第十章:欠けたもの、得たもの――陽希十歳の視点
「ママ、おっせえなあ」
隣の座席で十一歳になったばかりの雅希君が真新しいエメラルドグリーンの半袖を着た上体を起こして伸び上がると、またクタリとシートに凭れる。
その反動で停車しているミニバン全体が微かに揺れた。
「俺には早くしろ、早くしろいっつもうっせえくせに」
この一つ上で小五になる
「女子トイレは混んでるんじゃないかな」
お下がりで貰った黄緑の半袖を纏う自分は宥めるつもりで言葉を掛けつつ、バックミラーで隣の母親を確かめる。
お母さんは窓ガラスの外の五月の青葉に見入っているようだ。
そこに一抹の安心を覚えつつ、油断は出来ない。
ゴールデンウィークや夏休みに雅希君の家に遊びに行って、時にはこんな風に一緒に泊まり掛けの旅行もする。
貴海伯母さん(正確には伯母さんではなく母親の従姉だが、うちではそう呼んでいる)や雅希君たちは笑顔で迎えてくれる。今まできつく叱られたことなどはない。
しかし、そこに甘えると、お母さんは帰った後に必ず怒るのだ。
――伯母さんのうちで出されたお菓子をあんまりバクバク食べないで。普段うちで食べさせてないみたいで恥ずかしい。
――伯母さんやお母さんたちが夕飯の用意をしている時に手伝いもせずにゲームしてるんじゃない。そういうのを気が利かないって言うの。
自分はいつも出された分のお菓子しか食べたことはないし、それ以上をねだったこともない。それに雅希君はゲームしていても怒られないのだ。
――せっかく遊びに行って楽しんでるんだから、そんなに怒らなくてもいいじゃないの。
お祖父ちゃんお祖母ちゃんがそう取りなしても、お母さんはまるで自分を連れてよその家を訪ねることそのものが恥であるかのように忌々しい顔つきを変えない。
胸に影が差してくるのを覚えながら声は努めて穏やかにして付け加えた。
「
貴海伯母さんには去年の暮れに新たに女の子が生まれた。
「詩乃が生まれてから家でも外でもミルクだオムツだ、俺は待たされてばっかり」
自分が持っていない新しい服も、ゲームも、弟妹も手に入れている雅希君はまた不満を口にする。
「雅希だって赤ちゃんの頃はそうだったんだよ」
不意に運転席から伯父さんの声がした。
バックミラーの顔は優しく微笑んでいる。
伯父さん、今までずっと俺らのこと見てた?
思わずギクリとしてから、いや別に自分は悪いことはしていないという開き直りといちいち親戚の目にビクビクしている自分への微かな苛立ちが入り雑じって押し寄せる。
伯父さんは怖い人ではないのに。
「皆、最初は赤ちゃんなんだから」
伯父さんは飽くまで穏やかに語った。
雅希君にも詩乃ちゃんにも最初からこのお父さんがいるのだ。
――ガラガラ。
突如、ミニバンの扉の開く音と共に座席全体が微かに震動して、さっと青葉とアスファルトの匂いを含んで仄かに蒸した空気が流れ込んでくる。
「私が抱っこしてるから」
車から降りた母親は伯母から真新しいピンクのベビー服を着た赤ちゃんを受け取った。
「ありがとう」
貴海伯母さんは詩乃ちゃんが生まれてからいっそうふくよかになった笑顔で頷くと、ミニバンに乗り込んでチャイルドシートを取り付け始める。
「詩乃ちゃんのお席もすぐ出来るよ」
母親は近頃また肉の落ちた頬に笑いを浮かべて赤ちゃんに話し掛けている。
普段は自分に決して向けることのない温かな笑顔と柔らかな声だ。
何だか俺より詩乃ちゃんの方がお母さんにとっても大切で可愛いみたい。
ミニバンの座席に腰掛けて初夏の微かに汗ばむ空気に浸されたまま、自分の体が透明になっていくような、むしろ、そのまま消えてしまいたいような気持ちに襲われる。
*****
「じゃ、これはお前に貸すから」
リゾートホテルの屋内プール。
大きな浮き輪を手渡すと、雅希君は伯父さんもいるロープで仕切られた向こうのコースに向かう。
俺もやっぱり水泳やれば良かったかな。
クロール、背泳ぎ、平泳ぎと来てやっとマスターしたばかりだというバタフライを父親に続いて泳ぎ出した再従兄の姿に思う。
バレエなんて学校の授業ではやらないし。
――おめえ、何で男のくせにバレエやってんの、オカマ?
四年生で新しく一緒になった男子クラスメイトの嘲りを含んだ顔と声が過る。学年が変わろうがクラス替えしようがそんな風に馬鹿にしてくる奴は一定数いるし、こちらがどのように答えようが嗤い続ける。端からこけにするのが目的だからだ。
――バレエなんて高いんだし、本当はやって欲しくないんだから。
不機嫌に言い放つ母親の姿も蘇ってきて思わずガラス張りのギャラリーを見上げる。
ペットボトルのお茶を飲んでいる貴海伯母さんの隣でお母さんは眠っている詩乃ちゃんを抱いていた。
ピンクのベビー服を着て寝入っている赤子がまるで我が子であるかのように穏やかに微笑んで見下ろしている。
プール特有の塩素臭い匂いが思い出したように鼻先を通り過ぎた。
五月ではまだ冷たく感じる屋内プールの水に馴染んできた体がまた透明に溶けていく感覚に襲われる。
不意に、こちらの目線に気付いた伯母さんが笑って手を振った。
こちらを見て笑ってくれたのは母さんでなく伯母さん。
それだって本当の息子である雅希君のついでだろう。
申し訳程度にこちらも笑顔で手を振り返してから目をプールに戻して浮き輪をビート板代わりにしてバタ足で移動する。
まあ、せっかく高い(から本来自分たち母子だけなら泊まれないのは何となく察せられる)ホテルに泊まりに来てるんだし、お母さんが少しでも機嫌良く過ごせているならそれでいいんだ。
俺を観ていなければ、その分だけ後から怒られる材料も増えないから気が楽だし。
ザブンと頭からプールに潜り込む。
ゴーグルをしていない視野は水色のクレヨンで塗り潰したようになった。
――ハルは弱いんじゃない。優しいんだ。
一年余り前にそう言ってくれた美生子の顔と声、その時に纏っていた淡い水色のコートが浮かんだ。
いいや、俺はやっぱり弱いんだ。
見ていてイラつくような子供だから、お母さんも冷たいんだ。
――美生子ちゃんは活発だから。
――雅希君みたいなハキハキした男の子ならいいのに。
母親の苦々しい顔と吐き捨てる風な声が蘇る。俺が積極的に何か楽しもうとすると物凄く馬鹿なことをしたみたいに叱り付けるのはお母さんじゃないか。
ザバッと再び頭を水から出すと、今度は濡れた頭に触れる空気の方がひんやりと冷たかった。
浮き輪に掴まった足が爪先しか着かない。
どうやら水遊びスペースでも深い所に来てしまったようだ。
「ハル?」
聞き覚えのある声が飛んできた。
「サーシャ!」
ここで会うとは思わなかった相手だ。
*****
「君も来てたんだね」
プールサイドを近付いてくるサーシャがミルクのように滑らかに白く、まだ子供の背丈に比して頭は小さく手足はすらりと長い体に着けているのは、小学校のプールで使うような黒い海パンだ。
不思議なもので、このプラチナブロンドの王子様が身に付けていると、そんな地味で垢抜けない水着が素朴な装いに見えてくる。
塩素の匂いに混じってふわりと甘い洋菓子じみた香りが届く。
これはこのロシアの男の子が近くにいるといつも仄かに漂う匂いだ。
「こんにちは」
後ろに立つ姉のターシャもやはり白くてすらりとした体に瞳と同じエメラルド色の水着を纏っていて、何だか等身大のバービー人形じみて見えた。
「お友達かい?」
泳ぐコースから上がってきたらしい伯父さんが穏やかに笑って近付いてくる。
雅希君もその背後から外国人姉弟を物珍しげに見詰めた。
「バレエ教室で一緒なんです」
能力は段違いだが、同じ教室に通っていることに変わりはない。
「ハル、お兄ちゃんもいたんだね!」
サーシャは水色の瞳をいっそう大きく見開いた。
どうやら自分と一つ違いで顔形も似た雅希君を兄弟と誤解しているようだ。
「いや、お兄ちゃんじゃなくて
このロシア人姉弟に「はとこ」と言って通じるだろうかと訝りつつ、同行の二人が兄や父ではなく親族でももっと遠い間柄であることを説明する。
俺は一人っ子でお父さんもいないのだ。そう思うと、再従兄父子とロシア人姉弟の間に立つ自分の場所だけ見えない線で区切られている気がした。
「ミオちゃんはプールでは泳いでないの?」
バービーじみたロシア人の姉の方がプール全体を見回してからどこか労るような柔らかな笑顔で尋ねた。
後ろに立つ再従兄弟父子の目線が自分をすり抜けてこの華やかな水着のロシア美人に見入るのを感じた。
「今日はうちだけで来てるんでミオは一緒じゃないです」
“うち”って何だろう。
本当のところは再従兄弟一家の旅行に自分たち母子がお情けで仲間に入れてもらっているのだ。
けれど、そんな説明までここでする必要はない。
プールから上がって暫くした体に濡れた水着が張り付いたまま冷えていくのを感じた。
塩素の匂いがツンと思い出させるように通り過ぎて鼻の奥が痛む。
「君たち、キョーダイでない?」
すぐ前に立っているロシア人の弟は水色の瞳をさっきよりもっと大きく見開いて“キョーダイ”のところを半オクターブ高い声で発音すると続けた。
「いつも一緒だから、ミオがお姉さんだと思ってた」
“キョーダイ”とは「兄弟」のことで、サーシャが、というより、このロシア人姉弟が、自分と美生子を実の姉弟と今まで誤解していたのだとそこで判った。
俺にとってのミオがサーシャにとってのターシャさんと同じ存在だと。
不意に、斜め上のギャラリーのある方角から自分を見下ろしている眼差しを感じた。
視線の主が誰なのか振り向いて確かめることは出来ないが、多分、俺が期待するような温かい笑顔を浮かべてはいない。
あはは、と空気が抜けるような笑い声の後に自分でもゾッとするような陰鬱な声が耳の中に響いた。
「違うよ」
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