第二十九章:母体――美生子十九歳の視点

「もうお腹の赤ちゃん、大きくなってきてるんだね」

 すらりとした長身にクリスマスらしいエメラルドグリーンのセーターを纏った、午後のどこか薄暗い学内の廊下ではそこに立つだけで華やかな灯りを点したような、人化したクリスマスツリーじみた美咲は猫じみた大きな目を細めて笑った。

 真っ直ぐな黒髪に生じた光の輪が動くと、薔薇の匂いがほのかに届いた。

「もう二十四週で七ヶ月目だからね」

 こちらは上はフリマアプリで買った大きめのベージュのコートに母親に譲られたアイボリーのニットワンピースの突き出た腹に目を落として苦笑いする。

 妊娠した当事者だと週数で認識するが、第三者だともっと大まかな月数で把握するのが少しもどかしい。

 ましてここでは美咲はもちろん辺りを通り過ぎていく学生たちにも妊婦らしい人はないし。

「最近はお腹が苦しくてそんなに食べられないけど健診で計ると体重はどんどん増えてるよ」

 妊娠二十四週から妊婦健診もそれまでの四週に一回から二週に一回に増える。

 お腹の子に養分を送り、安全に産み出すべき体として精査される頻度が上がるのだ。

「大変だね」

「私もこれが初めてだから」

 毎月股に血が滲む度に頭を抱えた月経が無くなった代わりにこの体は「妊婦」という書いて字の如く「女」そのものの状態になった。

「ダーリンもこれから生まれるベビちゃんのために忙しいのかな?」

 ダーリン、とはしゃいだ風に笑う相手の笑顔に胸が痛くなる。

 美咲の中では――というより他の知り合いの中でも――自分は一時期は年上のテディと付き合って、今は幼馴染の恋人とできちゃった結婚した、そんな平均より男好きなくらいの「普通の女」なのだ。

「まあ、向こうはもう社会人だからね。今年入ったばかりの新入社員だし」

 今の自分は「笹川美生子」。笹川陽希の妻だ。LINEだと「笹川 長橋 美生子」と現在の姓と旧姓が並んだアカウント名になる。

 LINEではちょくちょくそんな女性名を見かけるが、昔の中国で「蒋介石しょうかいせき夫人の宋美齢そうびれい」という意味で「蒋宋美齢しょうそうびれい」とか呼び習わしていたのに似ている。

 ハルは「笹川陽希」のまま変わらないのに。

 婚姻届を出す際に自分は長橋美生子のままで相手に「長橋陽希」と改姓する要求も出そうと思えば出せただろうが、それはしなかった。

 生まれてくるのは飽くまでハルの子なのだから、それならば自分を含めて全員とも笹川姓を名乗った方が良い。

 その方が離婚して自分が長橋に戻った時も楽であるし――そこまで考えて、そういう自分にまた嫌悪を覚える。

 このお腹の子が生まれたら、俺はどうするのだろう。

 離婚して、子供はハルに託して、元の学生生活に戻るのだろうか。

 その後は留学なり就職なりして何もなかったように一人で生きていくのだろうか。

 そんな客観的には我が子を捨てるとしか言いようのない行動をハルはさておき自分の両親やハルのお祖母ちゃんといった人たちは許すだろうか。

――これは年明けまでちますから良ければ食べて下さい。

 もうすぐ曾孫の生まれる孫夫婦のためにあのお祖母ちゃんはこの前も林檎を一箱送ってくれた。

 そして、今、目の前で笑っている美咲も俺が産まれたばかりの子供ごと新たに築いたはずの家庭を捨てたと聞いたらどんな顔をするだろう。

 俺だって他人の話として聞けば、産んだらすぐに離婚して自分だけ一人の暮らしに戻るなんて何て身勝手な母親だ、捨てるなら最初から産むなとしか思わない。

 だが、元から俺は腹の中にいるこの子を妊娠したいとも産みたいとも思っていなかった。

 ハルが自分の外堀を埋めてこの子を産まざるを得なくしたのだという怒り。

 生まれてくる子にとって愛なく薄情な親は自分の方なのだという絶望。

 この二つがまた綯い交ぜになって息苦しくなる。

 いっそ、昔よくあった話に出てくる女性のように、このお腹にいる命を産み落としたら息絶えたい。

――お母さんは自分を産むと同時に息を引き取った。

 それが生き続けて生みの親としての自分を見せるより生まれてきた子にとっては幸福な結末であるように思う。

――お母さんは実は心は男性のセクマイでお父さんのことは全く愛しておらず、望まない妊娠と出産だった。

 誰がそんな出生を望むだろうか。

 お腹にいるこの命の出産予定日は来年の四月二日。この通りに生まれれば父子で同じ誕生日になる。この子はまさしくハルの子だ。

 産み落としたら俺は存在ごとこの世から消えれば良い。

 そう思うと、どこかウキウキした顔つきが大半の学生たちが行き交うクリスマス近いキャンパスの廊下で自分の立っている所だけ地面が割れて底知れぬ穴に落ちていく場面が頭を過った。

「お腹の子ってもう男の子、女の子のどっちか分かってるの?」

 薔薇の香りを漂わせながら、赤子のように無邪気な、どこにも意地の悪さなどない笑顔で相手はまた新たな棘を打ち込んでくる。

「女の子みたい」

 少なくとも体の性別は。

 自分もまだお母さんのお腹にいた頃は男とも女とも認識していない、その意味では完全な「女の子」、生得的女性だったのだと今更ながらに思う。

「どっちに似ても可愛いだろうね」

「だといいね」

 今の自分に出来ることは心も体通りの女の子であれと祈ることだけだ。

 精一杯の笑顔を作って続ける。

「じゃ、今日は彼も早く帰ってくるから」

「またね」

 生きたクリスマスツリーが輝くばかりの笑顔で返すのを目に焼き付けながら、小股の速足で歩き出す。

 本当はハルは今日も帰りは遅いのだ。

 だが、今は妊娠した姿を極力人目に晒したくない。

 マタニティマークはもらったきりバッグに付けずにいるが、まだ十九歳で年より幼くすら見える自分が七か月にもなる大きなお腹をして歩いていればそれだけで見知らぬ人の目線――好奇、憐憫、そして非難を込めた――が刺してくる。

 それよりはまだ新しく越したばかりの賃貸アパートの部屋で一人家事をして勉強していた方が気が楽なのだ。

 ハルは平日は大抵遅くに帰ってくるのでテーブルにラップを掛けた夕食を一人分置いて自分は先に入浴を済ませて床に就くのが最近のルーティンになっているし、今のところ、相手がそれに不満を述べたことはない。

 互いに暮らす上でやるべきことをして、喧嘩もせず、暴力を振るわれているわけでもないのだから、他人の目にはきっと幸福な新婚カップルだろう。

 今日はもう疲れたから、アパート近くのお弁当屋さんで割引のお惣菜を多めに買って帰ろう。

 学校に出てくる前に雑穀米のご飯はセットしてきたし、自分はそれだけ食べたらシャワーを浴びて寝てよう。

 そんな程度の家事でもハルは決して文句を言わないどころか、

――ミオはちゃんと食べられてる?

――疲れたら寝てていいよ。

とこちらを気遣うのだ。

 土日には炊事洗濯、後片付けまで全てしてくれる。

 自分が「子供を産む妻」としてある限りは向こうも偽りなく優しい夫であろうとするのだ。

 風というほどの勢いもない冷えた空気がニットワンピースの下に履いた黒のマタニティレギンスの脚の間を通り過ぎていく。

 これからもっと寒さの厳しい季節になるだろう。

 膨らんだ腹を抱えて常のせいぜい三分の二ほどの歩幅で進む自分を道を後から来た人たちが次々追い越していく。

 動作が鈍くなるのと反比例するように嗅覚の鋭くなった鼻に油と雑多な調味料の混ざった匂いが流れ込んできた。

 これは駅の出口近くに軒を並べた飲食店からのものだ。

 ここまで来ればいつも乗る駅はもうすぐだ。

 腹の中からはまだ小さな足が、しかし、こちらが身震いするほどの強さを持って蹴り上げてきた。


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