第十六章:なりたいものになれる日――陽希十五歳の視点

「本当に俺も行って大丈夫?」

 お祖母ちゃんが出がけに持たせてくれたクッキーの詰め合わせがあるから一応は飛び入りでも失礼には当たらないはずだ。

 頭ではそんな算盤そろばんを弾きつつやはり冬向けの厚手のジャケット――これもこの前、貴海伯母さんが送って寄越したばかりの雅希君のお古だ――を着込んだ胸のうちには不安が頭をもたげてくる。

「心配ないって」

 カーキ色の仮装の軍服を着込んで同じ色の制帽を緩い一つのお団子に結った頭に被った美生子は笑う。

「皆、優しい子たちだから」

蓮女れんじょのお嬢さんたちだからな」

 ミオは結局、地域でもトップの女子高に行った。

 むろん、そこが偏差値的に一番合っていたという事情もあるが、女としての自分を受け入れたのだろうか。

 高校受験前にバレエは辞めたが、髪はまだ長くしていて普段はハーフアップに結んでいる。まるで昔の人が好むと好まないとに関わらず髪を一定以上に伸ばしてまげを結っていたようにだ。

「他の子たちも兄弟や他校の友達を連れて来るみたいだし」

「彼氏とかじゃなくて?」

 小柄で胸だけ突き出た華奢な体に仮装の軍服を纏った相手はこちらのさりげない問い掛けにカラカラと笑った。

「いたら見物みものだな」

 十月末の、この地域では既に初冬の肌寒い空気の中で鼻をほんのり紅くした美生子の薄桃色の顔は円らな瞳を細めて飽くまで無邪気な笑いを浮かべている。

 お前は俺とはそうなりたくないのか。

 いい加減もう慣れても良いはずなのに重さを増してくる痛みを押し隠しつつ問いを重ねた。

「その格好は軍人?」

 ハロウィンパーティだしやっぱり俺も地味でも何かの仮装をすべきだったのだろうかと改めて悔やみつつ、落ち葉の舞ういつもの近所の風景からは明らかに浮き上がって見える相手の出で立ちに微かな安堵も覚えた。

 美生子の面が笑顔のまま微かに寂しくなる。

「一応、川島芳子かわしまよしこのつもり」


*****

 これはやっぱり場違いだった。

 パーティ会場(といっても美生子の同級生宅の客間だが)にはバニーガール風のヘアバンドを着けたメイドやもののけ姫、ティンカーベルとペリウィンクル(この二人は似通った顔と体型からして実際にも姉妹だろうと知れた)等、思い思いの仮装をした女の子たちで賑わっている。

 ここでは普段着のジャケットにジーンズを穿いた自分こそがTPOにそぐわないのだ。

「ミオ、その服はどこで買ったの?」

 レース貼りの羽を背中に着けた姉妹の内、ポニーテールに緑のワンピースを着たティンカーベルの方が尋ねた。

「ネットで探して買った。そっちは?」

「うちは二人で布地は買ったけど、後はほとんどマイが作ったよ」

「凄いね!」

「ユイちゃんの着たいティンクの衣装はネットにもあったけど、私の着たいペリウィンクルのは無かったからお揃いで両方作ろうと思ったの」

 今度は垂らした髪をムースで固めて水色のスパッツを穿いた方が語った。

 どうやらティンカーベルが「ユイちゃん」で、ペリウィンクルが「マイちゃん」のようだが、初見で改めて自己紹介し合う空気でもないので、本名なのに漠然とした仮名のように聞こえる。

 美生子以外は全員とも初めて会った、互いに名前すら曖昧な、今日別れたらまたちょくちょく顔を合わせる機会があるかも怪しい子たちである。

 むろん、どの子の容姿も雰囲気も決して悪くはない。

 だが、「この子とは何とか連絡を取り合って一対一で親しくなりたい」と思うほど惹かれる顔は今一つ見出だせないのだった。

 恐らくそれは女の子たちから見た自分も同じだろう。

 大体、俺だけつまんない普段の服装で来てる空気の読めない奴だし。

 そう思うと、漆喰や洗剤の混じった他家の特有の匂いを吸い込む胸の奥が微かに痛んで塞ぐのを感じた。

「ボクはお裁縫苦手だから一から作るなんて無理だなあ」

 軍服の美生子は口調もドラマに出てくる川島芳子をなぞって応じる。

 もしかして、男言葉を使いやすいように、むしろ似つかわしく見えるようにこの仮装にしたのだろうか。

 漠然と察してはいたが、それが確信に変わりつつあるのを感じた。

「あたしは漠然とメイドさんの服にしたからきっちりした有名キャラじゃないなあ」

 照れ笑いしつつ、バニー風ヘアバンドのメイドは二リットルペットボトルの紅茶を開けて近くの紙コップに注ぎながら尋ねる。

 レモンを仄かに含んだ甘い香りがうっすら広がってこちらまで届いた。

「他にも飲む人いる?」

「こっちにもちょうだい」

 ソファに腰掛けてスマートフォンを覗いていたもののけ姫がそれをしおに立ち上がって女の子の輪に入った。

「うちもペインティングだけは自分でやったけど後は買わないと無理だった」

 カップの紅茶を啜りながらもののけ姫は苦笑いして付け加えた。

「今、LINEが来たんだけど、後一人はちょっと遅れるみたいだから先にお茶やお菓子を摘まんで待ってよう」

「じゃ、ボクはこの麦茶貰うよ」

 制帽の美生子は男装の王女の口調で告げると、華奢な軍服の肩を振り向けた。

「ハルも飲む?」

 そこで一斉に思い思いの仮装をした少女たちが自分に眼差しを向けた。

「ああ」

 急に自分がお姫様たちのパーティに付き添いで来た従者か何かのように思えた。

「お願いします」


*****

「ミオとは産まれた病院まで一緒だったんだ?」

 双子の妖精に扮した姉妹は揃って紙コップを手にしたまま良く似た顔に同時に驚きの表情を浮かべた。

「お母さん同士も幼馴染みなんで」

 俺の方のお母さんはもういないけれど、そんな重たい話まではここでする必要はない。

「何か漫画とかに出てきそうな話だね」

 バニー風ヘアバンドのメイドは微かに飾りの長い耳を揺らしながら笑って付け加えた。

「ロマンチック」

「そんなんじゃないよ」

 先に笑い飛ばしたのは軍服姿の美生子だった。

「えー、幼馴染みの恋人なんて漫画やドラマの定番じゃない?」

 フェイクの兎の耳を頭に立てたメイド少女はまるで自ら注いで飲んだ紅茶で酔ったように頬をうっすら染めて問い返す。

 この人はいわゆる恋バナ好きなんだろうな。

 どこにも意地悪な所などない、むしろ無邪気な笑いを浮かべた相手を眺めながらそんな察しを付ける。

 他人の境遇を羨んでいるようで、実際のところは頭の中にある恋愛ドラマや漫画のイメージを当てはめて本人が楽しんでいるのだ。

 まあまあ可愛いし人懐こい感じだから本人にももう彼氏がいるのかもしれない。

 多分、この人は気の合う友達と楽しく遊ぶ延長で手近な受け入れてくれる相手と当たり前に恋愛して、周りにも疑問なくそんな前提で接していくんだろうな。

 いや、それが素直で健全な成長をした人なんだ。

 ミオとは色気のない兄弟のような間柄のフリをして、寝る前にミオに似た女の人が出ているポルノ動画をこっそり観ている俺の方がよほどひねくれている上に、陰湿で嫌らしい。

――ピンポーン。

 客間に玄関からの呼び出し音が響き渡った。

「来たよ」

 主催者のもののけ姫は皆に告げると、仮装の毛皮の背を見せて小走りに出ていく。


*****

 あ……。

 思わず声にならない声が出る。

「ああ、笹川陽希ささがわはるき君、だよね?」

 ハロウィンパーティの最後に現れた、主催者の白い毛皮のもののけ姫に対して藍色の装束で蝦夷えみしのアシタカの仮装をした客は驚きつつもおっとりした口調で尋ねた。

「はい」

 遅れてくる最後の一人も可愛らしく仮装した女の子かと思っていたら、同じ中学から今は地域トップの男子高に進んだ大河たいが先輩だった。

 部屋の女の子たちの視線がこの長身の、琥珀こはくじみた肌をした、太い一文字眉にややギョロついた大きな目の少年に移動する気配を感じた。

“この暗くて冴えない一つ下の子よりもっと目を引く仮装のイケメンが来た”

 そんな風に思われている気がして普段着のジャケットとジーンズを着てソファに腰掛けた尻の辺りがまたモゾモゾする。

 別にこの女の子たちの歓心を買いたいわけではないが、そんな風に内心で比べられて見下されていると感じるのはやっぱり気分の良いものではない。

「あれ、知り合いなの?」

 もののけ姫が自前のペイントを施した顔に驚きを浮かべた。

 改めて見直すと、ややギョロついた目といい尖り気味の顎といい隣のアシタカと似通った面影がある。

“夫婦はいとこほど似る”という言葉が頭を過ぎったところで、軍服姿の美生子が強張った声で答えた。

「同じ中学だから」

 制帽で目を影にした顔は常の薄桃色から心持ち白くなりつつある。

 これはまずい兆候だ。

「あれ?」

 仮装のアシタカは大きな目をいっそう丸くする。そうすると、真顔だと少し険しげな面差しに愛嬌が出た。

「長橋さんか」

 ゆったりした話し方で親しくない人間にもこの先輩が育ちの良い人だと分かる。

「その格好だから分からなかった」

「男装の王女だからね」

 蒼ざめたというより血の気が引いて白くなった顔の美生子は華奢な体には明らかに肩幅の余った軍服の、そこだけ突き出た胸を張った。


*****

「じゃ、夏休みが終わってから二人、付き合い出したばっかりなんだ?」

 メイド服は新たにクッキーをつまみながら先程よりももっと楽しげにフェイクの兎耳を揺らして笑う。

「カップルのコスプレとか憧れるなあ」

 当のカップルよりもウキウキした表情でクッキーを齧る姿を見ながら、何だか本当にニンジンを齧る兎みたいだという苦笑とお祖母ちゃんの持たせてくれたクッキーがこんな風に他の客から無心に消費されて良かったという安堵が入り混じる。

 だが、バニーの隣に腰掛けた川島芳子の方は色を失った顔に引きつった笑いを貼り付けたまま、もののけ姫とアシタカの二人を眺めている。

 ああ、これはミオが無理をしている時の顔だ。うんざりするような既視感と共に幾分温ぬるくなった紙コップの麦茶を啜る。

 多分、ミオはこのもののけ姫の仮装をしている子が好きなのだ。それが大河先輩と付き合っていると知ったからショックを受けているのだ。

 口の中に冷たさが消えて舌触りが柔らかになった代わりに藁じみた苦みの増した麦茶の味がこびりつく。

 同じ幼稚園で先にバレエを習っていたリエちゃん、ターシャさん、そしてこの仮装のもののけ姫。

 他にもごく短期間でも美生子が目で追っていた女の子はちょっと思い出しただけでも次々浮かんでくる。

 こいつは随分惚れっぽいのだ。長く好きでいると拒絶された時の痛手が大きいから次々思い入れる相手を変えているのかもかもしれない。

 だが、いつも望みのない、決して打ち明けられない片想いを繰り返している。

 ふと視線を感じて振り向くと、ティンカーベルとペリウィンクルに扮した姉妹が揃ってポッキーを齧りながら似通った顔に苦笑を浮かべてこちらを眺めていた。

 カッと顔が熱くなる。

 どちらがユイちゃんでどちらがマイちゃんか分からないが、俺がミオに望みのない片想いをして目で追っていることを今日会ったばかりのこの二人にも気取けどられたようだ。

 グイと手にした残りの麦茶を飲み干したところで不意にまた別な方から声が飛んだ。

「笹川君てバレエやってるんだよね」

 おっとりした口調だ。

「ああ……」

 虚を突かれて曖昧な声を出してから付け加える。

「今年はもう受験なんで辞めました」

 本当のところはミオが辞めて張り合いが無くなったのだ。

「バレエやってたなんて言っても、俺は教室でも微妙な方だったんで」

 こちらを鷹揚に眺める琥珀じみた色黒の顔を見詰め返しながら、ふと教室でいつも前の方で踊っていたサーシャのミルクじみた肌に金髪碧眼の面影が頭をぎる。

「イケメン」とか「美少年」というのはサーシャのような人を言うのだ。

 大河先輩は実際のところ造作としてはそこまで整ってはいない。

 ただ、背が高くて見栄えがするのと、勉強も運動も出来てその面でも目を引くのと、何よりも自信や余裕のある態度が女の子からも好かれるのだろう。

 自分にはそんなひろさはない。そう思い至ると、いつものジャケットを着た自分がいよいよ場違いな上にみすぼらしく感じられてくる。

「そうなの?」

 君はもっと出来るだろうという調子で仮装のアシタカは穏やかに笑って続ける。

「俺のイトコでカナちゃんという子がいるんだけど、バレエ教室にいる笹川君のことをかっこいい、かっこいいと会う度に言うんだよ」

「カナちゃん、ですか?」

 バレエ教室で一緒だった同世代の女の子たちを思い返しても覚えのない名だ。

「今、小学五年生だから教室ではそんなに関わりなかったかな」

 相手は飽くまでのびやかな調子で語った。

「女の子は小さくてもしっかり見てるから敵わないよ」


*****

 十月も末の夕暮れは、空は晴れていてジャケットを着込んだ背中は十分温かくてもまだ手袋を嵌めていない手に触れる空気は冷えて乾いている。

 明日からはもう十一月だ。暦の上ではまだ秋の括りに入れられてはいても体に感じる空気は冬に片足を突っ込んでいる。

「ハルが持ってきてくれたクッキー、売れ行き良かったね」

 制帽で目を影にした美生子の声は最初は上ずったように明るい調子だが、どんどん寂しさが滲み出す。

「あっという間に無くなっちゃった」

 お前が本当に話したいのはその事じゃないだろう。そこまで喉元に込み上げた所で仮装のカーキ色の軍服の背中がぽつりと呟いた。

「サナちゃん、やっぱり大河君と付き合ってたんだなあ」

 肉薄の華奢な肩越しに、行手の街路沿いに植えられた、たわわに実った柿の木が見える。

 既に熟した実は夕暮れの陽を浴びていっそうあかく照り映える。

 いかにもおいしそうだ、でも、渋柿かもなと思いつつ、街路樹という皆の物のようで誰の物でもない木に実っているから一度も手を出して齧ったことはない。

「俺と二人で喋っててもちょくちょく大河君の名前が出てくるからそんな気はしてたけど」

「ミオはさ」

 口にしてからワーッと体の中の血が湧き上がって握り締めた拳に冷たい汗が滲んだ。

「あのもののけ姫の格好してたサナちゃんが好きなんだね」

 立ち止まって振り向いた美生子の顔は無表情な、しかし、逆光で蒼白く浮かび上がって見える。

「リエちゃんやターシャさんも好きだったよね」

「ハル」

 相手は虚ろな声だ。

 出来るだけ何でもない、大河先輩のような相手の良い可能性を当たり前に信じている笑顔でなければならない。

「ずっと前から知ってたよ」

 あかく燃える夕陽が自分の顔を照らし出すのを感じた。

「だから、俺にはもう隠さないでいい」

 ジャケットを脱いで、冷えた空気がサッと背や腕を取り巻くのを感じながら、相手のレプリカの軍服の肩に掛ける。

 他人が見たら彼氏が彼女を気遣う中高生カップルと思うだろうなと苦笑しつつ、こんなペラペラの、服というより服の形をしたオモチャを身に着けてミオはこんな寒い道を歩いていたのだ、もっと早く気付いてやれば良かったと舌打ちしたくなる。

「ありがとう」

 自分より頭一つ分背の低い美生子は俯いたまま、しかし、確かな声で答えた。

 ホッとする一方で、俺の方の本心は隠し続けなければいけないのだ、二人の間で口にすれば今の繋がりに亀裂が入ってしまうものなのだと改めて胸が締め付けられる。

「帰ろう」

 たった今、被せた自分のジャケットの上から相手の背中に触れて押す格好で再び足を前に進め出す。

 後ものの数分も歩けば、ミオの家だ。

 このまま着かなければいいのに。ずっと二人で並んで歩いて行ければいいのに。

 眩しく顔を照らし出す夕陽が次第に宵のあいに浸されていくのを感じながら、かぼそい枝に熟した重たい実を着けた樹の下を進んでいく。

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