第二十五章:心に合わない器《からだ》、器に沿わない心――美生子十九歳の視点(一)

「それじゃ、どうもお疲れ様です」

「どうもありがとうございます」

 深々と相手に頭を下げ、リノリウムの床で極力音を立てないように黒の合皮サンダルの足を早めに進める。

 事務員の人はもう自分を注視してはいないだろうとは知りつつガラス張りのドアを静かに引いて出る。

 七月初めの蒸した空気がまるで暖房さながら押し寄せてきた。

 それでも背筋を伸ばして早足で進んで予備校の敷地から通りに出たところでほっと息をつく。

 今回は二科目分を担当したから一万五千円弱は貯蓄用に新たに作った口座に入るはずだ。

 殆ど徹夜で赤いボールペンを持っていた手はすっかり痛くなってしまったが、自室で黙々と出来るこの模擬試験答案の採点のアルバイトが一番今の自分には向いているのだと思う。

 それまで単発でホテルの配膳や工場の流れ作業のアルバイトも何回かしてみた。

 しかし、きつい言葉を掛けられて凹むことが少なからずあり(自分は結局メンタルが弱いのだろう)、また、ショートカットにはしていても当たり前のように女物の制服を貸与されたり女子更衣室を使うように誘導されたりするのが苦痛で、自ずと在宅で出来る仕事を探すようになった。

 幸い自分が通っているのは偏差値の高い大学なので模擬試験の答案を採点するバイトには採用された。

 だが、その時々で担当する分量もまちまちなので貯蓄用の口座に溜まった額も吹けば飛ぶようなものだ。

“東大入試プレ”

“京大入試プレ”

“大学入学共通テスト入試プレ”

 近隣の他の予備校や塾のショーウィンドウに貼り出されたポスターの模擬試験の日程を目にすると、こちらの方があるいはもっと報酬は良いだろうか、今からでも問い合わせすれば採用してもらえるだろうかという求職者の目線で眺めてしまう。

“志望校別都立・公立中高一貫校オープン模試”

“夏期講習無料体験授業受付中”

 ここはどうやら小学生メインの塾のようだ。

 ショーウィンドウには塾のイメージキャラクターらしき動物が早くも向日葵の横で麦藁帽子を被って虫取り網を手にしたイラスト入りの夏期講習のポスターが貼られている。

 俺も昔は夏期講習に通って国立の附属中に良い判定も出ていたし学科試験でも合格したのにクジ引きで落ちちゃったんだよな。

 自分はいつも肝心なところで巡り合わせが悪いのだ。

 磨かれたガラスの壁から半ば影になった蒼白い顔が虚ろな眼差しで見返してきた。

 髪を切り揃えたばかりの、男女兼用のネイビーブルーのショルダーバッグを肩から提げ、下に着たハーフトップのおかげでターコイズブルーのTシャツの胸は何とか平らには見せてはいるものの、黒のハーフパンツの尻はいかにもきつそうな体つきをした、遠目には白く毛のない脚に平たい黒のサンダルを履いた大学生。

 ふと思い出したように仄かなレモンの香りが鼻先を漂う。

 女の装いはやめたが、汗臭いのは気になるので制汗スプレーだけは点け続けている。

 ガラスに映ったそんな自分の姿を眺めながら歩いていくと、ふとその半ば影になった姿に蛍光ピンクや黄色の長方形が重なって浮かび上がった。

 あれ……?

 目を凝らすと、ガラスを隔てた塾の教室のホワイトボードの傍に色とりどりの短冊を吊るした笹が飾られていた。

 そういえば今日は七夕だっけ。特に休みになる日でもないので忘れていた。

 多分、塾の笹飾りだから「志望校に合格できますように」とか「成績が上がりますように」とかそんな願い事を子供たちが短冊に書いて吊るしてあるんだろうな。

 俺もそんな風にした記憶があるし。

“本物の男になれますように”

 物心付いた時からの願い事は一度も短冊に書き表して他人の目に触れる場所に吊るしたことはない。

 年に一度、今夜しか会えない天上の夫婦だってそんな依頼は手に負いかねるだろう。

 ポツリ。

 不意に目の下に冷たい滴が点るのを感じた。

 フワアッと湿ったアスファルトの匂いを孕んだ熱い風が通り過ぎるや否や、まだ明るさを多分に残した夕方の空から雨が降ってきた。

 急いで近くのビルの軒下に入ってポケットからスマートフォンを取り出し、LINEのトーク欄を開く。

“雨が降ってきた。先に予約した店の近くに行ってるからゆっくり来て大丈夫だよ”

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