第二十四章:二人のメモリー――陽希十九歳の視点(一)
「それでいいの?」
街路樹の桜ももう黄緑の葉桜に切り替わりつつある今の晴れ空の下では少し暑そうに見える、狭い肩を隠した大きめの黒いジャケット。
細首を補強するように襟を外側に折った、ブルーグレーのタートルネック。
脚の線を覆う焦げ茶色のワイドパンツ。
そんな服装に女性としては中背よりやや小柄な体を包んだミオは冬の間にザンギリ頭からミディアムショートにまで伸びた頭を傾げた。
マイルドな男装だが、タートルネックのブルーグレーに反発するような薄桃色の丸い顔や栗色の柔らかな前髪に半ば隠れた大きく円な瞳、ジャケットの広い袖口から突き出た小さな手を見れば女と判る。
こいつがどれだけ男に紛らした格好をしても、間違い探しのために描かれた絵のように女としての特徴が自ずと浮かび上がってくるのだ。
ふと相手の黒いジャケットの肩にはらりと白い花弁が落ちて着いた。
真っ白に見えて仄かにピンクを帯びていて、縁の尖ったところがぽつんと濃い
服の肩に着けたミオ本人は気付く様子もなくこちらを見上げている。
自分だけがこの瞬間は全てを見通しているのだ。
その感覚も何だかおかしくて笑いながら答える。
「いいんだよ、俺が欲しいって言ったんだから」
社会人として初めての一週間を終えた土曜日の午後。
幼馴染と二人で店に行って自分の誕生祝いとして買ってもらったのは慶事用のシルバーのネクタイだ。
率直に言って、IT系の今の職場では先輩たちの服装を見てもスーツにネクタイを締めることは滅多になさそうだ。
だが、冠婚葬祭、特に結婚式などお祝いの場に出る特別なネクタイが一本あると安心だという気がしたし、それをミオからの贈り物としてもらいたかった。
値段は自分のプレゼントした名前入りのUSBメモリを若干上回るが、非常識に高いブランド物とかいうわけではないし、誤差の範囲内だろう。
社会人とはいえ高卒でまだ給料も貰っていない俺より東京の私大に通うこいつの方が余裕はあるだろうし。
頭の中でそんな算盤を弾く自分がいかにも小さくせせこましく思えたが、今日は土曜日で、明日も休みで、そして、今はミオと二人きりでいるのだから、楽しいことだけを考えよう。
「これからどうする?」
「ハルはどうしたい?」
「そうだね」
まるでデートだ。葉桜の枝を透かした、花盛りの頃より僅かに強さを増した陽射しを浴びながら、休日の人の波を見渡して笑う。この見ず知らずの人たちの目には十九歳の自分たち二人が「学生のカップル」のように見えているだろうか。
「どっかでコーヒーでも飲むか」
もし、今、この瞬間、暴走車に撥ねられたり将棋倒しが起きたりして二人共死んだら、
「幼馴染のカップルが東京で不慮の事故に遭って一緒に死んだ」
と郷里の知り合いも思うのだろうか。
――笹川には東京に彼女さんもいるし、羨ましいよ。
結果的に三年間同じクラスだった杉浦の目を糸にした卒業式での笑顔が浮かんだ。彼は隣県の専門学校に進むことになった。
――俺らも東京に遊びに行きたいから、その時は案内して。
地元の大学に一緒に入った
彼らがそういう形で高卒で働く自分をさりげなく励まそうとしていたのは知っている。
地元のトップ校を出て東京の私大に通う彼女とせいぜいが中堅どころの高校を出て働く俺なんか不釣り合いだとも実際の所は思われているだろう。
日蔭に入って、アスファルトと排ガスと飲食店特有の油の入り混じった匂いを含む風がひやりと通り過ぎた。
「ミオコ」
不意に雑踏の中から浮かび上がるようにして声が飛んでくる。
自分の名ではないのに反射的に振り向いた。
「ミオコだよね?」
人の波の中から、真っ直ぐな黒い短髪に銀縁眼鏡を掛けたキャラメル色の小さな顔をした、クリーム色のハイネックセーターにチャコールグレーのテーラードジャケットを羽織った男が近付いてくる。
誰だ、こいつ?
パッと見た感じ三十前後だから大学の同期とかサークルの仲間などではなさそうだ。
“講師”、“研究員”という言葉が浮かんだところで近付いてきた男は自分を擦り抜けて隣で固まっている幼馴染に向けた眼鏡の奥の目を細める。
そんな風に表情に色が付くと、ひどく人懐こい印象になった。
「ちょと、見掛けたから」
こいつ、日本人じゃねえ。
イントネーションとどこか上擦った声から察する。
ミオには東京に自分の知らない友人知人がいて、どこかで彼らと出会す可能性はある。
これは上京する前から想定していたことだが、こんなにも早く、しかも外国人の知人が声をかけてくるとは思わなかった。
何よりも、この男は顔も体格も一見して俺に良く似ているのだ。
むろん、異邦人で年も十歳くらい上、
そこまで見て取ると、東京の春はもう随分暖かいからとうっすら毛玉の付いたオリーブ色のフード付きパーカーを着てきた自分がいかにも貧乏臭くかつ野暮ったく思えた。
ミオだって男装なりにお洒落な格好をしているのに。
そう思いつつ隣の幼馴染に目をやると、円な瞳は固まったように見開かれ、顔の薄桃色は血の気が引いて褪せたように白くなっていた。
「お友達?」
銀縁眼鏡の眼差しがこちらに移る。
さっと青葉じみた香りが鼻先を通り過ぎた。
これはコロンか何かの匂いだろうか。頭の片隅で察する。
そんなこじゃれた物も自分は持っていないし、今まで買おうとすら思ったことはなかった。
「はい」
くぐもった声が耳の中に響く。
そうすると、こちらを見詰める人懐こく細まった目にふと寂しい影が差すのが認められた。
“外国人の自分には拒絶的な態度で接する程度の低い日本の若者”
そんな風に初見の相手も感じているのだろうか。
でも、ミオだってこいつには明らかに会いたがってないようだし。
「同じ地元の友達です」
隣の幼馴染が言い添えた。
これはミオが本当は苦しくてもそれを出せない時の笑い顔だ。
異邦人は“知っているよ”という風に寂しさを潜めた笑顔で繰り返し頷くと答えた。
「お友達、沢山いるね」
ごく穏やかな、皮肉や当て擦りめいた調子など含まない声だったにも関わらず、
一体、誰なんだ。ミオにとってどんな人間なんだ、こいつは。
こちらの思いをよそに自分たちより一回り上の相手は人懐こい笑顔に戻ると片手を挙げて告げる。
「じゃ」
異邦人は黙した自分たちに背を向けて人混みに戻っていく。
後ろ姿になると身に着けたテーラードジャケットや革靴の高価な感じが一層際立った。
嫌な男だ。自分で認めるのが惨めなので敢えて気付かない振りをしていた相手への反発がはっきり嫌悪の形に固まるのを感じた。
「あれ、誰?」
人混みの中で辛うじて黒髪の頭だけが小さく確かめられる相手にはもう届かないだろうが、むしろぞんざいな言葉を聞かせてやりたいような気持ちで隣の幼馴染に尋ねる。
ミオはまだ固まった面持ちで遠ざかっていく異邦人を見詰めている。
その様子を目にすると、カッと胸の奥が余計に燃え立つのを覚えた。
こっちを向け。
そう告げたい気持ちで頭一つ分小さな幼馴染の顔を覗き込む。
「中国語の先生とか?」
日本人ではないし、年齢からしてもそれが相応しく思えた。
もしかして、教室ではおっかなくて苦手な先生だったりしたのかな?
そう考えると、多少あの男が安全で許せる存在に思えた。
「いや、留学生だよ」
ミオは苦しくても取り繕わなければならない時の笑顔で訂正すると、まるですぐ傍に立つこちらにすら聞き付けられるのを恐れるような小さな声で付け加える。
「一応ちょっと付き合ってた、元カレみたいな人」
思い切り頭を殴られたような、殆ど身体的な攻撃を受けたに近い衝撃が走った。
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