第十一章:小さくても女――美生子十一歳の視点

「いやあ、この時期は蒸しますねえ」

「盆地だから夕方辺りが一番ムシムシするんですよね」

 お父さんや伯父さんたちが茹で上がったばかりの枝豆を摘みつつビールを呷り始めた。

 お盆の親戚の集まりは苦手だ。

 特に、今年のようなお祖父ちゃんの初盆で普段の盆暮れでも顔を合わせない、率直に言って、正確な繋がりも分からない人も集まる時は。

 だからこんな風におじさんたちの煙草の臭いが薄まる部屋の隅で小さくなって文庫本をめくる。

 小六の自分にはやや手こずる大人向け翻訳の「嵐が丘」はちょうど佳境を迎えたところだ。

“ヒースクリフはあたしです!”

 紙面では荒野に向かってキャサリンが叫んでいる。

 旧家の令嬢のキャサリンと孤児のヒースクリフ。異性であるこの二人の関係は「恋人」という括りで一般には説明されるし、実際そう読むのが正しいと思える場面も多い。

 けれど、この下りを見ると、「魂の双子」というか、愛情も憎悪も見えないチューブで共有している関係に思えるのだ。

「美生子」

 台所からのお母さんの声で現実に引き戻される。

「ちょっと手伝って」

 言わなくても分かるでしょ、とその顔は告げている。

「はい」

 文庫本に栞を挟んで立ち上がる。


 *****

 青臭い湯気の漂う、居間より格段に蒸し暑い台所ではお祖母ちゃんが鍋をかき回す一方で伯母さんたちが皿に料理を取り分けたりお茶を淹れたりしていた。

「女の子なら言われなくても手伝いなさい。気が利かないんだから」

 お母さんは我が子を叱るよりむしろお祖母ちゃんや伯母さんたちに謝って聞かせる調子だ。

 自分が本当に男ならこんなことは言われないだろう。

 まあ、お祖母ちゃんたちにだけ働かせて知らんぷりする仲間になるのは確かに図々しくて嫌な感じだから手伝うけど。

 不意に鍋を掻き回していたお祖母ちゃんが振り返った。

「ミオちゃんもゆっくり覚えればいいんだよ」

 白い湯気にうっすら覆われた笑顔の穏やかさはそのままだが、お祖父ちゃんのお葬式から半年余りで何だか痩せて体が一回り縮んだ気がする。

「私も家庭科やってるからちょっとは出来るよ」

 お祖父ちゃんが生きている時も台所でご飯やおやつのとうもろこしを茹でていたのはお祖母ちゃんだった。

 そのお祖父ちゃんももう亡くなってこんなに年老いた体になったのに、実の息子であるお父さんたちはどうしてお祖母ちゃんを相変わらず台所に立たせて自分たちは酒を飲んでいるのだろう。

 居間からはテレビの音とおじさんたちの笑う声が響いてきた。


*****

「もっと天ぷら食べなさい」

 お母さんが取り箸で空になった取皿にささみのてんぷらを移す。

「もういいよ」

 腹六分くらいだから後は麦茶をガブ飲みすれば事足りる。

「鶏肉の天ぷらは好きでしょ?」

 お母さんの言葉に離れた向こうに座っているお祖母ちゃんも寂しげな目を向けた。

「うん」

 これはお祖母ちゃんがわざわざ揚げてくれたものだからやっぱり食べよう。

 醤油を着けた天ぷらを齧ると少し冷めてはいるが香ばしい味が口の中に広がる。

 小さな頃からこの家に来る度にお祖母ちゃんは自分の好きな唐揚げや鶏の天ぷらを出してくれた。それにこの料理自体は嫌いになった訳じゃないし。

 麦茶と一緒に飲み下すと二つの味が入り混じって妙にイガイガした感じが喉の奥に残った。

「最近、私、凄く太っちゃって」

 身長と体重の数値的な兼ね合いからすればまだ標準の範疇だが、問題はそこではない。

 買ってもらったばかりのスポーツブラの胸が思い出したように締め付けてくるのを感じる。

 同時に隣の母親の向日葵柄のTシャツの胸が妙に飛び出て見えた。

 お母さんが大きいから自分も大きくなるかもしれない。

 この前、取り込んだ洗濯物を畳むのを手伝った時にそれとなく確かめた母親のブラジャーのサイズは“E75”即ち“Eカップ”だ。

 自分もそうなるのだろうかと思うと、すぐ隣に座す胸も尻も豊かな母親の体つきが急にいとわしいものに見えてくる。

 そういえば、最近、体操着のハーフパンツも少しきつくなってきた。背丈からすればまだ余裕があるはずなのに。

「バレエ教室でも一番太ってるくらいだから」

 本当はもっと太めの人もいるけれどそう言っておく。

 お母さんもお祖母ちゃんも伯母さんたちもそれぞれ苦笑いした。

 多分、皆、俺が年頃の女の子らしく痩せたがっていると思ってるんだ。そこに一抹の安堵と後ろめたさを感じる。

「バレエやってるんだ?」

 すぐ向かいに座った伯父さん――正確な関係性は分からないがこういう法事では顔を合わせる人だ――がビールの入ったグラスを手にしたまま驚いた風な声を出す。

 あ、余計なこと言っちゃった。

 この伯父さんは悪い人というほどではないがどうも苦手だ。

「将来はバレリーナにでもなりたいのかい」

 バレリーナ、とわざと取り澄ました風に口にする時に微かな揶揄の笑いが赤く脂ぎった顔を過ぎった。

 周囲の大人たちも苦笑してこちらを窺っている気配がする。

「いや、私、教室でも全然上手な方じゃないし、厳しい世界でバレエダンサーになりたいとかいうのはないんで」

 どうしても“バレリーナ”という言い方は避けてしまう。

 かといって“バレリーノ”にもなれない(そもそもこのおじさんに“バレリーノ”と言っても多分馴染みのない言葉だろう)。

“バレエダンサー”なら男も女も含まれるから安全だ。

「外国語を勉強して外国に行きたいです」

 本当は誰も自分を知らない土地に行きたいのだけれど、こう言っておけば角の立たない「良い子」でいられる。

「外国?」

 相手はまるでそれ自体が耳慣れない外国語であるかのように鸚鵡おうむ返しする。

「この子、レスリー・チャンが気に入って最近、その映画や本ばっかり観てるんですよ」

 お母さんの呆れたような、どこか安心したような笑顔が微かに胸に刺さった。

 これは、きっと、自分が会ったことのない芸能人でも一応は男性を恋愛として好きになったと思っているからだ。

「あれ、ホモで自殺した人だろ」

 ゲラゲラで目の前の脂じみた顔が嗤う。

 周りの大人たちにも堪えた風な苦笑が広がった。

――“ホモ”って差別用語だから使っちゃいけないんですよ。

 このおじさんにそう説いても小馬鹿にして流すのがオチに思えて言い出す気になれない。

 というより、もし俺が女の子を好きで自分を男としか思えない子供と知ったらこの人は床でも叩いて笑い転げるんだろうな。

 そして、周りもやっぱり薄ら笑いして咎めもしない。


 *****

 いつもの自分の部屋と違う板張りの天井。

 豆電球でうっすら暗いオレンジに照らし出された畳張りの床。

 うちとは異なるレモンじみた洗剤の匂いのするタオルケット。

 カーテンを閉めた窓の外からはザワザワと木々の枝葉の揺れる音がする。

 疲れているはずなのに寝付けない。

 ふと傍らの空の布団を見やる。

 この家に泊まりに来た時はこの一階の和室でお祖父ちゃんお祖母ちゃんと川の字になって寝るのが常だった。

 今夜は二枚の床で部屋全体が妙にガランとして見える上に一緒に眠るはずのお祖母ちゃんもあれこれ後片付けに追われていてまだ来ない。

 ザワザワと風が木々を騒がせる音に妙に胸がどきついて思わず布団から出てカーテンを捲った。

……おや?

 声には出さないが驚いて目を見張った。

 この家は山に面して建てられているので、窓の外は夜には暗い森そのものの眺めになる。

 だが、今夜は窓のすぐ傍にまるで薄灯りのように一株の山百合が黄緑色の蕾を一つ間に置く形で二輪の白い花を咲かせている。

 同じ株に咲いた、大きさも白い花びらのめくれてカールした形もそっくりな二輪の花は、しかし、互いにそっぽを向くように反対の方角に向けて開いていた。

 どちらの花も中央に一本の雌蕊が長く突き出ていて朱色の花粉を見るからにたっぷり付けた六本の雄蕊が取り巻いている。

 山百合は一輪で男女両性を具有しているというか、一輪の中で生殖が完結していて他の花を必要としないのだ。

 あの真ん中のまだ閉じた紙風船じみた蕾も中では雄蕊と雌蕊が育っていてこれから同じようにふたなりの花が開くのだろう。

 ふとスポーツブラをしていない乳房が水色のコットンのパジャマに擦れて乳首がまた痛んだ。

 自分の体は何故「女」という性別に相応しい形に変わっていくのだろう。

「男」としか思えないのに「女」に分類される体に生まれ、そのカテゴリに似つかわしい姿に変容していく。

 俺にはこの生まれつきの体こそ全く自然に思えないのだ。

 古い家の畳と木の板張りの匂いが思い出したように鼻先を通り過ぎるのを感じながら、今度は胸の奥に暗い穴がまた渦を巻くのを覚える。痛みを滲ませながら。

「あら、まだ寝てなかったの?」

「ああ」

 暗がりの中で思わずビクリとしてお祖母ちゃんを振り返った。

 お風呂から上がって髪を乾かしたばかりらしい相手がやっぱり以前より一回り小さく見えることにまた微かな痛ましさを覚える。

「そこの窓の外に咲いている山百合が綺麗だなと思って」

 お祖母ちゃんにはこれがいつもの風景なんだろうな。

「本当ね、気付かなかった」

 予想に反して相手は目を丸くした。

 お風呂で使うミルクじみた石鹸の香りと共に近付いてきたパジャマ姿のお祖母ちゃんは落とした声で付け加える。

「最近、この部屋はカーテンも閉じっ放しだったから」

 夜風に揺れる二輪の花と黄緑の蕾を見詰めて一回り小さく萎びたお祖母ちゃんの顔に寂しい笑いが浮かんだ。

「お祖父ちゃんも山百合が好きだったの。朝一緒に散歩していても、“そこに山百合が咲いてるね、見えないけど匂いで判る”と」

 お祖父ちゃんは死の二、三年前には目が不自由になっていたが、お祖母ちゃんが手を引く形で毎朝の散歩を続けていたのだ。

「近くに咲いたのはやっぱり触って確かめた。"これは咲きかけ、これは綺麗に咲いてる、これはまだ蕾、こっちはもう散った"って」

 孫の自分が会いに行った時も顔や肩を撫でて確かめたものだった。

――ミオちゃん、また大きくなったねえ。

 ふと水色のパジャマの肩に萎びてシワシワになった、しかし、温かな手が優しいミルクに似た石鹸の香りと共に置かれた。

「もう遅いから寝ましょうね」

 厚地のカーテンを元通り閉じた、暗いオレンジの豆電球の灯りだけが点いた中ではお祖母ちゃんの顔は良く見えない。

 だが、その声には少し涙が滲んでいた。

 お祖母ちゃんはお祖父ちゃんが居なくなって寂しいんだ。

 だから、余計に老け込んで小さくなってしまったんだ。

 布団に寝転がってレモンじみた匂いのするタオルケットを被りながらそんな相手が痛ましくなる一方で、自分には将来そんなパートナーが持てるだろうかと再び底の見えない暗い穴が瞼の裏に広がっていく。

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