビニで大量販売している安物だし、それ自体の芳香より汗の匂い隠しになれば良いというのが主目的だ。
テディの目には随分安っぽい匂いを漂わせて子どもじみた化粧を頑張っている女の子に映っているのだろうか。
確かに今日はまだ暗黙の恋愛関係としてのデートだと思ったから精一杯綺麗な女に見える装いをしたけれど。
そこにまた罪悪感と空恐ろしさが混ざるのを感じる。
さっと目の前にいる人の波が
目の前に現れた一幅の絵、というよりカンヴァスの上に切り取られた異世界の風景に背筋に震えが走る。
画集でも広告でも繰り返し目にしたイメージのはずなのに。
“世界の終わり”
これは文字通り、世界の終末の光景を描いた作品だ。
山火事のように赤く灼ける夕陽(終末の光景だから朝陽ではないだろう)と山の影を背に黒い泉が広がっており、そこに半ば沈んだ鳥や得体の知れない生き物に混ざって、豊かな銀髪の少女がゴム毬めいたふくよかな丸い乳房の半ばまで水に浸からせて冷たく碧い目を画面のこちら側に向けている。
画面の手前側には泉の畔の枯れ葉や枯れ枝が描かれており、画中の世界では動物はもちろん植物も枯死してしまったと知れる。
輝く豊かな白銀の髪と乳房、そして氷のように煌めく瞳の乙女だけが活きているのだ。
肢体は官能的だが、鋭い瞳の顔立ちや小さな唇を結んだ表情は中性的で気高く見える。
これは破滅する世界で一人だけ神仏のような永遠の命を得た乙女だろうか。
自分もこの絵のヒロインのように超然とした存在であれたら良いのに。
終末の世界を描いた作品なのにそんな羨望と憧憬を覚える。
「ファム・ファタルだね。破滅の女」
隣のテディを見やると、どこか痛ましげな眼差しで絵を見詰めていた。
「水に映っているのが本当の姿なんだろう」
え……?
思わず画中の黒い水面に目を落とすと、そこには冷たい目をいっそう光らせた、湖面から抜き出た姿と本来は同じ表情のはずなのにどこかおぞましい顔が映っていた。
ザワザワと今度は胸の奥から暗いものが湧き出てきた。
忘れて見ないフリをしてきた穴から思い出させようとするように。
「こっちには気付きませんでした」
画集でも広告でも繰り返し目にした絵なのに、見落としていた。
この人と一緒に見て教えられなければ、気付かないままだっただろう。
だが、知らなければ良かった、言わないで欲しかったという思いが纏い付いてくる。
「これ、観たかったんだあ」
斜め後ろから飛んできた、どこかに聞き覚えのある訛りを微かに帯びた少女の声に振り向く。
あ……。
「カナちゃん、ずっとそう言ってたね」
おっとりした口調で隣の中学生くらいの若草色のワンピースにセミロングに太く真っ直ぐな黒髪を切り揃えた女の子に語り掛ける背の高い――ちょうど自分の隣りにいるテディくらいの――男子大学生の姿に一瞬、息が止まった。
こちらの視線と微かに強張った気配に気付いたのか、琥珀じみた浅黒い肌に太い一文字眉、そして、ややギョロついた大きな目をした、一見すると兄妹じみた二人も振り返った。
四個の瞳が天然パーマのロングヘアを降ろした、パールピンクのグロスを唇に塗った、フリルブラウスにチュールスカートを穿いた、いかにも気合を入れてデートの装いをした女子大学生そのものの自分の姿に注がれるのを感じる。
サーッと全身の血の気が引くのを覚えた。
いや、俺は体に相応しい格好をしているだけだ。
頭ではそう知っていても、心には知り合いに派手な女装をして男と一緒にいるところを見つかったという後ろめたさが先に来る。
「長橋さん?」
相手はどこか信じかねる
隣のセミロングの少女もこちらの名前を耳にするとやはり驚いた風にこちらも大きな目をいっそう丸くする――と、自分の隣に立つテディの姿を認めると、その目がまるで裏切られたように虚ろになった。
「はい」
極力何でもない風にグロスを塗った唇の両端を強いて上げてごく何でもない風な友好的な表情を作る。
そうだ。確かこの坊ちゃまは
同じ中学だった
隣にいる
この子については「バレエ教室で年下の子たちの中にいた一人」という印象が強い。
人目を引く手足の長い姿形で踊りもそこそこ巧く、何より家が裕福なので――バレエを習わせる家庭の人間はこうした事情には特に敏感だ――同年配の子に対してはいかにも勝ち気な、はっきり言って威張った風にすら見えるお嬢さんだった。
その一方で、自分とハルがレッスンに連れ立って行き帰りする姿をことさら表情を消した風な固い面持ちで眺めていることもよくあり、四、五歳年下でどうやらハルを好きらしいこの子の中では自分たちの関係が何となく誤解されているようには感じていた。
と、真っ直ぐな太い黒髪を肩までのセミロングに切り揃え、ヒールを履いた自分とほぼ同じ目線にまで丈の伸びた体に若草色のワンピースを纏った相手はどこか皮肉な笑いを浮かべる。
「すっごく変わりましたね?」
――それ、凄くおかしいけど?
――あの子、下手だったけど辞めたんだ?
これはこのお嬢ちゃんが自分より下と見なした相手に対する時の顔と口調だと思い出しながら、こちらは飽くまで最初の友好的な笑顔を貼り付けたまま問い返す。
「そうですか?」
すると、相手の顔から皮肉な笑いすら消し飛んでギョロついた目が冷たく光った。
「おしゃれというより何か別な人に見せる変装みたい」
――ごまかすな。
――あんたなんか嫌い。
見掛けに比してまだ幼い声に込められた棘がフリルブラウスの胸を刺す。
「カナちゃんはずっと会ってないから」
大河はおっとりした声――彼にどうしても好意を持てない自分にすらこれを聞くと嫌でも育ちの良い人と分かる――でまだ中学生の従妹と大学デビューした同級生女子(としか彼にも見えていないであろう)に声を掛ける。
いや、お前だってあのハロウィンパーティの後は予備校の講習でたまに顔を合わせたくらいでずっと会ってないし、俺がこんなフリフリした服に化粧までして随分変わったと思ってるだろ。
庇われているはずなのに、そこに反発を覚えた。
「ミオコのお友達?」
隣のテディを見やると、むしろ自分が昔なじみに会ったかのように人懐こい笑いを浮かべている。
すると、言葉の微妙なイントネーションからこちらの連れが日本人ではないと察したのか、旧知の従兄妹の浅黒い顔に微かに固い表情が現れて、次の瞬間に少女はことさら感情を消した顔つきになり、年長の従兄の方は平生の穏やかな面持ちに戻す。
確かにこの同郷の二人は自分と同じ日本の雪深い地域の出身者よりも香港人というか中国の南方の人にこそ相応しい面差しをしていると頭の片隅で思いつつ頷いた。
「はい」
実際のところ、「友達」というほど親しくはない顔見知りだし、恐らくは相手も同じ認識だろうが、「違う」と答えると、相手への侮辱になって余計に嫌な空気になる事態しか想定できないのでそう答える。
いつの間にか笑いの消えていた自分の顔をテディの面に浮かんでいる人懐こい笑いに近付けるようにして続けた。
「学校や習い事の教室で一緒でした」
雑な紹介だが嘘はついていない。
「そうなんだ」
三十歳のテディは一回り下の自分たち三人を見回してごく明るい、どこにも皮肉や意地の悪さのない調子で頷く。
そうすると、若葉じみたコロンの匂いが仄かにこちらにまで漂った。
「じゃ、また地元に帰った時にでも」
大河は飽くまでおっとりした声で告げると、まだ固い面持ちで旧知の女子学生と初見の異邦人を見詰めている従妹を促すようにして歩き出す。
「ハルキくんに似てるよね」
小さく潜めつつどこか咎める風な少女の声が耳を刺した。
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